パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『日本一長く服役した男』

 番組は見てないけど、ネットで話題になっていたので読んでみた。面白かったので、感想を。NHK地方局で日々のニュース作っている記者と特集作っているディレクターの違いからいろいろ教えてくれて、NHKドキュメンタリーウォッチャーなら読んで楽しめること間違いなし。ETVのドキュメンタリー番組ではなるべく排除すべきとされている記者の主観を盛り込んだいわゆるニュージャーナリズムというやつです。

 読んだ私自身いろいろな立場を持っているので、それぞれの立場から読んだ感想を書いてみよう。

 

(1)TVドキュメンタリーウォッチャーとして

 杉本による終章が読みどころ。ドキュメンタリー批評のネタがいっぱい詰まってた。

 論点その1。Aさんと社長の言い合いのシーン。こういう調べ物ドキュメンタリーでは出てこない場面こそが見どころよね。

「取材班も何が起きているのか言語化できなかったが、なぜか引き込まれる映像であるのは間違いなかった。」p.287

 論点その2。ラストの社長インタビュー、前段と後段のどちらを使うか問題。スタッフ間で議論したあと、社長と長く近くで過ごした木村の意見を尊重したのが面白かった。もし本当に言いたいことがあるとしたら、前段の理詰めの回答より沈黙の後の躊躇いながらの後段の方だろうというのは納得いく。

森戸カメラマンの言葉「いいか、説明してもらうだけがインタじゃない。インタには情報を撮るものと、感情を撮るものがあるんだ」p.292

 私がドキュメンタリー批評でずっと書いてきたことと繋がってて嬉しかった。情報なら文字媒体の方が強いんだから、映像メディアは感情を撮らなきゃ意味がない。

 本書は木村と杉本が章を交互に書いていて、どっちが書き手かは意識しないで読めるように書いてあるんだけど、実は1章ずつ飛ばして同じ筆者の章だけ続けて読んだら全然読後感が違ったりして。そんな面倒な再読はしないけど。早大政治学研究科修士(政治哲学)の杉本は、自称「よく言えば“理念重視・理論派”、悪く言えば“頭でっかち”」(p.52)なだけあって、考えていることが面白い。「“顔”かあ。レヴィナスかなあ、哲学・倫理学者はレヴィナス好きよなあ」と思って読んだら、ちゃんと巻末の参考文献にレヴィナスあった。さすが政治哲学修士

 

(2)認知症高齢者GHで働く介護労働者として

「Aの日常生活の支援を最優先で考える職員の視点と、Aの人生そのものに迫りたい私たち取材班の視点は大きく違う。だから、その印象や抱える課題も異なっているのも当然だが、私たちは職員と比べて、もどかしさを感じてしまっていた」p.71

 六車由美の介護民俗学に憧れてこの仕事をやっている面もある身としてはなかなか刺さった。私も本人からいろんな話を聞いて人生そのものに迫りたい気持ちはあるんだけど、波風立てずその日一日終わってくれたらありがたいなあマインドにすっかりなってしまっている身には刺さった。

 毎日だいたい聞いた事がある同じ話を入居者から聞いているんだけど、ふとしたきっかけで記憶の扉が開いて饒舌に新しい話をし始めた時のワクワク感とか、100回聞いた同じ話に変化球の相槌を打っても向こうは興味を失って手ごたえない返事しか返ってこない時のガッカリ感とかを想起させる。A氏は統合失調症の疑いありだが認知症ではない感じで、問い方次第でもっと饒舌になる機会はあったんじゃないかと思うけど、まあ言うは易し。

 

(3)RJに興味を持つ自称アスペとして

 巻末の参考映画をみたら坂上香『プリズンサークル』があって、文中には出てこないけどそりゃそうかと。個人的には反省は内面にしかないものだろうと思うけど、社会の要請に従って反省を見える化するのが必須なら社会のコードを知らないといけないんだけど、アスペにはなかなか厳しい。

 あるベテランデスク「罪の意識と罰、っていうのは、最終的には個々人の心の問題に集約されてしまうので、果てがないし、他者が想像しても詮ないというか」(p.294)とはよく言ったものだが、他人の心を詮索するのがドキュメンタリーの持ち味でもあるから難しい。

 

(4)余談

 加害者の生育環境を敢えて記述したらネットで叩かれる時代だから大変よね。最近の犯罪ノンフィクションを読むと、加害者側が書き割りみたいな薄っぺらい敵役でビックリしてしまう。

 「被害者家族の悲しみ」っていう表現はたぶん沢山出てくるんだけど、家族の怒り・憤りって表現はほとんど出てこないんじゃないか。河合教授への取材では「「悲嘆」「憤怒」「虚脱」といった異なる感情を行き来し」(p.212)とちゃんと書いているのに、地の文になると悲しみしか出てこない。著者はたぶん分かってて書いてて、ちょっとずるい。「加害者の処遇がどうなろうと家族の悲しみは癒えません」と書くとなんだかそれっぽいけど「家族の憤りは収まりません」だと家族側に主体性が出てくるというか憤りという感情には積極的に応答すべきではという気にさせられるから敢えて避けたのでは、と思ってしまう。

 2020年9月って、パンデミック真っ最中だった気がするけど、お葬式に人をいっぱい集めてよかったんだっけ?とふと思ったけど、ちょうど最初のピークが終わってやや自由になってたんだっけ?記憶はすぐに曖昧になるのう。コロナ陽性の遺体だけ扱いが違って、普通のお葬式は普通にできたんだっけ?マジ忘れた。

 貴史さん(仮名)、60代だと思うけど、病気とはいえ老人ホームの入居は早い気がした。

 およそ20年前に裁判所で裁判記録(not判決文)を閲覧したことがあるけど、その時は一切のコピーやメモが禁止で、読むだけだった記憶。