パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

BS-hi『ハイビジョン特集』〈シリーズ この国を見つめ〉「新、在日日本人。〜日本のパスポートが欲しいですか…!?」

2007/5/2初回放送、90分、撮影:杉山徹、ディレクター:玄真行、プロデューサー:中村芙美子、制作統括:小谷亮太/田中文弥、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK/東京ビデオセンター
ちなみに、放送前の仮題は「新在日外国人〜アナタは日本のパスポートが欲しいですか」。
前半部はいわゆる「新在日外国人」の話。無理矢理にまとめると、日本には内/外を分ける基準が3種類ある。その1は言語、日本語が話せればまず生活には不自由しない。その2は容姿、どんなに日本語ペラペラでもラテン系とかペルシア系とかいわゆる「外人顔」をしていると、いつまで経っても通りすがりにジロジロ見られたり異邦人的な扱いを受ける。その3はパスポート、法的に日本人であることは国際的には有利に働くことが多い。新在日外国人は「1〜3まで揃わないと日本人のアイデンティティは持てない」とは考えず、結構実利主義/現実主義である。
一方、玄ディレクターは在日韓国人、生まれも育ちも日本なので韓国語はほとんど出来ない。容姿で「外国人」に線引きされることもまずない。申請すれば日本のパスポートを取得するのもそれほど困難ではない。新在日外国人の視点からみれば、玄ディレクターが「日本人」になるハードルは低いが、彼自身はアイデンティティを日本人でもなく韓国人でもなく在日コリアンに置いている。今まで日本を故郷だと思ったことはなかったし、日本に渡って苦労した両親のことを考えると法律上の日本人になることにも抵抗があった。「日本のパスポートを持ちたい」と屈託なく話すイラン系女性に違和感もある(自分は「民族籍はイランで国籍は日本」を選択する女性に違和感なかった)。だが新在日外国人に接している内に、最近は「日本のパスポートが欲しい」という気持ちも出てきたようだ。
本作品は、玄ディレクター本人の意識を隠して公正中立を装った「新在日外国人」のドキュメンタリーではなく、番組の中に「玄ディレクターの視点を通した新在日外国人の心中」と「玄ディレクターの視点を通した新在日外国人を通した玄ディレクターの心中」が混ざっている作品なので、視聴者は視点の置き場に困ってしまう。端から見ると日本人の3条件をクリアしている玄ディレクターが「日本語は難しいです」「私はどう見ても日本人って顔じゃないです」な新在日外国人に「アナタは日本のパスポートが欲しいですか」と尋ねて回っても、家族や歴史に由来する彼のアイデンティティ問題に対する回答は見つからないと思うし、ピントがずれた模索のようにも映った。よって玄ディレクターが「複雑な民族の歴史を背負っている自分は永遠に新在日外国人のようには割り切れない」のか「新在日外国人を見ている内に自分の心中も変化してきた」のかもよく分からなかったが、むしろそのモヤモヤこそが個人的視点を活かしたドキュメンタリーらしいというか、その辺りの曖昧さを残したままでも作品は充分成立したと思う。その中で、たとえば「日本国籍申請の相談に行ったら『あなたの事例なら簡単に取れます』と言われたので、逆に急いで取る気がなくなった」という中国人女性の話なんかは、玄ディレクターの心中とうまく重なるピントが合った取材対象という印象を受けたし。
だが、ラストの少し前に以下のような居酒屋トークが入る。

玄ディレクター:僕は何人(なにじん)になればいいですかね、こういう奴は、マスター。
(後輩の新在日韓国人・田容承氏からパスポートに書かれた本名と日頃の名前(ゲンマサユキ)が違うと指摘され)
玄ディレクター:だから、不自然だって思ったから、日本人になろうかなあと思ったんですよ。
田氏:玄さんが「ゲンマサユキ」って書いたパスポート持ってきたって、俺、嘘だと思うよ。この国に必要なのはパスポートじゃないんだよ。自由なんだよ、自由。玄さん、自由になりたいだけでしょ。普通はみんな自由なんですよ。自分の名前どおり生きてて、生まれ育ったところを故郷だと、当たり前なのよ。当たり前のことが出来なかったから、そう思っているだけであって、日本のパスポートをもらえば、故郷が出来たり、「ゲンマサユキ」が出来たりと思ったら、大嘘に決まってる。それは玄さんも分かっているでしょ。

この「他者の視点を通した玄ディレクターの心中」を説明するシーンは不必要だと思った。申し訳ない言い方をすると、このシーンはすごく芝居がかっていた。もちろん作った台詞だとは思わない。日頃からそれぞれが心の中で感じていたことを整理して語るというドキュメンタリーで許される範囲の演出なのかと。ただ玄ディレクターが居酒屋の御主人に質問を投げかけるところからして芝居のキュー出しのようだし、田氏の発言は心情を説明する演劇のト書きみたいだし、それまでの番組のトーンとは少し違う印象を受けた。もちろん田氏の発言が玄ディレクターの心中を的確に代弁しているとは限らないのだが、それにしても整合性があり過ぎるというか、このシーンがない方が心中/ドキュメンタリーの解釈に多様性/奥行きが出たのではなかろうか。もしかすると「最近のテレビ視聴者はバカだから、ここまで説明しないと(まさにこの文章のように)誤読されてしまう」ということかもしれない。或いはこのシーンで登場する居酒屋の客は皆クリエーター畑の人達なので、カメラが回っている場所でもサクッとああいう心に刺さる深い話が出来るのかもしれない。そこは自分の推測でしかない。
もう一箇所、玄ディレクターが(田氏とは別)新在日韓国人の娘へ登校中にインタビューするシーンで、

玄ディレクター:あなたのお父さんとお母さんは韓国人だけど、あなたは日本で生まれて日本人の中で育ってるでしょ。どう思う? /少女:いや、別にいいと思う。 /玄ディレクター:いいと思う? なんで?/少女:…

という質疑はどうかと思った。森達也×土屋敏男(日テレ)の対談で、土屋氏が「カメラの前の素人にキュー出しのタイミングをずらすと、準備していたことが頭からトンで素が出る」みたいなことを書いていた記憶がある。日頃から「こう聞かれたらこう答えよう」と準備している人間にカメラ前でインタビューしても、インタビューイが主導権を握った所信表明演説になる恐れがあるから、ドキュメンタリー作家としては色々と“ずらす”テクニックを繰り出すのは理解出来る。しかし、まだ意見も感情も固まっていない10歳前後の少女に一瞬答えに詰まるような質問をしても意味があるとは思えない。たとえ困った表情を映しても「このおっさん、なに言ってんの?」くらいの意味しかないだろう。プロのドキュメンタリー作家が90分の中で無駄なシーンを残すはずはないから何らかの意味があるのだろうが、自分には読み取れなかった。
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〈シリーズ この国を見つめ〉第2回「ギャル革命のイマ」
2007/5/9再放送(5/1初回放送)、90分、取材協力:杉作J太郎、撮影:高橋秀典、取材:佐藤純子、ディレクター:長嶋ヒロヤス、プロデューサー:二宮一幸/斉藤圭介、制作統括:小谷亮太、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK/アウンズ
最後は監督の技術で心をゆさぶって藤田社長を無理矢理泣かしているけど、監督も手応えがなかったのだろう。革命といっても「サラリーマンって無気力に会社と家を往復しているだけかと思っていたけど、1人1人を見たら組織の中で出来る限り創意工夫したりして充実した時間を送っている人が大多数なんだね。私達の偏見だったよ」の裏返しなんだから、そりゃあ何か珍しいものが出てくるはずもない。
取材協力に杉作氏の名前があるのが目に止まる。氏のサイトを見たら「2007年5月1日 NHKハイビジョンにて杉作J太郎監督のドキュメント番組放送されます!」→「5月1日、BSハイビジョンで放映が予定されていた杉作J太郎ドキュメントが放映延期になりました。放映日が確定次第改めてお知らせします。」とある。これとは別口で杉作氏制作のドキュメンタリーがあったけど何らかの事情で放送出来なかったのか、杉作/長嶋の共同で制作を始めたけど途中で決裂したので申し訳程度にクレジットだけなのか。経緯がよく分からない。
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〈シリーズ この国を見つめ〉第1回「男と女の民主主義」
2007/4/26初回放送、90分
こういう作品に、30歳過ぎた独身男が何を言っても仕方ない。そのうちに社会への僻みというか被害妄想をちゃんとした屁理屈をこねて文章にしたいと思ってはいる。
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ドキュメンタリー番組にありがちだった時事的、説明的コメント、客観中立的演出を排し「作り手の強烈な個人的視点」「実験的手法」に重点を置き、現代日本をディレクターの個性で描く。(公式サイトより)

という意欲的な試みだったので、TVドキュメンタリーウォッチャーとして3作とも頑張って見たが、逆に公正中立・無味無臭を装った調査報道的なドキュメンタリーというフォーマットがテレビという媒体ではいかに優れているかを再認識した。作家性が強くて視聴者のターゲット設定が分からない作品は疲れる。意識の高い人が映画祭で見て監督と議論するとか、『M/OTHER』や『誰も知らない』(どちらも見たことないけれど)のようにお金を払って映画館で見るべき作品のように思えた。