パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

「ながら見」も出来ないTVドキュメンタリーなんて…

いまNHKの海外調査報道系ドキュメンタリー制作者のなかでは良い仕事をしている1人と思っている酒井裕氏の著作を読んでみた。せっかくなので以下に著書に書いてあった経歴をネット史料として引用しておく。

酒井裕(さかいゆたか)
フォト・ジャーナリスト。1951年生まれ。外国通信社に所属した76年からアジア、中東、アフリカ、中南米の戦争を取材。85年フリーに。97年にはカンボジアの木材疑惑を追った一連の作品をNHKで放送した。著作に『コサックの旅路』などがある。

てっきりNHK内でドキュンメタリーを制作した後、独立してフリーディレクターになった人かと思いきや、外部からのたたき上げだった。

読んでて引っ掛かった所を幾つか引用する。
シエラレオネで発生したイギリス人技術者誘拐事件に関して、

どうもわからないと首を捻っていると、そういう事件は珍しくなく、イギリスでは関心を集めないのだとエイドリアンは説明する。
「誰がお願いしたのではなく、言わば自分たちの意志で行ったのだろう。誘拐事件に巻き込まれたとしても当人の責任だよ」
これが国柄の違いというのだろう。どうも日本人と彼らヨーロッパ人との間には、安全についての認識も、その対応の仕方にも根本的に大きな隔たりがあるようだ。あるいは、日本人が危機管理に疎いのは、何かあれば国が助けてくれるという甘えがどこかにあるのかもしれない。
(P.146)

2004年の自己責任論によるバッシングブームの時は、良識派から「自己責任を唱えて誘拐された人間をバッシングするのは日本政府と日本国民だけだ。海外で困難に陥っている国民を政府が助けるのは国際的な常識」みたいな世論批判が上がったものだが、ここでは逆の意見。人はみな自分の意見を補強するためだけに「世界の趨勢」とか「国際感覚」なんて言葉を簡単に使う。

シエラレオネもその典型だが、国際社会は和平のプロセスとして選挙の実施ばかりにこだわりすぎた。選挙は和平の最終目標であり、第一段階ではありえない。むしろ早急な実施が何の解決にもならないのは自明であるはずだ。たとえば、三十億ドルの巨費と二万人以上の要員が投入され、国連史上かつて例を見ない壮大な実験と呼ばれたカンボジア和平もそのひとつだ。UNTACは、紛争各派の武装解除もできず、ただ、選挙だけを強行し、大きな禍根を残すことになった。規模は違うが、まったく同じ失敗がここシエラレオネでも繰り返されようとしている。
(P.261)

カンボジアUNTACは、失敗続きだった90年代の国連のなかでは例外的に成功した事業例だと思っていたが、酒井氏は失敗とみなしている。略歴にあるようにカンボジアで取材した経験があるからなのかもしれない。

BS1BS世界のドキュメンタリー』「新聞が消えた日〜ジャーナリズムの未来への問いかけ」
2009/7/11放送、50分、撮影:岡野崇、ディレクター:酒井裕、制作統括:中山茂夫/山元浩昭、制作:NHKエデュケーショナル、制作・著作:NHK/エス・ヴィジョン
話の筋は2本。
一つは、伝統ある地方新聞社が潰れる話を時系列に沿ってオーソドックスに追ったもの。昔から購読収入と広告収入をバランス良く集めて経営していたのが、近年になって同じ地元のライバル社との競争が激化し、広告が欲しいが為に部数競争→値下げ競争して最後にはほぼフリーペーパー化→広告が不況とネットで激減→収入のあてがなくなり親会社が見放した。こんな感じか。
これに、潰れた新聞社で調査報道を担当していた女性ジャーナリストの話が差し込まれてくる。地元の核施設で働いていた人達への健康被害を調査していたけれど、途中で所属する新聞が廃刊となり、以後ウェブで活動している報道系サイトに寄稿してみたりして調査結果を何とか世間に伝えようとするけど、あんまり上手くいかないねって話。
とても分かりにくい。何故分かりにくいかといえば、視聴者にはこの2つの話が交互に出てくる理由が分からないから。キーワードは番組が始まってから28分経って流れるナレーション「新聞が消える、それが社会にどんな影響を及ぼすのか」、恐らくこれが番組の主題。そして恐らく以下の本が元ネタ。自分は読んでないが、おそらく内容の元ネタではなく問題意識の元ネタ。

新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか

新聞が消える ジャーナリズムは生き残れるか

本の内容は要するに「地域紙とはアメリカにとって草の根民主主義の根幹である。いま自分が住んでいる地元で何が問題なのか、何が争点なのか。それを調査・取材して公に公表するのが地域紙の役割。それが消えてしまったら、誰が権力を監視するのか。誰が横暴な大企業を監視するのか」ということだろう。コミュニティ意識が高いアメリカならではの問題意識であり、ドキュメンタリー制作者の問題意識も同じところにあるのだろうと想像は出来るけど、警察発表をそのまま流しているだけの全国規模の大新聞が寡占している日本の状況にはそのまま当てはまらないので今一つピンとこない。
ドキュメンタリー好きからすると「新聞の消えることが社会に与える影響」なんて抽象的なものを映像で可視化してやろうという野心的なドキュメンタリーであり、さすが酒井氏といえる。だけどすごく分かりにくいんだ、これが。初回放送時、ながら見してて終わった時にさっぱりピンとこないままエンドクレジットで酒井氏の名前を発見、録画したものをもう一度ながら見しても脳を左から右に流れ、これではいかんと真面目に3回目を見てやっと理解した。「最初から真面目に見ろよ!」と言われたらその通りなんだけど、そもそもテレビって他のことをしながらチャンネルをザッピングしながら見るものだ。さーっと流して全然頭に入ってこないような構成のドキュメンタリーは山形の映画祭にでも出しとけっていう話だ。それは言い過ぎにしても、約50分テレビの前に正座してきちんと見て欲しいのなら、せめて放送前に内容をちゃんと告知して欲しい。民放みたいにでかいテロップ入れたり、CMまたぎしたり、下品なことはしたくないならばこそ、せめて放送前に出来る限り宣伝すべきだろう。
実際にネットに載った告知文は以下の通りだけど、

アメリカで起きている「新聞の危機」。2009年2月、コロラド州デンバーの名門地元紙・ロッキー・マウンテン・ニュースが創刊150年を目前にして、廃刊になった。ピューリッツァー賞を何度も受賞するなど、その報道内容が高く評価されてきた新聞だった。インターネットの普及と読者離れ、経営を支えてきた広告が集まらなくなる現実、経済危機、ライバル紙との不毛な競争、新聞の将来を見切った親会社の姿勢…。様々な要因から存続を許されなくなる新聞の現実が、ロッキー・マウンテン・ニュースの廃刊から見えてくる。その結果、失ったものは何なのか、そしてジャーナリズムの未来はどうなるのかー。ロッキーの元新聞記者、ローラ・フランクルの目を通して、ジャーナリズム先進国アメリカで起きている問題を見つめる。
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090711.html

まあ悪くはないけど、これでほんとに視聴者が見たくなるのか? 見て欲しいポイントがずれてはいないだろうか?地上波ドラマのように監督や出演者が「是非見てください!」って番宣にびしびし出るわけにはいかないのだろうか? せめてプロデューサーやディレクターから放送に向けてのコメントとか貰えないものだろうか。
余談だが、“新聞記事にあってネット記事にないのは「編集」だ”という話を入れたところは良かった。どんなにプロの書き手でも一般公開する前にエディターに読んでもらって足りない箇所を指摘してもらうのは大切な事。