パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

サカヲタ・ショルティ

 サー・ゲオルグショルティは、1912年にブダペストユダヤ系家庭にシュルテン・ジェルジュとして生まれ、1997年に休暇中のフランスで亡くなった20世紀を代表する指揮者である。

 死の直前まで書かれた『ショルティ自伝』(草思社、1998年)にはサッカーに夢中になった幼少時のエピソードが載っている。

 小学校時代でいちばん楽しい思い出は、サッカーと結びついている。クラスメートはたいていが貧しい家の子で、私は自分のサッカーボールを持てただけ、みんなよりましだった。ずいぶんよく練習したものだ。私は足が早く、走るのは得意だった。いまでも試合は好きだーーただし見物するだけになってしまったが。 p.20 

 1961年にコヴェントガーデン王立歌劇場の音楽監督に就任、70年代には英国籍を取得したショルティは、晩年の多くの時間を英国にある自宅で過ごしていた。そんな時代の一コマ。

 七十五年前、ブタペストの小学生だった私は、ルーマニア人、チェコ人、ユーゴスラヴィア人はハンガリー人の敵であり、信用してはならないと教え込まれた。それがいかに深く精神をむしばむものか、私は最近になって思い知らされた。ハンガリーの選抜チーム対イングランドニューキャッスル・ユナイテッドのサッカー試合を、テレビで見ていたときのことだ。

 ハンガリーのチームには、移住してハンガリー国籍を取得したルーマニアチェコ、ロシアの選手も混じっていた。ルーマニア人選手のひとりが粗野で攻撃的で、チームの足を引っ張っていた。私は 思わず「まったく、ルーマニア人ってのは最低だな!」と口走った。そのときふと、幼いとき教師から教わったとおりに反応している自分に気づいた。ファシズム民族主義軍国主義を憎んでいるはずなのに、サッカー試合を眺めているあいだに、愚かな昔の偏見が甦っていたのだ。 pp.19-20 

 むむ、ショルティおじいちゃん、現代欧州サッカーの仕組みを理解してないんだね。今はもうナショナルチームとクラブチームは対戦しないんだよ。

 そう思った私は真相を調べる事にした。おじいちゃんがテレビで見たのは恐らくUEFAチャンピオンズリーグUEFAカップもしくはカップウィナーズカップだろう。あの当時、ハンガリーから欧州カップ戦に参加するクラブはビデオトンかフェレンツバロシュだろう。試しに”Ferencváros Newcastle”で検索を掛けてみよう。…ビンゴ! 1発目であっさり正解にたどり着いてしまった。検索マニアとしては逆に詰まらん。

 

1996年のUEFAカップ2回戦。

1stレグ:https://www.uefa.com/uefaeuropaleague/match/53298--ferencvaros-vs-newcastle/


www.youtube.com

2ndレグ:https://www.uefa.com/uefaeuropaleague/match/53299--newcastle-vs-ferencvaros/


www.youtube.com

 ユーチューブには何でもある。ミリュウタか、いたなあ。確かに見た目がスキンヘッドで粗野な感じ。当時はなんとなくハンガリー領内のルーマニア系住民だと思っていた記憶(というかよく考えたらトランシルバニアに住むハンガリー系のルーマニア国籍はありそうだが、逆はあまりなさそうで何を勘違いしたのか自分)だが、英語版ウィキペディアを読むと、元々ルーマニア生まれで、2000年にハンガリー国籍を取って代表入り。しかしリアルタイムですごい見た記憶がある選手なんだけど、経歴を眺めてもどこで見たのか覚えてない。コットブス時代だろうか。WOWOWブンデスの試合をやってた頃。ハンガリー代表の試合はほとんど見た記憶がない。リーガエスパニョーラで見たような気がするのは偽記憶。

en.wikipedia.org

 メンバー表をみると、Ihor Nichenko、Serhiy Kuznetsovはロシアかウクライナだろうけど、チェコ人が分からない。相手方のスルニチェクとごっちゃになったのだろうか。

 

 1912年にブダペストで生まれたサッカー少年、38年にナチスを避けてハンガリーからスイスに避難(ほぼ亡命)し、戦後の46年にはミュンヘン音楽監督の仕事を得て、52年にはフランクフルトで指揮を執る。53年には西ドイツの市民権も取得した。そんなサー・ゲオルグなら、54年にスイスで開かれたワールドカップサッカー決勝、ハンガリー対西ドイツ戦についてさぞかし思い入れたっぷりに語っているに違いない。そう期待したのだが、自伝では一行も触れていなかった。まあ働き盛りの40代にやっと手に入れた音楽の仕事、本業が猛烈に忙しくてサッカーどころではなかったのが本当だろう。仕方ない。

 最後に20世紀のコスモポリタンらしい本人の言葉で締めくくろう。欧州統合が理想的な夢だった世代。

 私はひとりのユダヤ人としてハプスブルクオーストリアハンガリー帝国のもとで育ち、初期のハンガリー共産主義政権、ファシズム第二次世界大戦下のヨーロッパ分割、戦後のドイツを支配した占領国の軍事政権、そして西欧とアメリカの民主主義体制を体験し、あらゆる国籍、人種、信条をもつ仲間たちと仕事をしてきた。そして人種にたいする迫害や偏見こそ、人類の進歩を妨げる悪しき力だと確信した。前へと進むためには、世界のあらゆる国民が、言論の自由や権利の平等など民主主義の原則を遵守しながら、たがいに尊重しあい共存していくほかに方法はない。民族固有の独自性は失われないほうがいいとは思うが、私自身はヨーロッパ人としての自覚が強い。ヨーロッパはたしかに統合されるべきなのだ。あらゆる時代を通して不必要に人間の命を奪ってきた過去の偏見や、宗教や国境をめぐる争いを、一切拭い去るために。 pp.292-293