- 作者: 鈴木涼美
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2013/06/24
- メディア: 単行本
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「子供の頃からAV女優さんのブログを読むことが大好きで、一日中ブログを読んでいる事もあります。かなりマニアックなブログが好きで、特に好きなブログは羽月希さんと稲見亜矢さんです」と書いても、元ネタの矢口を知らないとパロディだと判らないだろう。それはともかく、昨今流行りのアイドル論にはセクシーアイドル(AV女優)論がないじゃないかと思っていたので、何かの参考になるかと思って読んでみた。ほら、ゼロ年代の半ばからAV業界が盛んにやっている、ブログを書いて「私の作品を見て」ではなく「私を好きになって」アピールをする囲い込み方法とか、ラムタラとかアリババのような販売店で握手会サイン会トークイベントやってDVDを複数枚買ってもらう商法とか、今の「会いにいける」アイドル商法のハシリみたいな事やってたじゃん。そこ抜きにアイドル論とかありえん(怒)みたいな。以下、とっ散らかって書いていく。
第2章で「性の商品化」をめぐる言説史はまとめてあるけど、それとは別にこれこれの会話分析の手法を使ったとか言語と意識をめぐるこういう社会学の理論を援用したとか、そういう読んでて面白くない社会学的な権威づけ・箔づけの章があっても良かったかなあと思った。「小説のようにスルスル読めた」という感想を見たけど、実際この体裁だとルポやジャーナリズムより分析のレイヤーが一個上だぞって感じではなかった。
読んでいる人は2013年の今を切り取ったジャーナリズムに近い印象を受けると思うが、著者の参与観察は2004年頃までで、上がっていた参考文献のほとんどは90年代に出版されたもの。例外は『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』(岩波書店、2009年)なんだけど、未読だがこれも90年代の議論総まとめみたいなものなのではないかと推測される。その辺り2013年出版とのタイムラグは気にしないでよいのだろうか。著者は街の「気分」を反映させたかったみたいな事を何度か書いてて、それはよく分かるけれど、この本に書かれているのはゼロ年代前半の気分で、ゼロ年代後半はまた違うのではないかとか。まあ文中にも2006年頃から業界の動向も変化してきているみたいな事は書かれていたので自覚はされているのだろうし、業界の動向と今回分析対象とした女優さん個人の語り口とはそれ程関連がない、語り口は10年来変わっていないという判断なのかもしれない。
ただ読んでて感じたのは、著者は「性の商品化」問題を中心に取り上げているけど、個人的には今時の労働問題というか、やりがい搾取問題との関連に興味がいってしまう。阿部真大『搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た!』(2006年)同『働きすぎる若者たち―「自分探し」の果てに』(2007年)辺りと接続させた方が面白い話なのかなあと思ったりした。昨今の「アルバイトも経営者の視点を持て」(まあ女優さんは実際に事業主だけど)とかそれこそやりがい搾取される意識の高い若者に近いものを感じたので、「性の商品化」問題より労働問題かなと。
話の進め方、解き明かし方は、第五章の「単体AV女優から企画AV女優へ」が一番面白い。続く第六章、第七章でのまとめもわかる。だけど、
問題を複雑化するのは、繰り返すように、意志と動機をしっかりと持つことはAV女優に必ず求められるようになる姿勢である(つまり、AV女優になる、という業務の中にそれらの獲得が既に組み込まれている)と同時に、彼女たち自身が好んで獲得していくものであるということだ。
pp.261-262
というのは、トートロジーではないかもしれないが、ちょっともやっとする。つまり、多くの女優さんは基本的に長く仕事を続けたいと思っているけど、実際には段々と仕事が減っていつの間にか消えていく。キカタンになって2年も続いている人はそれ自体が勝ち組でエリートである。勝ち残っていくには当然、事務所や現場に好かれないといけない。そのためには、時間を守って礼儀がしっかりしてて、飲み込みが早くて勘が良くて、体調を管理できないといけない。その努力は当然「意志と動機をしっかりと持つ」人でないと続けられない。長く続けているうちに彼女たちが好んで「意志と動機」を獲得したのではなく、誰もが長く続けたいなかで「意志と動機」を持つものだけが生き残った。原因と結果が逆。これは私の「性の商品化」(性的身体の商品化)問題への意識が低いからだろう。労働問題(身体の商品化の問題)と区別がつかない私の問題。「性の商品化」労働の大変さが理解できず、「基本的に長く仕事を続けたいと思っている」はずという私の認識の誤り。昨今のフェミニズム方面からのミスキャンパスバッシングとかAKBバッシングへの違和感があるのも、私の意識の低さの問題。余談だが、AKBと労働といえば、NPO法人POSSEの坂倉昇平氏がブラック企業問題と絡めて時折ツイッターで呟いてて、何か書きたそうなので是非読んでみたい。アイドルと自由意志、ブラック企業と自由意志は色々と隣接した話だし、本書とも隣接した話。
あと、饒舌すぎる語りの方向から感想をいえば、これAV業界のみの傾向なのか、学校でも会社(採用面接)でもキャラを立てなきゃいけない、滑らない話のひとつも出来ないといけない、そういう芸人化する日本社会全体の傾向ではないのか、みたいな疑問がある。本当に社会が芸人化しているのか、それこそフィールドワークもしていないのにいい加減な事を言うなと怒られて終わりかもしれないが、逆にAV業界も現代社会と地続きである事の証明だよ、対岸の火事じゃないよの証明かも。
「性的身体の商品化」と「身体の商品化」の区別がつかない私は(まだ2年半だけど)介護業界で働いていて、
しかし、内臓に支障をきたすまで身体を酷使して働く者は、社会に無数に存在する。それは投資銀行家やSE、介護士など、激務がクローズ・アップされている者だけ挙げてもきりがないほどだ。
p.271
という文章はやはり気になる。キャリアパスがなくて何年働いても給与が上がらないと、他人からも問われるし、自問自答もする。「何でそんな仕事をしているの?」と。だから働き始めた時の動機は「何となく」「金になるから」「他に仕事がなかったから」だったのに、働き続ける動機を後からこしらえて内面化する気分はよく分かるし、実際にそういう人は多い。そして、新人にはない技術を持っている事への誇りとかやたら資格講習に走るタイプの人がいるのもとても似ている。だからというか、女優さんが「意志と動機」を語る方面へ走るのをそれほど特別な世界の話には感じない。
多少脱線するけど、介護業界に来る人も割とAV業界に似ていて、2つのタイプが結構いる。(1)社会人的無能…挨拶できない、電話の受け答えできない、時間を守れないetc、(2)一般企業から表向きは別の理由で巧妙に忌避される人…シングルマザー、メンタル系疾患etc。私はまあ(1)寄りのハイブリッド。最近、政府が「介護業界で長く働けるようにキャリアパスを!」とか言って、士業の資格試験を難しくしたりしようとしているけど、要らんお世話というか逆効果というか。利用者に提供する介護のレベルを上げるために高度な技術職にしたら(というのは方便で、実際今の政策には「高い給与が欲しかったら、高い技術持てよ」という本末転倒感がある)、社会人的無能の駆け込み寺にならないじゃないか! 働き続ける動機を後からこしらえて内面化した意識の高い人たちがますます社会人的無能スタッフにいらだって、職場がギスギスするじゃないか(半分冗談半分本気)。恐らくAV業界も似たようなもので、希望者が多い→レベルが上がる→意識が高くないとやっていけない→脱落者続出→それでも金稼がないといけない→もっと危険度が高い風俗などへ流入、という悪循環が生まれているのではないかと推測する。毎日決まった時間に起きられない社会的ダメ人間から職場を奪ってはダメだ。もちろん風俗業や介護業が社会の脱落者の駆け込み寺になっている事自体を批判されると、正論過ぎて返す言葉もないが。開沼博氏が風俗業はグレーなセーフティーネットになっている的な発言をして、フェミニズム界隈から「それはセーフティーネットじゃねえだろ(怒)」というツッコミを受けていたが、「性的身体の商品化」&「身体の商品化」問題を解決するには、とりあえずベーシックインカムを導入してみるしかないだろう。「最低限の生活は保障するから、ヴィトンのバッグが欲しかったら風俗で働いて」「週5日労働は無理だけど、労働して生きているプライドを持ちたかったら、週1でもいいから特養で働いて」として、今の現場から労働者がどれくらい消えるか残るか。日本国籍を持っていない日本在住者にしわ寄せが行って、労働問題に民族問題がセットとなって激化したりして。
さらに本書の主旨からは外れつつ、アイドル論&ドキュメンタリー論書きとしては、ここからが本筋かもしれない。私は冒頭で触れたとおり、女優さんのブログを読むのが好きだ。あるいは2009年頃をピークに好きだった。5年近く前に書いた文章がある。「プロレス・ハロプロ・ブログ」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20080729)、内容はハロプロ関係を仄めかしているけど、たぶん当時読んでいた女優さんのブログに触発されたんだと記憶する。2008年7月のAKBといえば、レコード会社との契約を切られ、10月に『大声ダイヤモンド』を発売して上昇気流に乗る前。これを書いたときは、まさか「私の芸を見て」ではなく「私を好きになって」とファンに会って握手するアイドルが当たるとは夢にも思っていなかった。
ブログを更新し、サイン会で私服を披露するのは、あくまでAV女優としての彼女たちであり、本名を名乗る彼女たちではない。VTRの撮影をあくまでコンテンツ制作と考える彼女たちがVTR撮影中おこなっているのは、「演技をしていない」演出である。と、なるとそこで表出しているのは、あくまで「AV女優としての」という留保のついた「素顔」であり、「演技をしていない」演技である。彼女たちのファン・サービスは、「素顔」や「演技をしていない姿」というVTRの中の顔でない、また新しい顔を作り出すことにあるようだ。
pp.238-239
2004年までの参与観察の結果だから、私の読んだブログ群とは時代背景が違うかもしれない。あるいは「ブログなんて女優・事務所・メーカーが共犯になって作ったキャラが書いたことにしている販促ツールでしょ」という冷めた見解なのかもしれない。とはいえ、留保のついた素顔、演技をしていない演技、というのはちょっと冷めすぎなのではないか。散々、自由意志であるか、そうでないかについて「そんなん外部の人間が見て簡単に切り分けられるわけないやん」と書いてきた人とは思えない断定口調ではないか。まあ正直言ってブログ信者のキモヲタとしては、感情的にカチンときた箇所だべ。ドキュメンタリーのカメラが回っている時、人はどこまで自然に振る舞う事ができ、どこまで演技するのか、という問いに答えるのだって簡単ではないのが、ドキュメンタリー業界の常識。素って何? 演技って何? 女優○○のパブリックイメージにふさわしいファッションできめて自宅を一歩出たら演技? マネジャーとラーメン食っている時は素? そばにDVDショップの店員がいたら? ファンの前だと? というインナーサークルとお客の線引きがアイドルとAV女優だとちょっと違うなあ、という話もあるけど、それはまた別の話。
今だと女優さんのツイッターに一般人が「お前は幸せになれない」とか書いて、それに女優さんが反論して話題に、とか結構あるけど、個人的には興味を惹かれない。以前は、ブログに事務所やマネジャーへの不満をぶちまけた女優さんが、翌日にエントリーを削除して以後は何事もなく…なんて“事件”があって、そういうのは好きだった。共犯関係にあるべき側が分裂して、お客さんの方に「私の心の内を聞いて欲しい」って言うのは、何か面白いやん。販促ツールという建前が揺らぐっていうのか。事務所に内緒でとんだ女優さんが最後にブログへ「今までありがとう」メッセージを残し、ファンもコメント欄にお礼を残して、いい話だなあと思ったら、翌日丸ごと削除され、事務所の「ファンの皆様、○○は引退しておりません」とか取り繕った書き込み(メーカーとの契約が残っていたんだろうなあ)が載るんだけど、結局その後新作は1本も出ないとか面白いやん。「あたし引退する事になりました。この芸名の人はこの世界に存在しなくなりますが、どうか忘れないでください」っていうエントリーに何十もコメントがつくのを見て、もう一回だけ現れて全コメントにレスするとか泣けるやん。削除も含めて炎上商法やんとか、冷めた見方はいくらでも出来るけど、「演出があるのは分かっているけど、敢えて全て真実だと丸飲みしてやるぜ!」なブログ信者としては、虚実ないまぜのなか、虚の人が実の詰まった振る舞いをしてしまうその行為自体が興味深いというか好きだ。もちろん例外的な事象だろうけど。まとめると、社会学は事象の類型化・典型化・平均化が得意で、ドキュメンタリーは人間的な例外を切り取るもの、といえるだろうか。そして私は例外が好き。
5年前の文章でも触れているが、20世紀の終わりにマスメディアと折り合いの悪かった中田英寿や宇多田ヒカルが自身のサイトで発信を始め、マスメディアの嘘に対して本人が反論出来る時代になり、やがてインターネット上では「ソースは?」が合言葉になった。1次ソースを示す事は重要だが、その中で本人発信が最重要ソースというランク付けが生まれたように思う。マスメディアが複数ソースに当たり、利害関係を推測して出した仮説・結論を当事者が否定すると、ネットで「本人が否定してるじゃないか」「捏造すんな、マスゴミが」と叩く風潮が生まれたように思う。
AV女優ブログ好き業界(そんなのあるのか)では割と知られた話だが、簡単にいえばライター中村淳彦にインタビューされた女優泉まりんが中村をディスった話がある。詳しくは、峰なゆか「はだかのりれきしょ【泉まりん】(http://www.mens-now.jp/column/pref/u/2010-11-18/a/%E5%B3%B0%E3%81%AA%E3%82%86%E3%81%8B)を読んでほしいが、峰の文章がすごくいい。泉まりんの発言を(恐らくは)自分の考えに寄せて曲解したりつまんだりすることなく、でも「本人が言うんだから、その通りなんでしょ」の当事者中心主義でも済まさないで彼女の人生の背景が何となく透けるような地の文がいい。もちろん中村とのエピソードも、家族の話も全部作り話かもしれない。もちろん更に峰が面白おかしく盛っている可能性だってある。販促サイトなんだから読んでもらわないと、だろうし。だけど、このインタビューには、社会学的な手法を使ってなくても、彼女が饒舌な理由も、彼女の気分も、時代の気分も、そして恐らく街の気分もちゃんと映っているのではないかと思うわけで。要するに何が言いたいかといえば、本書の著者に罪はないけど、本書を読んですぐ「これまでの商業的なルポにも教条的な学者の議論にもなかった画期的論!」みたいに言っちゃう奴は、自分がこの分野に詳しくないだけのくせに反省しろ! みたいな感じ。
最後に、冒頭に挙げた2人の女優さんブログ、羽月さんは現役でブログも書いている…けど、最近は読んでない。デビュー当時はキカタン女優として失礼ながらパッとしなくて「臨時収入になれば」「ちょっとエッチな事に興味があって」という本書でいう典型的な動機無き入り方をした“普通の女の子”が本業の職場の愚痴とかダラダラと書いていた。それから人気が出てきて撮影の仕事が沢山入り出すと、それこそコンビニで買ったアイスの写メとか今日の私服の写メとか“普通の女の子パート2”のブログにスムーズに移行していった。まさに本書でいうAV女優であり続ける「意志と動機」を獲得した人のブログになった。基本的に文才があって頭の切れる女優さんのブログが好きだけど、この移行のクレバーさにも唸ったし、「意志と動機」を獲得した女優さんにはあまり興味を持てないので読まなくなった。
稲見さんは、恐らくもう引退していて、ブログも削除されている。恐らく学生さんだったのか、羽月さんと同じように「臨時収入になれば」「ちょっとエッチな事に興味があって」業界に入ってきた感じだったが、可愛くて、演技の勘も良くて、文才もあって、当然人気もあったし、本気を出せば「上を目指せる」才能があったと思うけど、最後まで本気を出さなかった印象がある。「一般受けする方法? 仕事がもらえるキャラ作り? そんなの分かっているけど、やらないよー」みたいな。赤の他人が「AV女優として才能があったのにもったいないなあ」というのも何か変な話だけど。本書に沿っていえば、何となく業界に入ったまま、お金にも困ってないし、承認欲求も強くなかったので、「意志と動機」を獲得できなかった(しなかった)のだろうなあと。
典型と例外の話になっただろうか? まあ、個人的な思い出話が書けたから良しとしよう。
…
おまけ:「潜在写真の撮影」(p.30)という誤植、いいよね。私もこうなる。業界用語の短縮系って、辞書登録してないと出てこないんだよ。「せんでん」と打って「伝」消して、「ざいりょう」と打って「料」消して。と思ったら、p.110には普通に「宣材写真」とあるじゃん。原稿入力に使ったPCが2台ある!?