数年前、若い頃に旧東欧オタクだった私は『思想』2019年10月号の1989革命特集を読んだのだけど、そのなかに次のような衝撃的な記述があった。
小沢 私は、当時の言説のなかで、八九年の東ヨーロッパの体制転換が、市民革命や民主化という言葉で議論されていることについては、若干の違和感を持っていました。日本では、八九年の東ヨーロッパについても、九一年のソ連についても、南アフリカのアパルトヘイト体制の解体についても、それから、ずっと時代が下がって、中東・北アフリカの「アラブの春」についても、「民主化」という言葉を使って議論がなされています。しかし、その民主化の内実は何かと考えると、新自由主義化なのではないか。そして、民主化という言葉自体が、そういう実態を覆い隠すような役割を果たしているのではないか、というのが私の考えです。私は「民主化」は新自由主義の言語のひとつだと考えています。(p.22)
小沢 新自由主義国家の成立を世界的な空間軸の上で考えたのが、表1です。まずは七〇年や七三年に、実験的に新自由主義化が進んだのが体制化の始まりです。チリのピノチェトについては、欧米でもよく言及されていますが、ここにエジプトを入れて考えるのは長澤榮治さんや栗田禎子さんなど日本独特の考え方だと思います。この表にあるように、世界規模で新自由主義体制への移行が八〇年代から九〇年代にかけて進行するという見方ができるのではないかと思います。つまり、東欧の体制転換は新自由主義革命ととらえることができ、それは東欧の外から加えられた圧力だけで成り立っているわけではありません。むしろ、東欧の中に新自由主義の社会主義的起源や社会民主主義的起源を探る必要があると考えています。(pp.23-24)
小沢 冷戦後にはグローバリゼーション・ラッシュと呼ばれる事態が進行しましたが、P・ブルデューは、それは自然史的な過程ではなくて、明確な政策パッケージ、つまりグローバリゼーション政策の結果として生じたものだと言っており、私も同感です。(p.26)
小沢 冷戦の問題を、もう少し長い歴史的文脈の中におくとどうなるか。新自由主義は、古典的自由主義、社会的自由主義、新自由主義という歴史的展開のなかにあり、それぞれの思想・運動・体制の展開、また、それぞれの自由主義が南の世界とどのような関係を結んできたかを考えると、八九年は冷戦の終結をめぐる分水嶺ではなく、基本的には、南の世界を含む新自由主義の体制期が成立する一コマとして見ることができると思います。(p.27)
中学生の私が歴史にハマり、その後の人生にも多大な影響を与えてきた1989年の東欧革命とは、自由と民主主義の話ではなくて今も世界を覆っている悪しき新自由主義の一過程に過ぎなかっただなんて!という驚きと悲しみ。なお、文中の小沢とは歴史学者の小沢弘明。私が大学生だった25年以上前はオーストリア史・東欧史の人だったが、21世紀になって歴史学的な観点から新自由主義を研究する日本の第一人者になった。
上記の鼎談を読んでみて「なるほど」と説得されたし、なんなら同じような文章をずっと昔に読んだ記憶があるぞと思った。少し考えて思い出したのは、『テニスマガジン』2001年1月号に掲載されたスポーツジャーナリスト(テニスライター)武田薫のコラムだった。少し長いけど、以下に引用。
決意の大きさは、男子選手会(ATP)と国際テニス連盟(ITF)、グランドスラム委員会の共催という一点にすでに明らかだ。この協調は、例えばITF管轄になるオリンピックにツアーポイントを付加したことにもあらわれ、さらにデ杯のフォーマット改革への取り組みも進行中である。変わりつつあり、変えようとしているのだ。
ATPとITF、グランドスラムとの関係は、とりわけ80年代に入って悪化し、対立が続いた。84年のロサンゼルス・オリンピックを象徴としたスポーツの商業化、すなわち、選手の権利拡大がその背景にはあり、技術革新による余暇産業の需要に加え冷戦構造の氷解がスポーツの市場価値高騰に拍車をかけ、労使の力関係が選手会側の連戦連勝となって完全に逆転した。マスターズカップの三者共催に象徴される新たな関係は、20世紀末の労使対立を切り捨てるだけの必然性があった結果に他ならず、より広い地城的普及、より開放的な階級・人種を巻き込んだゲームを構築しようという、新世紀を迎えるに当たってのテニス界の決意である。もちろん、机上理論の産物ではなく、90年代の選手たちが労使関係や政治体制という20世紀の古い外套を脱ぎ捨て、熱いスポーツマインドでテニスのレベルを引き上げた結果だったし、そのことは、彼らが残したこの1年のプレーに象徴的に見ることができた。(中略)
地球の北から南まで、ベテランから新鋭まで――こうしたツアーの多彩さは、三者共催によるマスターズカップにそのまま反映されることになる。サンプラス、アガシのふたりのベテラン米国選手に、サフィンとカフェルニコフのふたりのロシア人が顔を揃えた。南米を代表してクエルテンが名乗りを挙げ、ふたたび活動し始めたスウェーデンからはノーマンが、オーストラリアからは19歳のヒューイットが駒を進め、90年代を賑わせたスペインからは代表に相応しいインテリジェント、アレックス・コレチャが馳せ参じた。
テニスは、あらゆるスポーツの中で唯一、組合運営を行ってきた競技だった。労使関係の方向転換は、スポーツ界全体の将来にいかにも暗示的である。(中略)
19世紀末のローンテニスは貴族階級のお遊びに違いなかった。それでも屋外に飛び出したぶんだけ対象が広がり、常に女性を巻き込んで進化してきたのもこのゲームの大きな特徴だった。ヨーロッパにおける女性の社会進出は第一次大戦後、しかも未會有の戦死者を出した結果という複雑な進化である。テニスはそれ以前、1900年の近代オリンピック第2回大会から女子を参加させ、1924年のパリ大会を最後にオリンピックとは早々に袂を分かった。女子の参加、アマプロ問題、独自の普及と強化……テニスは他のスポーツが20世紀末に抱え込む近代的テーマにいち早く取り組み、葛藤し、解決してきたのである。(中略)
その最大の転換が、1968年のオープン化にあった。アマチュアとプロとのふたつの世界をまとめた統一コートの出現によって、テニスは世界的規模へと拡大拡散していく。もちろん、その普及は机上の理屈から企画されたものではなく、常に選手たちの汗と闘志によって推進されたのである。(中略)
テニスは上流階級の遊びだった。だが、媒体の進化に乗った人気上昇によって階級の壁は崩れ、ゲームの質も変わっていく。ベッカー後の最大の変化は、やはりヨーロッパ社会の大きな変化とともに訪れる。ひとつには冷戦構造の崩壊である。
かつて、ロシアをはじめとした旧社会主義諸国には西側諸国と同様のテニス文化が広がっていた。階級的スポーツの宿命としての行き詰まり、貧困からの余暇時間の不足、さらにオープン化後にはツアープロの否定が足枷となって、東欧のテニスは沈黙を余儀なくされてきた。
89年晩秋にベルリンの壁が崩れたとき、テニスを封じ込めてきた扉も開け放たれたのである。例えば、マルティナ・ナブラチロワは亡命に踏み切ったが、イワン・レンドルはチェコ政府に賞金の50%を提供することで海外でのプロ活動の自由を得た。ハナ・マンドリコワがオーストラリア人との結婚で海外に移住し、マルティナ・ヒンギスの母メラニーがスイス人との再婚で国外に出たのも80年のことだった。98年のオーストラリアン・オープンで優勝した30歳のペトル・コルダは「僕もヤナ(ノボトナ)も、ジュニア時代に自由な活動が許されていたら、もっと早く結果が出せただろう」と、当時の不自由な競技生活を振り返った――。
壁がジワジワと崩れる一方で、メディア、交通手段の技術革新によって、テニスの領域は北米から南米へと広がっていった。サンプラス、アガシ、チャン、クーリエというアメリカ四天王に対抗するような世界各国からの若い選手の出現を刺激したもうひとつの社会運動として、欧州連合の存在を見逃すことはできない。
加盟国内での経済格差を無くそうという欧州経済共同体(ECC)の発想を、さらに文化レベルまで拡大した欧州共同体(EC)、さらに通貨統一までを見込んだ欧州連合(EU)は国境という垣根を取り払い、若いエネルギーをことのほか、刺激した。スペイン、ポルトガルの仮加盟が86年。92年の正式加盟によって、非加盟国を巻き込んでの交流が増し、そのことはテニスにいち早く反映されている。(後略)
武田薫「テニス 20世紀の歩み、21世紀への示唆。混迷から飛躍へのアプローチーー第1回マスターズカップ点描」『テニスマガジン』2001年1月号、pp.105-108より抜粋
いかがだろうか。小沢の言葉と武田の言葉は実は同じことを言っているのではないか。そう思っていただけただろうか。思えなかったら、続きは読まなくても大丈夫です。
武田はこの文章を膨らませて、2007年に同じベースボールマガジン社から『サーブ&ボレーはなぜ消えたのかーテニスに見る時代の欲望』という新書を出版している。さおだけ新書(2005)ブームに便乗した書名を付けてしまったが故に胡散臭くみえるが、内容はテニスと社会とを架橋した良質なテニス史である。そのなかから武田の世界観がわかる文章を一部引用しよう。
冷戦構造の崩壊はツアーに大きな影響を与え、テニスの変化に拍車をかけた。
アンカレッジ経由だった東京-ヨーロッパ間は91年からすべて直行便になり、旅行時間は半減。それと並行して、格安航空券の登場で若者の海外旅行はずっと楽になった―ー旧社会主義国の若者からすれば、これほどのチャンス到来はなかった。(pp.175-76)
東西冷戦構造の崩壊と並行して、もう一つの自由化の波がヨーロッパ大陸を洗っていた。もともと欧州経済共同体(EEC)という経済統合を目指した運動が、政治と軍事を含めた欧州連合(EU)の運動へと着実に進んでいった。86年にポルトガル、スペインが加盟して、92年に市場統合、95年にはEU域内の自由移動が可能になった。すなわち、加盟国の国民はパスポートなしの旅行ができるようになったのだ。
テニスは移動するスポーツ、転戦の仕事だ。その職場環境が大胆に整備された。
それまでのイベリア半島の若者は重苦しさを背負っていた。大学を出ても仕事がないだけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアと比べ通貨価値が極端に低かったため、外国に出ることもままならなかった。不況の国にまんじりともせず、能天気にやってくるツアー観光客が腹立たしくて仕方がなかった。
88年末のATPランキング100傑に、スペイン選手は2人しかいない。それが93年末には7人に増えた。しかも、スペイン選手のツアー優勝はアメリカの27に次いで10大会になっている。
大航海時代の宗主国の動向は、常に旧植民地である南米大陸に直結している。それまでも見かけたアルゼンチン選手の数はさらに増え、加えて、チリ、ペルーといったスペイン語圏から選手の流出が続いた。本国は振るわないが、ポルトガルの兄弟国ブラジルからまでも、グスタボ・クエルテンやフェルナンド・メリジェニがツアーの常連になった。海峡を隔てたモロッコからも、ヒチャム・アラジ、ヨーネス・エラノウイといった異色の選手が出てきた。
これらの国でも、遠い昔からテニスは行われていた。ただ、閉じ込められていた。東欧選手も南米選手もすべてクレーコート育ちだった。これまで日陰の存在だったクレーコートのメッカ、ロラン・ギャロスが、にわかに活況を呈してきたのは、そうした選手が増えたからだ。(pp.179-80)
話は前後するが、武田の2001年の記事に出てくる第1回マスターズカップとは、2000年11~12月にポルトガルのリスボンで開催された男子テニスツアーの最終戦(その年に活躍した選ばれし8人だけが出場できる)のことである。著者の武田は1950年生まれ、74年に報知新聞社へ入社し85年に退社。バブル前にフリーになってポルトガルへ飛び、ロザ・モタの長期取材をしたことが最初の仕事だったこともあり、ややポルトガルへの思い入れが漏れているのはご愛敬。独裁政権の陰が色濃く残っているところからECに加盟してNATOにも加盟してECがEUになって、ポルトガルがヨーロッパの一員となって豊かになっていく過程を間近で見たのも、彼の世界観に影響を及ぼしていることだろう。
さて、この文章はプロテニスと新自由主義の絡みを面白く書くことを目的としているが、どうやったらうまく説明できるか分からないままの見切り発車である。とりあえず前述の武田新書に則りながら、テニス産業の歴史について振り返ってみたい。どう考えてもうまく書けないから、マジで武田新書を読んでほしい。マジで読み物としても面白い。
スポーツ興行がお金になるようになったのは両大戦間期の米国。繁栄の20年代、野球のベーブルース(1895-1948)、ゴルフのボビー・ジョーンズ(1902-71)、テニスのビル・チルデン(1893-1953)らが大衆のヒーローになる。なるが、英国発祥のスポーツでありアマチュアリズムが尊ばれていたテニスはウインブルドンなど大きな大会に優勝しても賞金は受け取れなかった(人気スポーツなので、大会主催者は当然めっちゃ儲かっている)。なので、有名になった選手はプロになり、興行として仲間を集めてツアーを組んで全国を転戦して勝ち負けそのものよりも妙技を披露してお金をもらうようになる。今でいえばフィギュアスケートが似ているかな。トップはアマチュアで競技会に出て実績を積み、その実績を引っ提げてプロになってショーでお金を稼ぐ。
大戦後も同じような状態が続くが、経済の繁栄とともにテニスのようなスポーツ興行の需要はますます高まる。大衆はアマチュアしか参加していない4大大会より興行でやっているプロの方が強いんじゃね? 両方が戦っているところを観たいよね! みたいなことを言い出す。需要は供給を生み出す。その帰結として1968年4月から全ての大会がオープン化され、プロもアマも出場できるようになる。1972年9月には選手の団体ATP(テニスプロ協会)が設立、73年のウインブルドンでは選手の権利を主張するため大会ボイコットを行う。その後も選手側と大会主催者側との条件闘争が行われながらテニスはビッグビジネスとなって現在に至る。
さてここからが本番。プロテニスと新自由主義との関係を自分の言葉で書いてみる。現在のプロテニスツアーの特徴とは?
その1、国毎に出場人数の制限がない。選手は完全に個人事業主である。他の個人競技、たとえば陸上競技でもフィギュアスケートでも柔道でもアルペンスキーでもまずナショナルチームに選抜されて、そこから国際大会に派遣される形だと思う。能力的にみれば、世界ランキング1位から20位まで米国選手だからといってトーナメントの上から下まで米国選手みたいなことにはならない。テニスは実力が伴えばそうなることもある。個人競技でそのシステムなのはテニスとゴルフくらい? 最近の卓球はその手の個人事業主による国際大会をやっていそうだが詳しくはない。テニスもデ杯・BJK杯や五輪には国別対抗戦として出場枠に制限があるけど、それゆえに私はあまり好きではない。
その2、世界中の大会がピラミッド型に統一されている。グランドスラムやそれに類するビッグトーナメントを頂点に、世界のはてで開催されている小さな国際大会まで一つの組織が統括し、共通したランキングポイントが与えられ、個人事業主である選手は自分で出場する大会を選択してどこの大会にでも出られる。テニスに似た個人事業主スポーツであるゴルフでもツアーは北米と欧州に分かれているみたいだし、日本ツアーは北米や欧州の下部大会ではなく独立した興行のはず。およそトップ100の選手が出場する大きな大会は選手会(ATP/WTA)が主催し、100~600位くらいの選手が出場する下部大会はテニス協会(ITF)が主催する。サッカーのイングランドプレミアリーグが独立して金儲けしているのと似たような仕組みだと思う。ITFの大会は大抵は入場無料。好事家以外は誰も知らない銭が取れない選手の大会だからそんな感じ。普及も踏まえた、赤字覚悟の先行投資みたいな意味合いもあるだろう。
個人事業主×ピラミッド型組織=実力主義、それがプロテニスツアー。もちろん実力主義、といってもおそらくそれは20世紀の実力主義だろう。21世紀だとそれは見せかけの実力主義だといわれるだろう。貧しい地域ではテニスを始めるのも難しいだろう、美人の白人ばっかりスポンサーが付くじゃないか、そんなのは本当の実力主義じゃない、不公平じゃないか。地域枠を作れ、人種枠を作れ、そういう異議申し立てが出てくるのが21世紀の実力主義。だからこそ私は今のプロテニスツアーを新自由主義的と呼んでいる。
ちなみにWTA(女子テニス協会)が設立されたのは1973年6月。9人の女子選手が「能力や実績に見合った正当な報酬をもらっていない」と訴えたのが始まりなんだけど、まさに能力主義的発想。ときは第2次フェミニズムのただなか。チリのクーデタは1973年9月11日。
さて、ここまでプロテニスツアーは新自由主義的発想によって運営されてきたといっているが、そもそも新自由主義ってなんやねんという話である。個人的には21世紀の初めからネオリベラリズムという単語を、グローバリゼーション、米国化、世界単一ルール化、主に経済面で米国ルールを世界に押し付ける話として使ってきた記憶がある。それがいつの間にか弱肉強食とか非正規雇用とか優性思想とかそういう人権と関連づけて使われるようになって違和感がある。
最初に引用した小沢の2020年6月27日に開催されたzoomシンポジウム「新型コロナウィルス感染症と国民国家/ナショナリズム」での発言によると「最初は短期の経済政策や政治路線だと思って観察していたが実は「新⾃由主義は、産業資本主義から知識資本主義への転換を⽀える思想・運動・体制の総体」(レジュメより)だった」である。
新自由主義に批判的なアナキズム方面でよく参照されているレベッカ・ソルニットは、著書『暗闇のなかの希望』(2005)のなかでネオリベラリズムの定義を「新自由主義。いわゆるグローバル化、より正確には企業のグローバリゼーションの背後にある、制約のない商品とサービスの国際資本主義経済と私営化の礼賛」(p.59)としている。
ここで最近読んだ鈴木透『スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』(中公新書、2016年)から少し引用したい。良心的でリベラルな学者さんが米国の歴史とスポーツビジネスの発展とを批判的に絡めて描いたなかなか発想豊かで面白い内容だった。
共産圏の崩壊に伴う冷戦の終結により、アメリカが唯一の超大国として生き残ったことは、こうしたアメリカ独特の国際感覚を活性化させたといえる。国際世論に無頓着な孤立主義と唯我独尊的なアメリカ第一主義がより強く結びついていった様子は、京都議定書からの離脱、イラク戦争からトランプ政権に至るまで、随所に痕跡を止めている。ここで興味深いのは、ポスト冷戦期の現実世界がアメリカ独特の国際感覚を後押しし始めたのとほぼ時を同じくして、アメリカのプロスポーツの多国籍軍化が加速した点である。
アメリカのプロスポーツがマイノリティを冷遇し、積極的に門戸を開いていたとは言い難い歴史を持つことから考えれば、ある意味これは画期的ではある。しかし、一九九〇年代以降、アメリカのプロスポーツが外国人選手を積極的にスカウトしている背景には、アメリカ独特の国際感覚がスポーツビジネスをも染め抜いている様子が見てとれる。(pp.189-190)
大リーグのチーム編成は多国籍軍化したが、それは諸外国のプロリーグとの階層関係をより鮮明にした。あくまでも大リーグこそが世界最高峰であり、諸外国は大リーグの繁栄というアメリカの利益に協力する存在として組み込まれた。門戸開放という見かけ上の人材の多元化は、現実にはその競技におけるアメリカの支配体制の強化につながっているのだ。
こうした構図は、冷戦終結直後に勃発した一九九一年の湾岸戦争の際に組織された多国籍軍の姿と重なる。国連の合意の下で形式的には多国間の協力の上に成立しつつも、現実には 米軍が主力となっていた多国籍軍は、多元主義を装った実質的なアメリカ中心主義を体現しており、その後の大リーグの多国籍軍の特徴と基本的に一致する。プロスポーツの門戸開放は、国際化のようでいて、実際には「アメリカこそが中心であり、アメリカのやりたいようにやらせてもらう」というスポーツ孤立主義をより強化しているのである。(p.191)
冷戦の終結を機に多元化した世界の下で対等なパートナーシップが育まれていくのではないかという期待は、次第に遠のきつつある。唯一の超大国がグローバル化をアメリカ中心の秩序へと骨抜きにしようとする傾向は、多国籍軍を隠れ蓑にしたスポーツ孤立主義と手を携えているといえる。冷戦時代まで、スポーツの国際化は、アメリカ国内のスポーツが体現していた民主主義の不完全さに対する外圧としての意味を持っていた。ジャック・ジョンソンに遡るボクシングの国際化やジェシー・オーエンズに始まるオリンピックにおける国家の体面の問題は、少なくともアメリカが自国の理想と現実の矛盾を直視せざるを得ない状況を作り出すことには貢献した。だが、唯一の超大国に対する外圧の効き目はもはや限定的だ。そうした状況の下、プロスポーツがポスト冷戦時代のアメリカの対外戦略ともシンクロするという新たな時代を迎えているのである。(p.198)
この「見せかけの多元主義」みたいな発想がいかにも21世紀の良心的リベラルという感じで、他にもスポーツ界の能力主義的傾向をけっこう批判していて、なかなか良心的過ぎて素直に乗れないところもあるが、この2016年出版の本で鈴木は冷戦後の米国スポーツの多国籍化を新自由主義という語では説明していない。新自由主義という語を使わなくてもグローバリゼーションを説明できるということか。そもそもテニスは米国のスポーツなのか。あるいはテニスの新自由主義化は米国化の推進なのか米国とは関係ないグローバル化の推進なのか、その二つは区別はできるのか。テニスのスポンサーの多くが米国企業なのは明らかだし、テニスのルールが米国のTV視聴者に合わせてタイブレークやらなんやら改変されてきたことも確かだろう。しかしプロテニスツアーがその成り立ちから米国文化と欧州文化の折衷だったこともまあまあ疑いようのないところ。
話は脱線するけど、こないだスペインサッカー協会公認の指導者資格を持つ佐伯夕利子が自身のブログで「民主主義と資本主義の狭間で揺れ動く日本スポーツ」と題して「欧州スポーツに代表されるような民主主義的スポーツの理解と、資本主義の効力を最大限に生かしスポーツを発展させてきた米国的なビジネス手法について考察」し、ブクマでまあまあ炎上していた。欧州サッカーほどクラブ間の貧富の差が激しくて何が民主主義的なのか、そもそも欧州自体が階級社会じゃないか、みたいな批判。でもあらゆるクラブに昇格降格の可能性が開かれているのって民主主義的だよねと反論も。ちなみに前述の鈴木本によると、米国のプロスポーツはすごい地域密着な興行らしいんよね。地元民がリピーターになってくれないとビジネスにならないんだから。それで試合前にローカルヒーロー(消防士とか警官)の顕彰・表彰をやっているらしい。まあこうなると民主主義とはなんぞや、資本主義とはなんぞや、新自由主義とはなんぞや、という話になるからあまり深掘りはしない。余談だが、前述の武田薫はテニスライターであると同時にロザ・モタを取材していたことから分かるように陸上ライターとしても一流である。ベルリンマラソン、ボストンマラソンなど、なぜ市民マラソンは車道をせき止めて市民に開放して何万人もの人が路上を走るのか? そういう社会・文化的な視野からスポーツをみた記事を陸上雑誌に書いていたが、そういう記事をまとめて書籍化される時代でもないのが残念である。
私はプロテニスツアーと新自由主義という似て非なる現象を一緒くたにして幻視したのか。そもそも米国化、グローバル化、新自由主義化、この3つは区別できるのか。この辺りの結論は急いで出すこともないだろう。このとっ散らかった文章を読んで「もっとこうまとめたらいいんじゃないの?」というアドバイスをもらえるとありがたい。
ここからは楽屋話。
最初にあげた『思想』文献を読んだのは2019年なので、この間5年近く放置していたわけで、そしてここまで書いてきて分かるように全然うまくまとめられていないわけで、それでも敢えて改めてこのネタをちゃんと文章の形にしようと思った理由は、露宇戦争(2022~)である。ロシア史の碩学たちがなぜあんな風に変なこと(もちろんロシアは悪いけどウクライナだって…、そもそもNATOが…、これは米露の代理戦争…)を言っているのか。確かに彼らはロシアとウクライナの民族的・歴史的なウンチクを正確に解説はしているけど、どこか現代の国際社会の趨勢からはピントのずれたことを述べているのか。それは彼らがロシアに新自由主義のオルタナティブを見ているからなんだと思う。マルクス経済学に影響を受けた人達と違って(いま生きている年齢の)歴史学者はあまりイデオロギー的ではないから、ソ連型社会主義や東欧共産圏が歴史的に上手くいかなかったことはよく分かっている。実際に留学したり生活したりしているだけあって、その辺は日本にいた日本人よりもよく分かっている。なのでソ連型社会主義vs米国型資本主義の構図で話をしているのではない。それでもやっぱり米国からやってきた新自由主義思想への嫌悪は隠せない。彼らにとって70年代から世界を侵食し始めた新自由主義が非人間的で間違っていることは間違いないのだが、どう間違っててその代替案がなんなのか、それが出てこなくて苦しんでいるのだと思う。
日本で(というか世界中で)新自由主義に批判的な人々といえば、ケア倫理やアナキズムをやっている人達で、サパティスタとかチャベスとかデヴィッド・グレーバーとかジェレミー・コービンとか好きな人達が多いけど、この人達によるとリーマンショック前後で新自由主義も形態が変わったらしいんよね、よく分からんけど。これは前述した小沢の「最初は短期の経済政策や政治路線だと思って観察していたが…実は思想・運動・体制の総体だった」という話と繋がっているかもしれない。世界がなんだか変わっているけど、いま一つ実態が掴めなくてよく分からない。それを私はプロテニスを通して掴みたいんだよー、というのが2019年の私の気分だったのかな。あまり関係ないけど、テニス関係者って昔を知る老人も現役選手も「昔のテニスツアーは手作り感があって温かみがあって人間らしくて良かったよなあ」みたいなことをあまり言わないよね。試合数が多過ぎるよとか遠征が続いて疲れたよとかはよく言ってるけど。懐古に浸るよりも最新が最強という思想、この辺りも新自由主義的だなと思っている。
そういうなかで露宇戦争が始まって長引き、戦争の影響がいろんなところに広まっていくと、ドンドン私の思考も侵食されて、もう私が2019年に何を考えていたかも思い出せなくなっていくのではないかという気持ちになって、それで遅ればせながらまとめた。とはいえもう2024年になっているが。既に手遅れか。まあ手遅れではあるけれど書いた。私にとって、旧東欧圏の話とテニスの話と新自由主義の話はとても実存に根ざした話なのです、ということを書きたかったが、まあうまくいかなかった。
これを読んで、新自由主義に批判的なんだけど実証的に何から手をつけていいのか分からないという経済史の院生さんなんかは、プロテニスツアーの歴史を掘ったらいいのではないか。70年代から新自由主義とともに歩み、史料をひっくり返しさえすれば、お金の流れもしっかり残っているだろうし。きっと面白いと思うよ。
文章の流れの都合上、入れ込めなかったけど、ともに政治学者である仙石学(ポーランド)と村上勇介(ペルー)が2006年頃からやっている科研費プロジェクト「ネオリベラリズムの実践現場: 中東欧・ロシアとラテンアメリカ」が面白い。「体制転換後の旧東欧と南米ってネオリベの実験場として共通点があるんじゃね?」と気付く慧眼が素晴らしい。要チェックや。