パロップのブログ

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BS1『BSドキュメンタリー』「“回復工場”の挑戦〜アルゼンチン・広がる連帯経済」

2007/12/8初回放送、50分、撮影:南幸男、コーディネーター:小木曽モニカ、取材:柴崎太久郎、ディレクター:後藤和子、プロデューサー:藤枝融、制作統括:下田大樹/津田恭司、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK/パオネットワーク

労働者は金銭的な豊かさだけを求めているだけではありません。ただ自分たちの収入で家計を支えること、子供たちを学校にやり、休暇をとり、文化的な活動やまともな住居がほしいだけなのです。それが労働者がのぞむ豊かさなのです。
―ルイス・カーロ(回復工場を考えた弁護士)

心にしみる言葉。番組も、労働者の現実、経営者の言い分、債権者による差し押えを止めるために弁護士が奔走する場面などを過不足なく扱いながらも、根底では貧しい労働者側への共感を隠さない素晴らしい出来。どこからこの話題を拾ってきたのか気になったが、NHKでは2005年1月にBS1『地球街角アングル』「労働者たちの“企業再生”」(参照http://jicr.roukyou.gr.jp/blog/archives/2006/0706_1342.phphttp://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/documentary/2005/02/post.html)という番組を作っていたらしい。その番組にもガススタや病院の例が取り上げられていたようで、2年以上にわたって取り組みを追い続けていたのも素晴らしい仕事。
“回復工場”は、安定した大口の取引先がある工場で、熟練労働者の同僚が集まって家族のように運営するのには向いていると思う。たとえば全員が40歳代の熟練工で、自治体からの融資を20年かけて返済し、債務が片付いた時点で工場を畳み、全員が悠々自適の年金生活に入る。「仕事で収入を得ることが人間の尊厳を守ることに繋がる」という理念を共有していないと難しいことになる。全員が一生懸命働いていたのにクビになるという辛い体験を共有しているうちはよいが、退職者に代わって新採用をとって会社を永続的に回していこうとすれば無理が出そう。番組内で、お父さんが息子に職場を見せていたのは示唆的かもしれない。
経営者のいない労働者による自主管理といえば、旧ユーゴスラビアが思い浮かぶ。なぜ旧ユーゴの労働者自主管理が失敗したかについては岩田昌征氏による研究があるので、「岩田昌征+労働者自主管理」で検索すれば、ネットでもそれなりの知識が入手出来る。国際的な巨大資本と価格競争をしようとすれば、商品の値下げ=給料の減額に直結するわけだし、仲間の1人が「子供が出来たんだ。もっと給料が欲しいから、ちょっとくらい値上げしても売れるさ」とか言い出したら、「生活出来る分の利益だけ出れば良いので、出来るだけ安く商品を供給したい」派と不和になることも考えられる。旧ユーゴの例だと、民主的に相談しながら経営方針を決断するのは想像以上に難しいらしい。「経営者にとられていた利益を従業員で分配したら給料が3倍になった」という話もあったが、取引先から「今までの給料で生活出来ていたのなら、その分商品の値を下げろ」と要求されかねない。物の値段を生産者の取り分から逆算して決めれば、資本主義競争の世界では確実に負ける。もちろん地域経済(生活圏)丸抱えで生産者オリエンテッドな値段の付け方をすれば、うまく循環する可能性もある。江戸時代の日本は、人口増も経済発展も少なめで循環経済がうまいこと回っていたという話を聞いたことがあるようなないような。
確かに土地と工場を持つ投資家が会社の利益をごっそり持っていく現代は如何なものかと思うが、かといって投資リスクを被っていない労働者が収入益だけ貰うのはおかしいという経営者の言い分も分かる。「よし、こんなのはどうだ。経営は創業者ではなく、経営能力を持ったプロがやる。でも経営者もあくまで従業員の1人で、給料も一般労働者と差をなるべくつけない。初期投資は国や自治体が整備したコンビナートや工業団地を利用し、税制にも優遇措置がある」「お前、それって90年代以前の日本型経営じゃん」というオチを思い付いた。

『Nスペ』「ワーキングプアIII〜解決への道」(2007/12/16初回放送、80分、取材:岩田敏志/田伏裕美/大河内直人/石崎理恵、撮影:落合厚彦/山崎章由、ディレクター:池本端/松島剛太/矢倉真理子、制作統括:春原雄策/中嶋太一、制作・著作:NHK
メジャーな番組なので、まともな感想は他に沢山あるだろう。個人的には「社会的排除」(Social Exclusion)という訳語の馴染んで無さから、日本にはその概念自体がないような気がして哀しくなった。
ここでは、私が好きな新聞記事を紹介したい。「いいはなしだなー」と思って記事を切り抜き、いつかアレンジした物語を書きたいと思っていたが、そんな能力はないと分かったし、ネットに上げて済まそう。明らかに著作権侵害行為だが、15年前の記事だし、「このまま誰も知らないよりは」と筆者も発行元も御容赦して下さると思う(もし有料書籍化されているならば削除したい)。当時、自分は高3。日本型経営や年功序列が叩かれ出し、自分には明るい未来が待っていると思っていた。アルジェリアといえばFISくらいしか知らず、まだジダンもカソヴィッツの『憎しみ』も世間に登場していない頃の話。結局フランスも社会の分裂や暴動を食い止めたとは言い難い。

移民団地の若者 夢の旅行団〜非行防止へ一緒に汗流し
ソシアルワーカーのラセーヌ・ブケナイシさんは、パリ市内のアルジェリア移民が集中する団地の非行防止を担当している。フランスでは、ドロップアウトした若者の小暴動が各地で起きており、ロサンゼルス暴動のような惨事が憂慮されている。
ふつうソシアルワーカーは、荒廃する団地に事務所を設けて訪れる人を待ち、職業訓練を勧める。だが、ラセーヌさんのやり方は違う。
担当する団地に、移民の若者のふりをして乗り込んだのが一年半前。まず、広場にベンチがないことに目を付け、団地を作った住宅公団に掛け合って設置工事を請け負った。失業中の若者が路上にたむろする時間帯に、一人で黙々と土を掘り返し、「君もアルバイトをやらないか」と声をかけた。すぐに二人の若者が応じたという。
引っ越しの手伝い、ペンキ塗り……。賃仕事をいろいろ持ってくる頼れる「兄貴」として、徐々に皆に受け入れられていった。今でも、身分は伏せたままだ。
一緒に汗を流すことで、そっぽを向いていた若者たちと信頼関係が築かれる。若者たちは、定刻に起き、働いて報酬を得ることを学んでいくのだ。
数か月前、「アルジェリアの砂漠を横断してみたい」と、だれかが言い出した。見たことのない父祖の地だ。話はすぐまとまった。恐喝と麻薬の密売に明け暮れ、明日を考えたことのなかった彼らが、一つの夢に向かって計画を立て、一生懸命稼ぎ始めた。
計画はふくらみ、サハラ砂漠を渡って西海岸のモーリタニアにまで足を延ばして、飢餓に苦しむ農村に食料や医療器具を届けることになった。
村の代表と話し合いを重ね、読み書きの苦手な彼らが、ラセーヌさんの手を借りながらも書類を作り、物資を運ぶためにトラックの免許も取った。出発は十月。旅行団に彼らが付けた名はアラビア語で「分かち合い」という。
〈上田真木子(パリ大学院生)「リレー航空便 パリ発」『読売新聞』1993年1月11日付より〉