2007/9/2初回放送、90分、資料提供:ライアン・ハリス/レイド・カービー他、取材協力:吉見義明/粟屋憲太郎/上羽修/松村高夫/行武正刀、撮影:野瀬典樹/藤田浩久/菊池太、取材:岩本善政/鈴木正徳/佐古純一郎/松山果包、ディレクター:大森淳郎/梅原勇樹、制作統括:塩田純、制作・著作:NHK
『ハイビジョン特集』で放送された「裁かれなかった毒ガス作戦〜アメリカはなぜ免責したのか」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20070820)とほぼ同じ内容(見直して人名の誤字に気付いて良かった)。終始ワイド画面だったし、基本的にはハイビジョン用の番組を地上波でも放送した形だろうか。
『ハイビジョン特集』のとき、重箱の隅をつついた「中華民国」を「ちゅうごく」と読むのは、変わっていなかった。
8月6日に東京裁判の冒頭陳述をした後、裁判の途中で帰米した国際検察局のトーマス・ヘンリー・モロー検察官について、孫トーマス・Cが語る秘話が貴重そうなので書き起こすと、
祖父は次のように言ったそうです。「このような残虐行為を裁かず、戦争犯罪の裁判を前進させるつもりがないのなら、もう私がここにいる意味はない」。すると権力者たちは「それほど不満を感じるなら、アメリカに帰国するのが最善策かもしれない」と指示しました。祖父は従いました。
…
番組内で、
とナレーションしていたが、その“民衆の支持”とはなんぞや、という本を読んだ。
- 作者: 笹川裕史,奥村哲
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/05/29
- メディア: 単行本
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それでも自分なりに要約すると、明治維新以来、中央政府がムラ社会を取り込んで「国民」が創り出されていた日本と違い、中国大陸末端の村には中央権力の権威が届いていなかった。恐らく1920年代から蒋介石は、徐々に人口を把握したり、田んぼの広さを検地したり、「近代」的な「国民」国家の下地を準備するつもりだったのだろうが、その前に日本との戦争に突入したため、重慶に退いた国民党政府は徴兵制やら食糧徴発やらに付け焼き刃でチャレンジしたけど、ナショナルな意識を持っていない一般民衆は中央政府に従わないから悪戦苦闘、しかし日本との戦争やその後の共産党との戦争を通じて、中国の地方社会にも国家への帰属意識や法治による地方行政が芽生え、それが結果的に社会主義的な集団農場のような共産政権の政策と親和性の強い社会を準備したといえなくもない、ということか。
本の内容は国民党政府が支配している地域(華南)の話で、岩波から出版されたちゃんとした歴史学者の書いた本だから、きちんと「日本の侵略によって、国民党政府は支配地域住民に多大な負荷をかける政策をとらざるを得なかった」と書いてあるが、政府が住民にやっていることは結構ひどい。戦争中、徴兵制やら食糧徴発やらこれだけ一般市民に負荷をかける政策を実施し、しかも政策が賄賂とる地方役人なんかに歪められて実施されたとなれば、そりゃあ戦後、国民党政府は「腐敗している!」と糾弾されるのも無理はない。「国民党の官僚層が腐っていたので、共産党の戦いが民衆の支持を得た」みたいな建国神話は人民共和国政府の宣伝で、単に民衆とは関係ない2つの権力が戦争して共産党が勝っただけじゃん、と疑っていたが、やはり社会の変化が新しい政権の性格を規定するような面があるのかもしれない。
誤解を招く暴論を付け加えると、戦争が起きるのは侵略された国が抵抗するからで、ミュンヘン会談後のチェコだったり、1945年8月15日以降の日本本土だったり、素直に占領されれば戦争は起きない。占領前の自国政府より占領軍の方が良い統治をしたという例があるのかは分からないが(たとえば1945〜47年のGHQが戦前の日本政府より良い統治機構だったと思っている日本人は少なくないはず)、日中戦争は日本軍という悪らつな占領軍に対して中国人民が自発的に抵抗運動へと馳せ参じたというヒロイックな話ではなく、実際には日本国家という暴力装置によって集められた徴兵制軍隊と国民党政府という暴力装置によって集められた徴兵制軍隊が戦った場合、ナショナル度の年季が高い方が強かったという風に見ることだって出来るかもしれない。
もちろん戦争中に華北の日本軍が善政を敷いたとは到底思えないし、「中華民国に満州を支配する権利なんかない」みたいな歴史観を持つ気もないが、最近の研究だと汪兆銘の南京政府が日本軍の意向とは別に、支配地域住民のことを考慮した行政施策を行っていたという面もあるらしいし、満州国や南京政府にしろ、この本で初めて知った関東軍とつるんで内モンゴルに自治政府を創ろうとしたモンゴル族の皇族にしろ、「傀儡」と呼ばれた政府にも行政サービスに関してはまともにやるつもりだった人達もいたのだろうし、支配領域の住民から選ばれて住民のための施策を行うから「正統政府」なのか、国際的に認知されているから「正統政府」なのか、或いは政権を担当している民族と住んでいる民族が一致すれば「正統政府」なのか。それを「神話」ではなく、実証的な歴史研究で明らかにしようとする努力は素晴らしいことだと思う。
文脈から離れてみれば、地方権力が徴兵制の人数合わせに余所者の商人なんかを拉致して軍隊に送り込む話とか、国民党軍が弱かった理由がよく分かるし、中国のことを馬鹿にしたい右寄りの人が喜びそうなエピソード満載なんだけど、一介の兵士でさえ勇敢で士気も高かったことを誇るのが右寄りであるならば、日頃は田んぼを耕している農夫が戦場に行くと勇猛果敢な兵隊になれる(←これは机上で考えるほど簡単なことではないだろう)ほどの国家の圧力―国家と直結したムラ社会から受ける圧力に弱い人もいれば、積極的に「国民」であることを誇りに思うタイプもいるだろうが―こそ人間中心の社会からは排除されるべきと考えるのが左寄りの人だろう。個人的には、21世紀人が「近代」や「国民国家」を疑うのは当然としても、著者は「国家という暴力装置が力を増すほどに、下々の人間は不幸になる」という考えに過ぎるような印象を受けた。「戸籍とか検地とか公平な法治を行う施策は住民を管理する装置だ。人間には国家に管理されない自由がある!」と言ったら、そうなんだろうけど。もちろんこの本の中でそんな単純化されたことが書いてあるわけではなくて、あくまで自分が読んだ印象。
ひどい文になったが、知識がないためこれ以上はまともに深まらないので、そのまま載せる。