パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

エリス・クラウス著『NHKvs日本政治』

正確にはドキュメンタリーの話題ではないが、NHKドキュメンタリーに関わる部分もあるので、このカテゴリーにさせてもらった。

NHK vs 日本政治

NHK vs 日本政治

内容は、「NHKがなぜ中立的だとか退屈だという特徴を持つのか」(p.1)という問いに始まり、「1960年代から80年代までテレビニュースを支配していたのはNHKであった。このおかげで、日本が戦後直後の不安定と対極化した政治対立を克服して、民主主義国家としての正統性と安定性を手に入れることができたということができる。また1990年代になるとNHKニュースが相対的に衰退し、民放局が作る新しいスタイルのニュースが台頭した。この新しいニューススタイルの台頭は、従来の国家の正統化のあり方を変えた。つまり民放のニュースの台頭によって、近年の国家に対する国民のシニシズム、疎外感、そして改革を求める動きを説明することができるのである」(p.3)という結論に至る。これが本当ならば、もっと話題になって良いくらい衝撃的なネタだと思うのだが、実際に読んでみると確かに積極的に取り上げるには胡散臭いというか、壮大な仮説の範囲。著者もテレビが人々の心にどれくらい影響を与えたかなんて正確に測定出来ないと分かっているので、様々な傍証を繰り出してくる。その繰り出してくる歴史的経緯やシステムの話が面白いので、NHKに興味がある人は読んで損はないと思う。もっとも、巻末にある脚注で上がっている80〜90年代に出版されたNHK内幕物を既に読んでいる人には知っていることばかりかもしれない。
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本書の中では特に「7時のニュース」が取り上げられているが、この番組が中立的で退屈な理由その1は、システムが大手新聞を真似て作られているから。報道局の中に社会部/政治部/経済部等々分けて記者クラブに人員を置き、省庁で取材した記者が原稿を書く。アナウンサーは決められたイントネーションに従って原稿を読むのが仕事で、自分の意見を言うことはない。事前に予測出来る審議会が開かれる会議室や閣議前の絵面が多く、迫力や刺激が強い映像はほとんどない。映像付き音読新聞といった趣き。
NHKのニュースで扱われる国家アクターは、首相や内閣といった政府でもなく政党でもなく、国家官僚機構の活動、或いは官僚に助言を与える専門家の審議会であるのは、もしかすると日本の公共放送に限ったことではないのかも、ということで各国との比較もやっている。米国の3大ネットワークニュースでは、大統領と内閣がほとんどで官僚は出てこない。イタリア(RAI)は政府や行政よりも政党のニュースを伝え、報道スタイルも「イタリアのテレビ・ジャーナリストは、現実の権力関係に関与し、そこで訓練を積む政党党員」であり、特定政党の視点を伝える。視聴者もコメンタリーが偏っていることを織り込み済みで見る。ドイツは、政府よりも政治家・政党・議会のほうを報じるが、政党放送の中立性に細心の注意を払っているところはNHKと似ている。スウェーデンの公共放送は経済や社会のニュースが中心で、政府活動や政治に関するニュースがもっとも報道されていないが、その中でイタリアやドイツと比べれば官僚が登場する割合は多い。フランスは日本と同様にエリート官僚が国を動かしていると考えられているが、フランス(F2)のニュースに官僚や新政策はあまり登場せず、大統領や首相、或いは犯罪/スキャンダル/捜査のネタが多く、裁判所と警察が多く登場する。そして迫力ある映像も多い。また、リポーターが分析や視点の提供を積極的に行う。イギリス(BBC)はNHKと類似する点もあるが、内閣と官僚機構ならば、内閣の方が多い。またフランス同様に解釈的なコメントをつけることも多い。以上、お国柄の違いがなかなか興味深い。

この行政国家の活動は、ニュースで描かれているように儀礼的な会議を開いて、政策・社会目標や社会ルールを策定することである。その意味で国家は、何よりもルールと意思決定の儀礼的な策定者として描かれている。(中略)国家は、国民の利益を守る、パターナリスティックで積極的な守護者として提示され、社会の諸問題に対応する姿が描かれる。官僚機構や審議会は、絶えず新しい政策を考案したり、古い政策を改善したり、スキャンダルや犯罪の被疑者を追跡している姿で報道される。(中略)アメリカのジャーナリストは、自分たちを、国家に対する一般市民の利益の番犬として考えることを好んでいる。しかし日本で市民の利益を守っているのは、ジャーナリストではなく国家自身である。市民に代わって人間社会特有の過ち、欠点、軋轢を明るみに出し、さらにそれらを管理したり対処したりしているのは、国家なのである。(p.45-46)

上記の文章は日本社会に対する鋭い眼かもしれない。斉藤貴男氏なんかはアメリカ型ジャーナリストとして「国家に操られるな。国家を監視するメディアを縛る法律を作るな」と訴えているけど、「7時のニュース」的世界に親しんできた人からすれば、国家(官僚)自身が市民の利益を守り、衝突を調停し、古くなった制度の改革を担い、社会を安定させているのだから、監視する必要はないし、むしろNHK以外のマスメディアの方が信頼されていなかったのかもしれない。
自分が生まれる前の話になるが、1960年代の学生運動や公害訴訟などを「7時のニュース」はどのように報じたのだろうか。やはりデモとか衝突といった動きのある画は流されず、国会で対策法案が可決されたり、御用教授が集まる専門家審議会の様子が映し出されるだけで、見ている人は「企業や政治家は不祥事を起こすけれど、役人や偉い先生が対策を考えて下さる。日本という国はうまく運営されていることよ」という感想を持つように仕組まれていたのだろうか。それだったら「うまく運営・仲裁どころか役人もワルどもとグルなんだ!」という体験をした被害者は浮かばれないし、マスメディアに対する不信感もつのったことだろう。
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中立的で退屈な理由その2は、よく知られている通り、権力に気を遣っているから。気を遣っている理由も次のように好意的に説明されている。クラウス氏は基本的にはNHKニュース大好きっ子であるからして、その辺りのバイアスは差し引いて読むべし。

NHKの組織的なイデオロギーは、政治家や官僚を傷つけないような中立的で非論争的なニュースを確実に提供することである。そして、誇りを持って「誰もが信頼できるニュース」を提供する。こうしたNHKの方針とイメージを支える根本原理は、公共放送として存在することにある。すべては、一般市民から受信料を集め、予算が国会で承認されるということからはじまっているのである。(p.101)

日本の放送の規制に関する法的制度は、NHKに対してあからさまに政治圧力をかける際のチャンネルを極めて限定的なものにしている。また、すでにみたように、政府はNHKの料金を集金する法的な力を持っていないし、資金についても供給していなければ所有権もない。さらに、公然と経営に口出しすることもなければ、直接的に経営委員会を通じて番組内容に干渉することもない。このような主張ができる公共放送は民主主義諸国でも他にないだろう。政府がNHKに対して持っている唯一というべき法的な権力は、全体の予算を通過させるという国会の力だけなのである。(中略)
NHKの幹部らは、たとえ多くの法律が番組内容への干渉を常に禁止しているにしても、予算審議の時期には、なぜニュースで自民党をそのように取り扱ったかを正統化し、質問がくれば答えなければならない、ということは知っている。そして自民党を敵に回せば、NHKの予算案を国会に提出しにくくなる、ということも知っている。さらにこの幹部たちは、戦後のほとんどの時期、自民党が政府や国会の多数派を支配してきたことも知っているのである。政権交代がないなかでは、政府を批判することは自民党を敵に回すことを意味し、それが長期化することさえも意味するのである。(中略)
放送に対する政治的コントロールは、法律でも、規範としても、制度的にも制約されている。その意味で日本の政治家は、放送内容に正式かつ公然と干渉する方法を持っていない。しかし、彼らが不満を明らかにして報道内容を制限したり、あるいは自分たちにとってネガティブな内容になりそうな報道に歯止めを掛ける方法は少なくとも存在するし、実際に自民党議員は利用してきたのである。このように、法律、規範、そして制度的な制約条件が、逆にインフォーマルないし舞台裏の方法を利用したコントロールを促してきたのである。(p.146-147)

ここまで読んで「NHK上層部或いは政治部は自民党とズブズブで許さん」と思った人も「自民党の長期政権が続くなか、よく自律性を保ったものである」と思った人もいるだろう。法的には自由だけど、法以外の要素で制限されるという現象は日本の組織全てにありがちなことなので、NHKだけに自立せよというのは自分には躊躇われる。
50年代半ばには数%だったテレビの普及率がわずか10年足らずで5割を超えたという。60年安保以降、自民党内閣は国を二分するような論点を避け、経済成長に邁進、これを支えたのが「官僚様は日々この国を順調に運営していますよ」というメッセージを放ち続けた「7時のニュース」である。クラウス氏は「7時のニュース」の視聴層を、自民党の支持層と重なる勤めに出ていない農村部の主婦や高齢者(21世紀風にいえば“B層”か)であるとしている。そして、こうした官製ニュース番組に飽き足らなくなった(かつ7時に帰宅出来ない)都市労働者へ向けて「ニュースセンター9時」や後の「ニュースステーション」が求められたというが、個人的には小熊英二氏の「1975年を境にに日本社会は変わった」説を推していきたい。「安倍首相が懐かしむのは戦前ではなく、戦後の夕食までに勤め先からお父さんが帰宅する小津映画や『サザエさん』のような世界観」「1975年頃からその世界が崩れ、サラリーマンは残業で帰れなくなるなど働き方も変わった」というのを信じるとすれば、1975年以前は勤め人でも「7時のニュース」までに帰宅して家族で見ることが出来たのではなかろうかと推測してみる。
まとめると、自民党は政治よりも経済に力を入れ、NHK「7時のニュース」で官僚が国を見事に運営している様を描き、国民はニュースを見て実感出来つつあった経済的豊かさが国家運営の巧みさにあると思い、選挙では与党自民党に投票する。この見事な三角形が機能していたのが1960〜75年という時代。
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85年に「ニュースステーション」が始まった後の世界は自分にも馴染みが深い。クラウス氏は「ニュースステーション」的なスタイルに厳しいコメントを付けている。付け加えると、米国で本書の初版が出版されたのは2000年のこと。野党への辛口も当時の状況が絡んでいるのだろうし、今もこう考えているわけではないと思う。

番組のなかで久米宏は「意見」を述べていて、この点こそNHKの事実に基づく中立的なスタイルとは異なった一般的な特徴ということもできる。とはいえ、これを「意見」とみなしてしまえば、コメント、批評、懐疑論も堕落もいよいよ近いということになってしまう。というのは、国家に反対するといっても、何か代替的な政策が明確に提供されることはないからである。国家とその政策は、ただ面白おかしく叩かれているだけである。(p.274)

ニュースステーションは、代替的な何か良い視座を提供するということもなければ、独自の調査報道を行うこともない。その意味では、テレビニュースが持ちはじめたこの多様性というのは、真に革新の方向を進めるものではなく、むしろ、新しい保守国家への流れを押し進めているだけかもしれない。ニュースステーションは巨大企業をスポンサーとしているし、そもそもその存在は、世界最大の広告代理店である電通のおかげだった。戦後初期から次第に減ってきた国家の力をNHKが反映するように、久米宏は社会に増大する企業の力を反映している。彼は新しい原則に基づく野党の先頭というよりも、「トリックスター」となっている。つまり、力のある裕福な人々と距離を置きながらときには抵抗することさえありながらも、実は同じエスタブリッシュメント層に属して部分的には彼らを支えているという、二重の役割を演じているのだ。(中略)
こうしてみると、彼は、日本の政党政治の変化そのものである。かつての新進党民主党のように、元自民党議員を一部に含んだ、(あきれるくらい離合集散しているようだが)巨大な「野党」勢力が作られるなかで、日本の有権者は、自民党と一連の小政党との選択に直面している。これらの小政党の原則や行動は、普通は自民党よりさらにポピュリストで、政治利益だけを目指し、ご都合主義を採用する点ではほとんど一緒である。諸野党は、原則に基づいてしっかり反対するというよりも、曖昧な保守的ポピュリズムに結びついて、斜に構えた孤立の立場を好むようになる。意見の相違というのは、もはや目的についてではなく、各々の方法について表面化するのである。(p.284-285)

米国人政治学者が90年代後半の野党からポピュリズムの匂いをすごく感じていたことに、同時代を生きていた日本人(というか自分)としては驚く。21世紀の小泉型ポピュリズムの原点は野党の手法を取り入れてのカウンターだったのかもしれない。そこから歴史の流れを振り返ると、今の空気を醸成したターニングポイントは、つまり「7時のニュース」的世界を完全に壊した出来事はオウムと阪神大震災だと考えていたが、実は薬害エイズ問題における菅直人氏だったのかも。あれ自体は必要且つ正当な方法だっただろうが、政治の世界で、その後の「公務員とか医者とかエラそうな人種はメディアでいくらリンチしてもOK」「政治家は地元で地味に送りバント(←思えば経世会的な技)しなくても、逆転満塁ホームランを一発打てばマスコミ通して10年食える」という風潮のきっかけを作った気がする。
是枝裕和著『官僚はなぜ死を選んだのか』には、「単純に水俣病患者を訪問して話がしたい」という人情家の環境庁長官と「政治家が特定の地方を訪問するからには相応の成果(手土産)が必要」という役所の論理に挟まれて自殺する官僚の姿が描かれている。これが1990年の話。長官と県知事が会談する前に、会談の「成果」談話を決定すべくファックスでやり取りする役人も批判されているが、台本には台本の良さもあるのではなかろうか。たとえば先に触れた菅氏の件、見えない所で官僚を怒鳴り付けて書類を出させたのは素晴らしい。立派な上司だ。そこで更に外部に向かっては「裁判関係者の開示請求があったので再び探したところ見つかりました」と厚生省の面子を潰さないで手柄にさせておけば、「ああ、こういう場合は隠すより出した方が自分達の利益になるんだ」と学習し、その後の開示請求でもシステムとして「大臣、こんな資料があるのですがどうしましょうか」くらいはオープンになったかもしれない。それを「どうだ、俺が命令して出させたんだ!官僚は政治家がコントロールするものだ!」と勝利宣言したら、信頼関係は築けない。「楽屋では怖い政治家だが、表では持ち上げてくれる」ではなく「楽屋では政策に興味もないが、メディアの前では官僚を叱ってポイントを稼ぎたがる」の行き着いた先が外務省の田中真紀子騒動で、ついでに「内向きには恫喝、外ではニッコリ」経世会送りバントの名手だった鈴木宗男氏も失墜した。もちろん自分はこれらの問題に精通しているわけではなく当時の記憶と印象だけで書いているので菅氏や田中氏や鈴木氏に失礼な記述があるやもしれないが、そもそも印象批評こそが「ニュースステーション」的政治のキモなのだから、ここで上げる例としては多分それほどずれていないはずなので、3氏には御容赦願いたい。
そして完成度の高い台本よりアドリブの名手が喝采を浴びる21世紀へようこそ。
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最後に余談というかメモしたけど使い道がなくなった引用を貼ってみる。経営陣対労組とか予算を人質に与党介入とか大昔からずっとあったんだなあと感慨に耽ることが出来る歴史書でもある。

戦後当初の左翼の考え方は単純なもので、放送の自由を主に脅かすのは、戦前にあったような国家の直接的な抑圧だとしていた。しかし「三木カット」事件や上田哲の退陣を経験して、組合はより洗練された考え方を発展させた。つまり、政府があからさまに規制するよりも、政権を握る者たちの隠れた圧力に屈して経営陣が行ってしまう「自己検閲」のほうが、放送の自由にとって現実的には大きな脅威となっているということである。だとすれば、それを唯一解消できるのは、NHK内部の組合の力を強化して、編集決定に参加する権利を正式に認めることだけである。言い換えれば、経営陣を内部チェックすることが必要だというわけである。(p.212-213)