パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

木村元彦『終わらぬ「民族浄化」』

2005年6月22日発行、集英社新書
本書を含めたこれまでの著作を読む限りだが、ルポライター木村氏の行動原理とは、一つは政府や大手メディアから疎外されたマイノリティの言葉を代弁すること、もう一つは自分の足で取材した事実だけを発すること、と推測される。自分はそんな木村氏の文章を愛読し、木村氏をとても尊敬している。本書も素晴らしい仕事だ。それを頭の片隅に置きつつ、かなりの妄想を含んだ以下の文章を読んで頂けると有り難い。

本書を読んでいて「おやっ」と思った箇所が2つある。それを以下に引用、

「新聞で読んだぞ。日本人が北朝鮮に連れていかれた拉致事件があったそうじゃないか。11人だってな。俺が思うに日本政府はまだ毅然とした対応を取ったのではないか。でもチョービッチは我々の拉致に何もしてくれなかった」
(P.29)
※チョービッチはユーゴのコソボ問題担当大臣

北朝鮮は日本から何人拉致したのですか? 数は分からない。いったいどうして起こったの? あなたも日本人なら私の気持ちが分かりませんか?」
(P.172)
※「数は分からない」の部分は、木村氏の返事をオウム返ししたと思われる。

いずれも、家族をアルバニア人に拉致されたセルビア人から木村氏への問いであるが、これに木村氏が何も答えていない事に引っかかりを覚えた。「被取材者からの逆質問への回答という形で、客観・中立なジャーナリストが自分の意見を書いたりしないのは当然じゃないか」と思われるかもしれないが、知っている人は知っている通り、木村氏は著作の中で、泣いたり怒ったり悔やんだり、被取材者と議論を戦わせたりする人である(だから自分は木村氏をジャーナリストではなくルポライターだと規定している)。だからこそ余計に、このセルビア人から発せられた質問の尻切れトンボ感が解せない。読めば分かるが、上記の2つの文章は無くても立派に文意は通る。被取材者からの逆質問なんて、サクッと削除しても何の支障もなかったはず。それでは何故この2つの会話は残されたのか。自分はそこに木村氏の誠実さをみる。

被害者或いはその家族など当事者には申し訳ない言い方になるかもしれないが、北朝鮮拉致問題をめぐる報道というのは興味深いメディア展開をした。北朝鮮の指導者が拉致を認めたその時から、(少なくとも大手メディア的には)「要らぬ波風を立てる偏狭な民族主義者」扱いされながら被害者家族の側から報道した者が「政府や大手メディアの仕打ちにもめげず事実を追求した正義漢」となり、「拉致などない」と言っていた国際平和主義者が「独裁者の手先」となってしまった。つまり、大手メディア上の善(マジョリティ)と悪(マイノリティ)が一夜にして入れ替わってしまう現象が起きた。ついでに言えば、政府が良い仕事をしたことにもなった。こうした時「政府や大手メディアから疎外されたマイノリティの言葉を代弁する」フリーライターの立つ場所はどこなのか。
政府というべきか、自民党の大多数というべきか、それらの総体としての小泉首相拉致問題に関心がないのだろうし、本来ならば拉致被害者なんか無視して、とっとと北朝鮮と国交を結び、経済的利益だか政治的得点だかを上げて幕を引きたいのが本音だろうと思う。しかし、現実はそうなっていない。本来、国の政策には何の影響を及ぼす力も持たないマイノリティ(拉致被害者家族)の声が、メディアによって表に出て、メディアによって増幅されて国民の声と重なり、国家間の交渉をストップさせている。これが一般的にどれほど有り得ないことかは、本書の中に出てくる西欧世界との関係改善を優先させ、拉致被害者の声を無視しているユーゴ政府と比べれば分かる(個人的には、少数の被害者より目の前にある国家利益を優先するという点では、ユーゴ政府の方が標準だと思っている)。
木村氏は、これまでのユーゴ空爆の件やイラク人質の件などから積もり積もって日本政府や外務省にはかなり懐疑的というか批判的であるのは間違いない。しかし個人的な感情としてはそうであっても、セルビア人の上記の質問に対して「いや、日本政府は人権なんて何も考えちゃいない。奴らのやっていることはアメリカ追随のクソだよ」と返せば、セルビア人から「拉致被害者数人を取り返して、国交交渉でも妥協しない日本政府のどこがクソなんだ」と言われるかもしれない。また、例えば「私は北朝鮮拉致問題について取材したことがないから、何も言えない」と返せば、「取材していなくても、情報の伝聞と培った経験から1人の国民として何か意見があるはずだ。12時間も飛行機に乗って他国の拉致問題を取材しているくせに、自国のことは分からないのか」と問い詰められるかもしれない。
いずれにしろ、「政府や大手メディアから疎外されたマイノリティの言葉を代弁する」「自分の足で取材した事実だけを発する」という立ち位置こそが木村氏をして返事を出来なくさせたと考え、木村氏が「返事を出せなかった」という事実を残しておくために、上記の質問のみをその著作に刻んだと考えれば、それもまた誠実さの表れといえるかもしれない。

では、質問の回答はどこにあるのか。
木村氏が『スポルティーバ』2005年11月号(集英社)に書いた「現代サッカー偉人伝・今西和男〜日本のサッカーを支え続ける男」という文章には、今西氏と懇意の在日朝鮮人サンフレッチェ広島に在籍するリハンジェのエピソードが出てくる。
最近、発売された『サッカーJプラス』VOL.02(エンターブレイン社)に載っている木村氏執筆の「INSIDE CLUB 大分トリニータ」では、トリニータに出資するマルハン会長の話はもちろん、トリニータ社長のエピソードに今西氏を絡めたり、シャムスカ監督を批評するためにオシム監督を出すなど、これまでの仕事で築いてきた人脈をフル活用している。
また、検索してみると、今年6月に『週刊ポスト』(集英社)で『「在日サッカー」のDNA』というノンフィクションを(恐らく)4回にわたって連載していたらしい(申し訳ないが未読)。
これらを総合して推測するに、今度出るオシム本の後には在日朝鮮人社会のサッカーを扱うのではないだろうか。拉致問題に直接切り込むのではなく、あくまで得意分野のサッカーを通して自分の足で事実を追う。それが2人のセルビア人への回答であり、それで答えられなかった自分自身への落とし前とするのではないだろうか。
これまでの一連のユーゴ本、ピクシー本も、国際社会から悪と決めつけられた側からの視点で書いたチャレンジャーな内容だったが、そうはいっても(本当はそう言ってはいけないのだろうが)日本とは別の世界の話、一部好事家の間で話題になる本だった。しかし、今度は違う。「在日サッカー」は多くの日本人にとって当事者性が強い話題であり、善悪や思想を抜きにした事実を積み重ねた内容であっても、かなりの反響、しかも否定的な反響を呼ぶ可能性が高い。それを分かっていながら、ユーゴで受けた質問に回答するためにこのテーマを扱うのだとすれば、本当に凄い人だ。