パロップのブログ

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BS1『BSドキュメンタリー』〈証言でつづる現代史〉「“ピョンヤン”を名乗れ〜よど号事件・交信記録の全ぼう」

2006/10/28初回放送、50分、撮影:小松正一、リサーチャー:黄丞載/竹内美穂、ディレクター:宗像竜大、制作統括:佐橘晴男/林新、共同制作:NHK情報ネットワーク、制作協力:メディア・メトル/松井秀裕、制作・著作:NHK
以下、NHK公式サイトより引用(英数字は全て半角に修正)する。

1970年3月31日、羽田発福岡行きの日航機「よど号」は、赤軍派9名によってハイジャックされた。乗員・乗客129名を人質に、赤軍派平壌に向かうことを要求した。しかし、福岡板付空港を飛び立ったよど号が向かったのは、平壌ではなく韓国の金浦空港だった。金浦空港では、空港を平壌に見せかけ、ハイジャック犯を欺くためのさまざまな偽装が行われた。しかし、偽装は赤軍派に見破られ、3日後、よど号平壌へと向かった。誰が、何のために、金浦空港の偽装作戦を考えたのか。真相は、今なお謎に包まれている。番組では、ソウルのアメリカ大使館と本国との間で交わされた外交文書、韓国の管制官よど号との交信記録、金浦空港の偽装工作の写真などの新たな資料を手がかりに、事件に関わった日本、韓国、アメリカの要人にインタビューし、よど号事件の謎に迫る。

よど号事件そのものについては当事者の著書等で大部分が明らかになっており、また政治的な背景などをくどくどと説明されるのも時間の無駄。よって本番組が「誰が、何のために、金浦空港の偽装作戦を考えたのか」に焦点を絞ったのは正解。ただ、元管制官のチェ・ヒソクによる証言及び氏が保管していた交信記録がさも大スクープであるかのような印象を与える構成は正直いただけない。
以下、2006年3月30日に韓国政府がよど号事件に関する外交文書を公開したことを報じた各紙を引用する。長々しいし、著作権者である各新聞社には申し訳ないが、チェ・ヒソク氏の証言が既出であることを示すにはこれが一番手っ取り早い。なお、多くの記事は検索して引っ掛かった他サイトからの孫引きなので、子引きしている元サイトが記事を改変していた場合は、当然この引用も誤っていることになる。

【ソウル30日共同】韓国政府は30日、1970年の赤軍派グループによる日航機「よど号」ハイジャック事件などの外交文書を公開、36年後の今も最大の謎になっている同機の韓国・金浦国際空港着陸を石田真二機長が自ら計画的に行ったと同政府が結論づけていたことが分かった。しかし、こうした見方を一貫して否定している石田氏は今回も共同通信の取材に「韓国に降りる意思は全然なかった」と言明、真相は依然不透明なままだ。
公開文書は、機長が航法機器で機体の位置を正確に把握でき「平壌アプローチ」と呼び掛けた無線の周波数が韓国軍のものと分かったはずだと指摘。あらゆる点から総合的に判断して「金浦着陸は老練な石田機長の計画的で自らの意思による着陸だった」とし、こうした点を公表しなかったのは「石田機長の安全を考慮」したためだとしている。
共同通信

【ソウル西岡省二、堀山明子】韓国政府は30日、1967〜75年の外交文書を公開した。70年に起きた日航機「よど号」乗っ取り事件で、福岡から北朝鮮に向かった同機が韓国・金浦空港に降りた「偽装着陸」を「機長の意思による計画的な着陸」と結論を出した当時の韓国政府内部文書が含まれている。
しかし、毎日新聞の取材に応じた日韓双方の直接当事者が全面否定しており、真相解明には至らなかった。
よど号事件直後に作成された韓国外務省(当時)の内部資料「JAL機拉北事件措置経緯」には、よど号が韓国・北朝鮮軍事境界線(休戦ライン)上空に接近した後にジグザグ飛行を始め、北朝鮮上空に進入した後、今度は南下して韓国側に戻り、金浦空港に着いたと記されている。
また韓国空軍の説明として、▽よど号が福岡離陸直前に韓国の交信周波数を使うことになった▽日航機は飛行位置を正確に把握できた▽ジグザグ飛行で時間を稼ぎ、平壌到着予定時刻に時間を合わせた――などと指摘。これらを根拠に「金浦着陸は機長の意思」と主張し、「機長の身辺を考慮して」発表しなかったとも記している。
しかし、同機を金浦空港に誘導した蔡ヒ錫(チェヒソク)元管制官(64)は毎日新聞の取材に「韓国中央情報部(KCIA、現・国家情報院)から『理由は聞かずに金浦に着陸させろ』と指示を受けた」と語った。石田真二元機長(83)も「『平壌に入ってくるように』と管制官に指示され、降りただけ」と反論し、江崎悌一元副操縦士(68)も「事前に韓国固有の周波数を使うよう指示は受けていない」と疑問を示している。
毎日新聞3月30日](※一部省略)

70年のよど号乗っ取り事件で、当時の韓国政府は、よど号金浦空港に偽装着陸したのは「機長の意思」だったとする見解をまとめていたことが韓国側の公開文書でわかった。しかし、「金浦着陸」を誘導した管制官を含む当事者たちは韓国政府の見方を強く否定。日本初のハイジャック事件の大きな謎の一つだった偽装着陸は日本の意向も映した「米韓の指示」による連携作戦だったとの見方を示す。
外交文書によると、韓国政府は(1)韓国管制で使う周波数を機長自ら選択した(2)管制は当初、「ソウルアプローチ」と発信し機長も認知した(3)機長は交信で4人の乗っ取り犯がいることを示唆した、などの理由を挙げ、金浦空港着陸は「機長の意思」と結論づけた。当時の白善●(火へんに華)(ペク・ソンヨプ)交通相(85)も「金浦への緊急着陸には関知しなかった」と振り返る。
だが、金浦のレーダー接近管制の担当官だった蔡●(にすいに熈のノをとったもの)錫(チェ・ヒソク)さん(64)の記憶は鮮明だ。
「(情報機関)中央情報部長だ。乗っ取り機が来る。(朝鮮民主主義)人民共和国と言ってもいいから(金浦に)降ろせ。(朴正熙(パク・チョンヒ)大統領)閣下の指示だ」
70年3月31日。同機が福岡を離陸する直前に電話を受けた。駐韓米大使の指示を受けた米軍の上官も「君が管制を指示せよ」。そこによど号の電波が飛び込んだ。「平壌アプローチか」。「そうだ」。緊張の中、偽装誘導が始まった。
よど号の操縦桿(かん)を握った石田真二・元機長(83)=大阪府岸和田市=は語る。「ソウルと平壌は近く、どちらも行ったことのない私には区別が難しかった。不審に思いながらも『こちら平壌』と相手が答えたので平壌と思いこんだ」
蔡さんは対空砲火の恐れがある軍事境界線上空を避け、大きく北回りで誘導した。日本海から北朝鮮上空を横断、平壌付近の上空をかすめながら黄海上で旋回、金浦に着いたと証言する。
蔡さんは事件後、情報部に「何も言うな」と脅されたが、当時の交信記録を今も手元に残す。
「当時の管制は米軍の指揮。情報部の指示があっても米軍の命令がなかったら動けなかった」と述懐。米国には日本から要請があったのだろうと推察する。
石田さんも「韓国も日米の要請があれば嫌といえなかったが、体面上、認めることはできないのだろう」と話す。
朝日新聞

韓国の外交通商省は30日、1970年3月31日に日本の赤軍派メンバーが日航機を乗っ取り、ソウルの金浦空港を経由して北朝鮮に渡った「よど号」ハイジャック事件などに関する外交文書を公開した。
犯人グループが求めた平壌行きを阻止するため、日本の防衛庁が米軍に協力を要請していたことが判明。韓国側が当時、金浦空港着陸について、よど号の機長が計画的に行ったものと結論づけていたことも明らかになった。
公開された文書によると、よど号福岡空港から北朝鮮に向けて飛び立つ前の31日午前、防衛庁は米空軍に対し、米空軍機による「エスコート」や、韓国内にある米軍基地への着陸を要請したが、米国側はこれを拒否した。
一方、事件当時から最大の謎とされた金浦空港着陸の理由を巡っては、よど号の機長だった石田真二さん(83)が解放後、「着陸して初めて韓国と気づいた」と発言。韓国側の誘導説なども取りざたされた経緯がある。
しかし、今回の公開文書では、よど号の操縦室と金浦空港の管制塔との交信記録を基に、<1>よど号は管制塔を呼び出す際に、平壌を名指ししなかった<2>交信には、共産圏では使われない周波数が用いられた――などの点を指摘。交信相手が韓国側であることを十分に認識できる状況にあったとして、「老練な機長の計画的な自意(自分の意思)による着陸だった」との結論を導き出している。
これについて、石田さんは、改めて「韓国に降りるつもりはなかった。事実は全く異なる」と話し、韓国側の結論を否定している。
(読売新聞)【ソウル=中村勇一郎】

平壌だろうと思って着陸した」。よど号の機長だった石田真二さん(83)(大阪府岸和田市)は、ハイジャック事件に関する韓国外交文書の結論に、事件直後からの説明を繰り返した。
一方、副操縦士だった江崎悌一さん(68)(東京都世田谷区)は「管制塔との交信で韓国に降りると確信した」と話し、飛行中から韓国着陸を認識していたことも明かした。
「老練な機長の計画的な自意(自発的意思)による着陸」。外交文書は、事件当時から謎とされてきた金浦空港への着陸の経緯について、そう結論付けている。
これに対し、石田さんは「管制塔が呼んでいたので、それに導かれて着陸したまで」と改めて話し、「米兵がいるのを見て、初めて韓国だと気がついた」と力を込めた。
ただ、着陸前に交信した管制官が滑らかな英語を話していたことや、共産圏では通用しない無線周波数が使われたことから、「疑問を感じながら飛んでいた」とも説明。金浦空港着陸の真相を、「よど号北朝鮮へ行かせまいとした日本政府、日航、米軍、韓国が緊急に協議して決めたのでしょう」と推測してみせた。
外部との無線交信を担当した江崎さんも、「目的地は平壌」というのが、福岡空港を飛び立つ前の認識だったと強調する。「北朝鮮の対空砲火があれば、ソウルに着陸したり、海岸線に不時着したりすることもあるだろうと思っていたが、あくまでも可能性として考えただけです」
しかし、江崎さんは、軍事境界線の38度線をわずかに越えた北朝鮮の領空内で、韓国への着陸を意識した。急接近してきた戦闘機の尾翼に、韓国籍を示すマークがついており、その操縦士が親指を下に向けて「降りろ」というしぐさを見せたことから、「韓国に誘導してくれるのではないかと思った」という。
間もなく江崎さんが無線で「エニイ・ステーション(どこか応答して下さい)」と呼びかけると、「ソウル・アプローチ」と即座に管制塔から応答があった。間髪を入れず、同じ管制官の声で、「スイッチ・トゥー・ピョンヤン 134.1」と今度は「平壌」を名乗りながらも、西側で使用される周波数への切り替えを求める指示が聞こえた。戦闘機は飛び去ったが、この交信で、江崎さんは韓国への誘導を確信した。
ただ、「機長の自発的意思」とした外交文書の見解については、「乗務員の判断で韓国着陸を決められるような余裕は全くなかった」と否定し、「極限状況の中で上空にいた我々と、下にいた人たちの間では、認識にズレがあったのだと思う」と話した。
(2006年3月31日0時12分 読売新聞)

以上、チェ・ヒソク氏の証言がスクープでもなんでもないことが分かる。ただ、ナレーションをよく聞き直すと、

事件当時、一介の管制官だったチェさんが何故よど号金浦空港に誘導したのか。チェさんは30年以上そのいきさつを語ってきませんでした。

と、確かに「これが初めての証言です」とは言っていない。言ってはいないが、ひどくもったいぶって貴重にみせている。なんとずるく上手いテクニックだろう。個人的には、韓国政府が外交文書を公開した当日に、各社横並びで民間人であるチェ・ヒソク氏と石田真二元機長のコメントを入手出来るカラクリも気になるけど、おそらく各社とも素晴らしい取材力を持っているのだろう。
ということで同番組のスクープは、チェ氏に命令した当時のKCIA部長キム・ケイウォン氏に会い、韓国政府が金浦空港着陸を命じたこと、今年3月の政府発表は嘘であること、米日の要請というよりは韓国政府の単独行動であること、韓国政府はハイジャック犯の背後に北朝鮮政府がいると考えていたことなどの証言を得たことである。これは大スクープのはずだが、ちょっと待ってほしい。NHKの表記でキム・ケイウォン氏、検索するのに手間取ったが、一般にはキム・ゲウォン(金桂元)と呼ばれるこの人物は朴正煕政権の中枢に居続け、更には朴正煕暗殺事件に関与した疑いで死刑判決を受けるなど、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男。その証言を簡単に信じて良いかは微妙。というか、おそらくは日米韓朝の当事者それぞれが少しずつ嘘を付いたり、少しずつ隠し事をし、それを墓場まで持っていくのだろうと思う。それはともかく、NHK-BSは韓国現代史の生き字引である金桂元氏に改めて60分番組用のロングインタビューをするべきだ。
ちなみに、KCIAの歴代長官(60〜70年代)は次の通り。

4代-金炯旭(キム・ヒョンウク)63.7.12〜(パリでKCIAに暗殺される)
5代-金桂元(キム・ゲウォン)69.10.21〜
6代-李厚洛(イ・フラク)70.12.21〜(金大中拉致を指揮、後に軟禁)
7代-申稙秀(シン・ジクス)73.12.3〜
8代-金載圭(キム・ジェギュ)76.12.4〜79.10.26(朴正煕を殺害して死刑)

畳の上で死ねるだけでも幸せか。
報道によると機長の石田真二氏は2006年8月13日に亡くなっている。番組のスタンスは「嘘を付いているのは石田氏ではなく韓国の報告書」なのだから、生きている間に放送してあげれば良かったのに、という気はする。ただ、エンドロールの「資料提供」に石田氏の御遺族の名前があったことから考えると、このタイミングでの放送に故人の意思が反映されている可能性もある。「真相を公表して生きているうちに名誉回復してくれ」「論争を再燃するなら自分の死んだ後にしてくれ」のどちらを望むかは、若輩者の自分には想像がつかない。

1974年生まれの自分にとって、田中角栄は同時代史だが佐藤栄作は過去という感覚がある。『SIGHT』2007年1月号で小熊英二氏が「日本の転換点は1975年。何故なら女性の就業率がなんちゃら〜。安倍首相なんかが懐古しているのも戦前ではなく、自身が青年だったこの時期」(立ち読みなんであやふや)という発言をしていて、面白いと思った。以前「今ある資本主義の形は1920年代に始まって1970年代に完成した」という話を何かの本で読んだ記憶がある。チェコのハヴェルは「70年代の南欧、80年代の南米、89年の中東欧と独裁政権がドミノ現象で倒れたのは、1975年の人権問題に関するヘルシンキ宣言がボディブローのように効いたから」というようなことを言っていた記憶がある。日本固有の社会システム、冷戦期の国際関係、数百年単位の経済システムの話をごっちゃにするのはどうかと言われそうだが、これにオイルショックも加えて、1975年前後に社会システムの大きな転換があったのだろうというのが今のところ自分の世界観。倒すべき社会体制が変わったのだから、60年代後半から70年代前半にかけて社会システムに反抗していた世代が、その後コロッと趣旨替えをして体制の中で生きたことにも、それなりの歴史的根拠があるといえなくもない。逆にいえば、当時と変わらない理由で今もシステムと戦っている人は少しピントがずれているのかもしれない。どちらにしろ、1975年以前の世界を体験していない自分にとって「よど号事件」は現代と地続きでない別の世界で起こった事件という感覚は抜けないし、その辺りの限界を自覚しながら歴史をみていくしかない。