パロップのブログ

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BS1『BSドキュメンタリー』「殺戮の地・9年目の対話〜ボスニア 和解への実験」

2004/12/25放送、50分、撮影:矢吹啓司、コーディネーター:大塚真彦/バーネ、構成:荒井俊之、プロデューサー:丸山雄也、制作統括:鈴木郁子/宮下弘、共同制作:NHKエンタープライズ21、制作・著作:NHK/駿
日本くんだりから「ボスニアの現状」をわざわざ取材しに行くわけだから、そりゃあもうナマハゲの如く「対立はねえか〜、対立はねえか〜」と探し回っているだろう番組の内容にあまり興味はない。「和解はめっさ上手く進んでいました」では番組にならない。
番組サイトには、

番組では、表面上穏便に統合が進むモスタル高校の教師、生徒、父兄の本心を、インタビューと対話から見つめていく。

とあるが、外国人テレビクルーに本心を打ち明けるかどうか疑問である点を別にしても、仮に本心を聞き出すことが出来たとしても「だから何?」としか言えない。恐らく1980年代のムスリムクロアチア系間の関係よりも悪感情を持ちながら隣り合って複数民族が暮らす地域はたくさんあるだろうが、それらが全て戦争に発展するとは限らない。戦争を起こすためのワザ、戦争を停止するワザ、和解するワザ、そういった技術を持った政治家や利害関係国がないと、実際には事は起きない。もちろん、事を起こしたい人がその技術を持って元から存在する悪感情をうまく一定の方向へ誘導することはあっても、その逆、つまり感情が戦争を引き起こすわけではないだろう。この番組のようなインタビューは、仮に再び戦争が起きた場合「ほら、見なさい。裏ではこんなに悪感情が渦巻いていたのだよ」という『戦争は必然』説を広める証拠材料にしかならない。
例えば、番組内で、ムスリム側の校長が内戦中にクロアチア系の教え子によって強制収容所へ連行され、戦後、その教え子と道で出会った時、相手が「先生、お元気ですか?」と挨拶しにきたエピソードも、校長は体験を未だに生々しい恐怖の感情と結びつけているけど(それは当然だ)、連行した教え子にとっては、お隣り民族との戦争という「制度」の中で「役割」として先生を連行しただけで、別段民族的な憎悪があったわけではないのだろう。もちろん加害者と被害者では記憶の残し方が違うというのはある。
また、以下はクロアチア系女子生徒2人のインタビューの書き起こしだが、

A:アディはミックスだから生徒会なんて関係ないはずよ。
B:ねえ。
―なぜそう思うの?
A:わからないけど、ずっとそう感じているわ。
B:アディを嫌いじゃないけど、私たちとはまったく違うのよ。

これなんかは、恐らくカメラを止めて1人ずつに話を聞いたら、全然違う答えが返ってきそうな気がする。「さっきは友人の○○が傍にいたから、ああ言っただけで、本当は別に彼の事嫌いじゃないの」とか。インタビュー自体も「1人じゃ嫌。友人の○○と一緒なら出ても良い」みたいなノリで受けてそう。10代の女の子2人がカメラの前で互いに相槌を打ちながら答えた内容にどれほどの意味があるのか、といったら偏見になるか。
主人公アディ君が選挙で負けたのも、番組サイトでは、

開票の結果は、サーシャが35票を取り圧勝。アディは1票だけだった。二人は同じ小学校を出ている友達同士。二人の結果を大きく隔てたものはなんだったのか。

とし、実際の番組内では、選挙後に同級生が「純粋なクロアチア人に投票しようって談合したんだ」と言っているのが、民族を理由とする証拠のようにされているが、休み時間にワイワイ集まって「おい、みんなで誰々に投票しようぜ」って盛り上がるのは高校におけるごく普通の光景だし、実際は彼がムスリムクロアチア系のミックスだからではなく、彼の押しつけがましい正義漢ぶりがあの年頃の同級生にはうざかっただけかもしれない。アディ外しの理由が「何となく生意気で嫌な感じ」ではなく「民族的にミックスだから」の方が、私にはかえって表向き気を遣ってくれているように感じる。多感な時期に人格を否定されるよりも自分ではどうにもならない理由で外された方が気が楽だと思う。
ひどく番組を非難しているように思われそうだが、決してそんなことは無く、時宜に適った素晴らしい取材だと思う。個人的には、休み時間に修学旅行時の写真を教室で回し見たりしているような何気ない日常、民族や地域に関わらず、西洋資本主義社会ならばどこでもありうる青春の光景をずっとカメラに収めつつ、その上でちょっとした言葉や態度から民族意識や戦争の後遺症が微かに映れば、ドキュメンタリー作品として凄く評価したと思う。