パロップのブログ

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トラヴェルソ『マルクス主義者とユダヤ問題』

このタイトル、「マルクス主義者にしてユダヤ人のラデックが出てくるでしょう!」と狙い撃ちしたらまあまあビンゴだった。エンツォ・トラヴェルソは今年になって2冊も翻訳が出ているが、ヨーロッパのご意見番的ポジションにでものし上がっているのだろうか。 これは初期作。

マルクス主義者とユダヤ問題―ある論争の歴史(1843‐1943年)

マルクス主義者とユダヤ問題―ある論争の歴史(1843‐1943年)

 

 この本全体にはとても歯が立たないのでラデック関係のところだけメモしておこう。他の箇所も拾い読みしたが、勉強になった。どの帝国の支配下で育ったかでユダヤ人問題は全然見え方が違うのね。「宗教的な型の封建的反ユダヤ主義」と「人種的反ユダヤ主義の近代性」の対比とか唸らされる。

東欧ユダヤマルクス主義者の知識階級は、「根なし草のコスモポリタン」と描写された。なるほど、これはスターリニズムがでっち上げたものだが、それでも一度、あらゆる否定的含意を取り去ると、有効と思われる定義である。実際、完全に根なし草の身分が、同化または半同化した、無視できない数のユダヤ知識人を特徴づけており、彼らは“イディッシュ文化”を捨てて、どこであっても異邦人、アイデンティティなき者として存在していた。(中略)カール・ラデックは「根なし草のコスモポリタン」のもっとも真正な姿を表わしている。厳密に言うと、彼はポーランド人とも、ロシア人とも、ドイツ人とも見なされなかったが、もちろん、彼はユダヤ人だった。歴史家ウォーナー・ラーナーは彼を“祖国喪失者(ファーターラントロース)”と定義づけた。p.81

反ユダヤ主義に対するKPDの立場は、1923年、つまり、戦後の革命の一章の結論が出た年から曖昧になった。フランスのルール占領に対するドイツ共産主義者の答えは、コミンテルンの執行委員会の会合の際、カール・ラデックが理論化した、「シュラゲーター路線」〔当時高まったドイツの民族主義イデオロギーを利用して国民的運動を支配するため、一時期ナチとの協力さえしたKPDのとった、うろんな折衷主義的戦術〕だった。フランスの軍事管理下のルールで破壊活動のため銃殺されたナチ、レオ・シュラゲーターへの思い出は、ラデックにより次のように称えられている。「このドイツ民族主義の殉教者の運命が沈黙に付されたり、軽蔑的に扱われてはならない。(…)シュラゲーター、この反革命の勇敢な兵士は我ら革命の兵士の尊敬に値する」〔ナチもこの若い兵士を殉教者に祭り上げ、反ヴェルサイユ条約闘争の象徴にした〕。ラデックは軍事的に占領された強国と半植民地国とを混同しており、さらに汎ゲルマン主義と被抑圧民族の民族主義とを混同する恐れがあった。この態度が政治的に意味するところは危険なものだった。国を襲っていた民族主義の波に反対するどころか、KPDは、民族解放のテーマに集中したプロパガンダによってこの波に対応していた。この基礎に立脚して、彼らは迷わず国家社会主義者との「対話」を求めた。ラデックは極右の急進派メラー・ファン・デル・ブルックとの論争を始め、『赤旗』はフォン・レーヴェントロ伯爵の発言を載せた。国家社会主義の影響から大衆を引き離すという正当なる関心は、マルクス主義的概念と民族的イデオロギーの境界が段々とぼやけてくるという危険な方向に表れることになった。p.253

SPDは迷うことなく義勇軍を使って革命を圧殺したが、前よりも控え目な物言いをし、今度は思い切って共産主義者反ユダヤ主義を告発した。ラデックとルート・フィッシャーの演説が、『新しい反ユダヤ主義者』の題で『フォーアヴェルツ(前進)』に載った諷刺詩の対象となった。そこではゾーベルゾーン(ラデック)がフォン・レーヴェントロ伯爵と腕を絡み合わせて行進していた。p.254

何の定見もなく、頭が良いからその場の議論では毎回勝っちゃう感じがなんとも辛いね。