本稿のコンセプトは「音楽の素養がない歴史家による音楽史」である。「要するに的外れって事では?」と思った人は正解だが、その辺りは大目に見て、鼻で笑いながら読んで頂きたい。なお、モー娘史シリーズの先行史料として「74分CD-Rで作るモーニング娘。アルバム『3.5』」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20050228)、「74分CD-Rで作るモーニング娘。アルバム『真・愛の第6感』」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20050302)、「モー娘。史(3年1周説)」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20050709)を先に読んで頂くと、より本稿の流れが理解し易いはずだが、いずれも無駄に長いので読まなくても問題はない。
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本題に入る前提として、自分はこのアルバムを10曲のものと考え、最後の2曲はボーナストラックのようなものだと思っている。8曲46分のLP時代に育った80年代人としては、18曲70分とか長過ぎて集中力がとても保たない。今やハードディスクに入れてシャッフルして聴く時代とはいえ、アルバム単位で商品化するのならば、50分程度が丁度良いのではないかと重う。まあそれなら値段も1800円くらいが適正だとは思うけど、ファングッズ感覚・お布施感覚・出来の悪いフォトアルバムに1500円くらい払っていると思えば、我慢の範囲か。
個人的には、折角10人体制になってのアルバムなんだから、飯田・矢口・石川のパートは、(コンサでやっているはずの)新しいパート割で再録音して欲しい。『4th』の恋レボでは出来たのだから、その辺りは手抜きするなと言いたい。
余談だが、今から考えても『No5』におけるボーナストラックの位置はおかしい。おかし過ぎる。『DIN』のアカペラから始まって『卒業旅行』で終わり、おまけでポッキーソングとか付けておけば、まだあれほどの失敗作扱いは受けなかったではないかと思う。
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発売後にみた巷の評価は賛否半々か、やや否が多かったと思う。モー娘に期待する人ほど落胆し、モー娘を好きな音楽の1部門だと思っている人には許容範囲。落胆した人と許容した人は恐らくモー娘の個性に対する解釈が異なる。落胆した人は、アルバムの1曲1曲から「これがモー娘だ」という個性が立ち上って来ないと気が済まない人。許容した人は、全部聴いた上で「○○にも似てないし、××にも似てないし、結局これはモー娘以外の何物でもないなあ」という消去法的に個性を考える人。そんな感じだろうか。
アルバムの特徴その1は、良い意味で悪平等主義。良い意味なんだから普通に「平等主義」でいいかもしれないが、悪平等主義の方がしっくりくると思った。もちろん、「推しメンの誰々は全然パートがないじゃないか!」と言いたくなる熱心なファンの人もいるだろうが、誰でも大好きな自分からすれば、第3期モー娘(2003年夏〜)のコンセプト「寺田メロディと○人のボーカリスト」が明確に打ち出されていると感じる。それは、分割ユニットが3曲も入っていることも関連しているだろうし、逆に「寺田メロディに個々のボーカルが乗っているだけならば、モー娘というグループの意味はないんじゃないの?」という疑問が生まれるのも当然である。
アルバムの特徴その2は、シングル曲が埋没し、全く浮いていない。それは一般向けの「あややソング」と本人が歌ってみたい曲が混在した松浦の2nd辺りと比較すれば分かり易い。ただ「浮いてないのって、結局シングル曲がショボい曲ばかりだったからじゃねえの?」と言われれば、確かにその通りかもしれない。
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『色っぽいじれったい』は、まだ何とか世間一般に向けて発せられるショーウィンドーの役割を果たしつつ、他方でアルバムの1曲として埋没して何の違和感もない曲である。2人組のユニゾンでほとんどのパートが構成されながら、サビのサビ“この愛を見届けて欲しい”“どこまでも抱きしめて欲しい”だけは、中心メンバーである高橋/藤本/田中がソロパートを受け持つ。一般人に向けてはグループの輪郭を見せつつ、悪平等主義でもあり、アルバムの中では「高橋/藤本/田中中心の曲」として枠に収まってしまう。
加えていうならば、『色じれ』の歌詞は意味を成さない何となく格好良さげなフレーズ、ちょっとした言葉遊びの羅列である。これを聴いて何か物語をイメージ出来るだろうか。ソロボーカリストの集合体であるという形態を尊重し、かつ物語を語るに不向きなぶつ切りパート割システムを突き詰めれば、この形になるのは必然であるともいえる。このメンバー、このコンセプトでの究極、行き着くところまで行ってしまった。そりゃあ、この後は『直感』の焼き直しくらいしかシングルに出来ないのも無理ない。
先に発せられた「全員がソロボーカリストって、グループとして意味あるの? 成り立つの?」という疑問に対しては、振り付け面で一体感を出す事によって何とか回答を出し手いる曲でもあると思う。もちろん、それはCD音源のみでは伝わらないし、「CDアーティスト=モー娘」が好きな在宅ヲタである自分には物足らない部分でもあるが、それでもテレビ出演やコンサートひっくるめて『色じれ』が第3期の到達点であるとはいえるだろう。
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その意味では、昨年(2005年)のハロプロ楽曲大賞で、娘本体の曲中、『色じれ』の順位がとても低かったことはとても残念である。ちなみに1位は『ラヴ&ピィ〜ス』で、以下『声』『マンパワー』『レモン色とミルクティ』『大阪恋の歌』『独占欲』ときて、ようやく『色じれ』である。アレンジだのアンチDaichiだのが叫ばれた初期の楽曲大賞ならばともかく、素直に好きな曲を挙げるだけの投票で、これだけ『ラブピ』が好評、『色じれ』が不評というのは、ファンの嗜好が第2期(2000年秋〜2003年春)のままである証左なのだろう。
「明るくパワーがある」モー娘はあくまで第2期の特徴であり、高橋/藤本/田中が中心メンバーである第3期には第3期なりのカラーなりスタイルなりがあって当然ではないのか。ファンが保守的過ぎるのではないか。大体、メンバーが替わっても同じような路線をやっていれば、前任者と比較されて勝てないのが道理ではないか。それに制作する側だって、自己模倣を繰り返すより新しい方向へ挑戦したいと考えるのが自然ではないのか。まあ、そういう自分も『マンパワー』に1票入れたのだから全く説得力はなく、面目ない限りだが。
もちろん、ファンは自分が好む物を主張する自由があるし、好きでない物を好きだという義務もない。むしろ、ファンの嗜好を汲み取り、ファンが望むモノを提供することこそサービス業の原点であるかもしれないし、そもそもメンバーを適当に入れ替える側が悪いんだろと言われれば、返す言葉もない。とはいえ、第3期モー娘、これはこれで結構面白いものが出来たと思うのだが、「クオリティが低い」という批判ならばともかく、「昔と違う」という批判に曝されたのは、とても残念に思う。
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既に一般人から見切られたのはともかく、濃いファンの嗜好からも外れたアルバム、そんな商品を出す意味があるのだろうか。
ここで改めて、自分の歴史観を記しておく。第1期(1998年夏〜2000年春)は、プロのメロディメーカーであるつんく師匠の音楽的要求に、素人だった女の子達が精一杯食らいついていく成長物語。第2期は、攻守逆転し、何をやっても「モー娘。だから」で許されるモンスター的存在に対し、つんく師匠が自分のポテンシャル以上のものを出そうと格闘した時代。第3期は、すっかりモー娘に対する興味を無くしているのに、引き受けた責任感だけで作詞作曲を続けているつんく師匠と、すごく真面目な融通の利かない優等生が揃ったメンバーとが、お互いに精一杯取り組んでいるものの、未知なる可能性を引っ張り出されたわけでも、何か化学反応が起きたわけでもなく、月日が過ぎ去った時期。『レインボー7』も、本人達の魅力を過不足無く伝えてはいるが、そこから読み取れるキーワードは多分「誠実」「等身大」「それなり」辺りであろうか。
つんく師匠のやる気のなさについて、1つ挙げてみる。それは「歌詞から考えて、1曲目はどう聴いてもビユーデンのボツ曲じゃないか」ではない。アルバムのタイトルである。どこかのインタビューでつんく師匠はアルバムタイトルについて「数字が入っていた方が分かり易いから」と言っていた。確かにブクオフの250円コーナーで「倉木麻衣のアルバムどれ持っていたっけ?」となる自分には非常に理解出来る話だが、ただ1〜5枚目までは大した意味はなかった。まさに「通し番号+オモロイ」程度のタイトルだったが、『愛の第6感』には五感と直感の歌があり、『レインボー7』には様々な色の歌が入っている。つんく師匠はもうメンバーから何のイメージも湧いてこないのだろう。だから、アルバムタイトルに意味がある。コンセプトが入る。そう推測する。レインボーピンクもコハシゲからインスピレーションを受けたというよりは、先にイメージがあり、それに合うメンバーを選出したのだろう、残念ながら。
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と、ここまで「結局、お前は現メンバーを貶しているだけじゃないか!」と言われそうなことを書いてきたわけだが、そうではない。全く逆。これだけ「自分達は何物?」と問うているアルバムはなかなかないのではないか。作り手と演じ手の異なるいわゆる〈アイドル〉が、これだけ一般人もヲタも置いていって、自分たちと向き合った内省的なアルバムはなかなかないのではないか。加えていえば、同じ第3期でも飯田/矢口/石川という華やかなりし時代を知るメンバーのいた『愛の第6感』より一層、内向性が高まっていると思う。
そういうモー娘を取り巻く今の状況も、また『レインボー7』というアルバムそのものも、自分はすごく好きだ。ニューヨークの有名スタジオミュージシャンも優れたアレンジャーによって下駄を履かされていない素のモーニング娘が見えるじゃないか。アサヤン世代や黄金世代が押し付ける物語から自由になった素のモーニング娘がいるじゃないか。「上げ底をとって今のつんくとモー娘メンバーをみたら、何の魅力もないね」と言われれば、それが現状なのだから甘んじて受けなければならないけれど、そうした地平に立てたことをまずは喜ぼう。内に向かいながらも何とか7枚目まで辿り着き、それが1カ月で約4.5万枚売れるという地平、それほど悪くない。そして、今の場所まで連れてきてくれた卒業生達に感謝しよう。
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少し未来の話もしてみる。
他のハロプロ勢が余所に発注しても、モー娘と寺田メロディは切り離せないものだと自分は考えている。それから若い人間が演じ、主に若い人間に向けて発信されているのだから、ノリの良さも必要だろう。曲調の明暗にかかわらず。しかしまあ、後者のノリみたいなものは、エイベックス始めその他流行りに音楽にもあるので、この2つの特徴をうまく組み合わせてつつも他にない独自のストロングポイントを作り出さなければならない。以前からそう考えており、例としては洋楽では、ペット・ショップ・ボーイズ&ダスティ・スプリングフィールドの『とどかぬ想い』や、アート・オブ・ノイズ&トム・ジョーンズの『Kiss』を挙げておきたい(探せばどこかで聴けるはず)。この「バックトラックはクラブちっくにピコピコいってるのに、何でボーカルはコブシ回ってんの?」感、つまりは「バカっぽいのにメロディアス」というコンセプトにモー娘の未来があるはずだ。その意味でプロトタイプだと思ったのがカン紺藤の『浮気なハニーパイ』だった。以前だと、プッチモニの『Dream&Kiss』がイメージに近いけど、あれだとちょっとオサレ過ぎる。メロンの『かわいい彼』なんかもそれに近いけど、あそこまで行くとメロディアスから少し外れる気がする。そんなこんなでハロプロからはその後、『ハニーパイ』を受け継ぐ曲はなかった。
で、『レインボー7』発売後、最初のシングル『SEXY BOY』は自分の考えたコンセプトのど真ん中だった。まさに「バカっぽいのにメロディアス」なんだけど、実際にいざ形になって現出してみると、何かが違う。多分、一つには歌詞が微妙。バカっぽさが狙いより1ランク低い感じ。もう一つはやはり、どちらかといえば「陰」の面を表す高橋&藤本のキャラクターに合っていないのかなと。多分、高橋ファンも『セクボ』辺りをみて「俺の高橋ならば、もっと難しい曲を歌えるし、高度なダンスだって出来るのに、レベルの低い使い方しやがって」くらいに思っているだろうし。能力との釣り合いに関する不満でいえば、藤本ファンも同様だろう。自分は、愛キュンが子供っぽい笑顔で「うえうえ」って指差している姿も好きなんだけど。だから、第4期モー娘の始まりは高橋&藤本が卒業して、新メンバーが入ってからになるだろう。新垣&亀井は「バカっぽいのにメロディアス」のコンセプトにぴったりの人材だし、後はコハシゲが「「バカっぽい」担当、吉澤&田中が「メロディアス」担当か。まあ、吉澤も卒業は近いだろうし、田中は求められるものに合わせられる能力があると思う。
もちろん、キャラや役割を固定化する必要はないし、誰がリードボーカルをとっても構わないし、様々なスタイルの曲をすれば良いのだけれど、その中でも上に書いたような方向性の曲で、神レベルの作品を一つでも残してくれれば、第4期モー娘としての到達点として何もいうことはない。そのためにもつんく師匠は頑張ってくれ。2006年夏のハロコンで「セクシーうえうえ」をベースに他の曲をミックスしたメドレーをやったのを聞いても、恐らく制作側も「こういうノリとメロディを活かすべき」という自覚はあるのだろう。というか、あると信じたい。