パロップのブログ

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自分の事

僕たちのアナ・バナナ』。ありがちな善意に満ちた三角関係の物語かと思っていたが、三角にもならなかった。男2人の成長物語だとすれば、エドワード・ノートンは「宗教か恋か→恋はパー→先輩に相談→自分で決めるしかないと諭され→まあ選択しもないし、そのまま神父続行」で良しとする。だがベン・スティラーの方は「宗教・家族その他の理由でジェナを振る→そんなんじゃ信者の指導者になんかなれないと罵倒される→会議で新リーダーに選ばれる→母親間違いを認める→ジェナを取り戻しに行く」の順だと成長物語になっていないような。「自分の間違いに気付く→取り戻しに行く→人間として成長し、宗教的にも新リーダーに選ばれる」だと、スムーズな成長物語として納得だが。兄が異教徒と結婚したおかげで母親と絶縁状態という設定のおかげで、スティラーは宗教・家族を優先するのだが、これが流れをおかしくさせる伏線か。母親の改心という自分だけの問題ではない設定は不必要だったような。アン・バンクロフトは格好良かったが。ジェナ・エルフマン演じる女性が序盤、さっぱり表情を読みとらせないというか、クール・キャラなんだが、これが「働く女性」としてのクールなのか、ベン・スティラーへの恋心を隠すためのクールなのか、はたまた幼少時代そのままに根っからクールなのか、よく分からない。狙いがよく分からない。どっちにしても、ジェナが魅力的には見えない。『ダーマ』の印象が強いからだけの事かもしれないが。でもヨガやっているところは一緒。この映画に関する限り、ノートンはグジグジと言いながら冴えないおっさんを装いつつ実はモテモテという監督兼主演ウッディ・アレンになりたがっているのかと思った。しかしジュー繋がりならウッディ・アレンなのはベン・スティラーの方か。必死こいて聞き耳を立てたところによれば、「フージーズ→流行りの音楽」「テータム・オニール→活発だけど美少女」って感じの字幕。固有名詞を極力排除するのは当たり前だろうが、こういうオサレさを見せつけたそうな映画なら、とことん小道具としての固有名詞を「ついてこれない奴が悪い」と直訳するのもアリだと思う。ニューヨークのジュー&アイリッシュといえば、サイモン&ガーファンクルという事で、それっぽい音楽も流れたが、エンドロールで確認した限り人違いだった。1968年にチェコから亡命した神父という設定でミロシュ・フォアマンを出すのは、ネタとして面白いというよりもやり過ぎのような。ラビは英語ではラバイか。