パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

仙台〜宮古の旅(2019/9/12-16)

 2019年9月12日9時に仙台市でレンタカーを借り、宮古市まで往復し、16日18時に返した。出発前に持っていた私の地理把握は以下の画像な感じ。 

f:id:palop:20190924125808j:plain

ツイッターでは何度か書いているけど、私は35歳を過ぎて自動車運転中のトンネルと高架と防音壁がダメになった。岡山にいた頃はサッカー観戦のために広島まで山とトンネルにあふれた山陽自動車道を利用していたので発症していなかったはずだが、仕事で福岡の都市高速に乗った時に気付いた。基本的に市街地を時速40キロ以下で走っている時は優良ドライバーだと自負しているが、60キロ辺りから平衡感覚を失い、80キロを超えるとアウトオブコントロールな精神に陥る。片側1車線で左から壁が迫ってくると吸い寄せられるんよね。皆さん80キロ以上で走りたがっているなかを60キロでトロトロ走って前線のフタ(©湯浅健二)になる心理的プレッシャーもある。そんなわけで国道45号線を北上して南下するプランのなか、事前にグーグルマップの空撮で走るはずの道路をチェックし、山をぶち抜いたトンネルが沢山あるバイパス(いわゆる三陸自動車道)は利用しないで古いクネクネ道ばかりの旧国道を通っていくことにしたわけなんだけど、三陸自動車道には有料区間と無料区間があり、賢いカーナビさんは(有料道路は使わない設定にしているのだけれど)無料区間が近づく度にそちらへ誘導しようとするので苦労した。

もう何年もクルマを運転してないし、精神の試運転も兼ねてこの2週間前に沖縄2泊3日の旅行をしてレンタカーを借りてみたのだが、カーナビの凄さにビックリした。常にGPSか何かで最新情報が更新されているのね。スマホでグーグルマップを出して「史跡」とか「慰霊碑」とか打ち込んで、出てきた箇所にフラッグを立てといて、住所をカーナビに打ち込むだけ。ガイドブックも地元観光案内所も必要ない。ただ、行政が10億円掛けて建てた記念館も海辺にひっそりと建つ簡素な碑も地図上は等価に見えるので、その辺りの軽重を自分自身で付けたり、時間との兼ね合いで優先順位も自分で決めないといけない感じはある。あるいは検索ワードをミスって重要な記念物を見落としたことも実際にある。そんな感じの旅をした。

アウシュビッツテレジン、マイダネクに行ったことがあるくらいにはダークツーリストなので震災遺構も相当程度は見たし、もちろん写真も撮ったが、あくまで現場に行って各々が感じるものだろうということで、画像は載せない方針で。



9月12日(木)

09:00 仙台市を出発、松島辺りから石巻辺りまで無料高速に乗せられて死ぬかと思った。北上川を越えて北上する辺りから無料高速と手を切ってのんびり走ることが出来た。

11:15 南三陸さんさん商店街に到着、昼食に塩ラーメンを食べる。旧防災対策庁舎を残したまま作られている祈念公園の造成の様子、商店街内にある佐藤信一常設写真展示館を見る。

f:id:palop:20190924130142j:plain

13:30 ナビにしたがっていたはずなのに45号線から外れて山の中をさまよった後、何とか復帰して道の駅大谷海岸にたどり着く。

f:id:palop:20190924130301j:plain

15:00 気仙沼から陸前高田付近まで、またナビに騙されて片側1車線時速80キロ、後ろからプレッシャー掛けられて辛い思いをする。

17:00 何とか無料高速から離脱し、陸前高田から大船渡を経由して釜石までは旧国道の峠道を攻める。こっちの方がまだまし。クルマの数が少ないし、登坂車線ですぐ追い越してくれる。

19:00 宮古市の宿に到着。釜石から宮古までは通勤に使われる普通の道路という感じだが、日没がきつかった。ヘボドライバーだから9〜18時しか運転しないつもりだったが、ヘボドライバーだから時間を読み違えた。「仙台から260キロなら時速50キロでも5時間じゃん」とか見積もってたバカが私。釜石泊にしておけばよかった。田老泊にしてなかっただけまだマシだが。

19:30 夕食のついでに、駅に隣接したイーストピアみやこという市庁舎兼市民交流センターで防災関連展示と宮古港海戦の展示を見る。今年は海戦150周年なので展示にも力が入っている。自習スペースで高校生がたくさん勉強していると思ったら、すぐ近所に進学校があるみたい。

f:id:palop:20190924130500j:plain

 

 

9月13日(金)

09:30 宮古の海を見ようと道の駅みなとオアシスみやこ(シートピアなあど)に来る。「記憶の街ワークショップ in 鍬ヶ崎」による復元模型が展示されている。

f:id:palop:20190924130659j:plain

10:35 山田町で鎮魂と希望の鐘とグーグルマップにはまだ反映されてない催し物広場に行く。広場のステージでは子供たちが地元の踊りを練習していた。

f:id:palop:20190924130846j:plain

11:00 鯨と海の科学館へ寄ろうとしたが、科学館への進入路がヘボドライバーには複雑で断念した。科学館からすぐ海が見えるかなと思っただけで、科学館自体にはそれほど寄りたかったわけではなかったのもある。

11:15 浪板海岸駅にある津波到達の石碑を見る。

f:id:palop:20190924131139j:plain

11:35 大槌町のコミュニティセンター「おしゃっち」で、1階の「記憶の街ワークショップin大槌町」の復元模型、3階の図書館、2階の震災伝承コーナーを見る。震災前の2011年1月から発行されている『コミックいわて』を読む。初めて存在を知った。

f:id:palop:20190924131305j:plain

12:30 鵜住居町のうのすまい・トモスで、伝承・学習施設「いのちをつなぐ未来館」と追悼施設「釜石祈りのパーク」を見て、鵜住居復興スタジアムを遠くから眺める。

f:id:palop:20190924131737j:plain

14:15 昼食をとろうと釜石港に来てみるが、あてにしていた魚河岸沿いの食堂がどこも休みだったので撤退する。

f:id:palop:20190924131921j:plain

14:30 釜石市民ホールTETTOに入ろうとしたが駐車場が分からないうちにイオンタウン釜石の駐車場に入ってしまったので、フードコートのチェーン店で普通のタコ焼きを食べる。釜石市の資料館等はもうよかろうということでパス。

15:30 寄るつもりは全くなかったけれど、二度と東北をクルマで旅行することもなければ立ち寄る機会もないだろうし、ということで釜石大観音に寄ってしまう。面白かったのは面白かったけど、時間のロスといえば時間のロス。

f:id:palop:20190924132221j:plain

17:00 私の検索能力だと大船渡に著名な震災遺構はなさそうだったので先を急ぐことにする。大船渡市民文化会館・市立図書館(リアスホール)はちょっと見てみたかったけど諦める。

18:00 今夜の宿である陸前高田市に到着。宿は山奥なので明るいうちに移動すればいいものを、油断して陸前高田市立図書館に寄ってしまう。地方紙をいろいろと読む。

f:id:palop:20190924132408j:plain

19:00 ナビも案内できない街灯のない道を迷いながら泣きそうになりながら宿に到着。土木工事に来ている土建屋さん用の宿っぽい。

 

 

9月14日(土) 

08:50 震災遺構「旧道の駅高田松原タピック45」、奇跡の一本松、震災遺構「旧陸前高田ユースホステル」を見る。新しい道の駅は来週オープンらしく、視察っぽいおっさん群がいたりテレビカメラを回す報道陣がいた。

f:id:palop:20190924132748j:plain

10:10 ガソリンを入れながらそばにある震災遺構「旧陸前高田市立気仙中学校」を見る。

11:10 南気仙沼小学校があった大川周辺に行くが、整備が進んでいた。

f:id:palop:20190924132942j:plain

11:30 気仙沼図書館に行く。インドネシアと交流があるらしい。

f:id:palop:20190924133130j:plain

12:20 気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザに駐車する。4時間くらい停めて料金にビビってたが400円だった。 

f:id:palop:20190924133239j:plain

13:30 ボルセッタイシカワでSCK GIRLSの公演を見る。ここに合わせるために気仙沼の滞在時間が長くなったというか、旅程が多少いびつになったのは否めないが、ちょうど卒業公演で何の思い入れもなかったのにもらい泣きするような素晴らしい公演だったので良しとしよう。

f:id:palop:20190924133358j:plain

16:20 海の市・気仙沼シャークミュージアムに入る。ミュージアム自体が被災したということで、「震災の記憶」ゾーンが展示に組み込まれている。併設のリアスキッチンで三陸磯ラーメンを食べる。

f:id:palop:20190924133540j:plain

18:00 日没前に気仙沼の宿に到着。シャークミュージアムに置いてある冊子で知ったリアス・アーク美術館というのがすごく面白そうなんだけど、ちょっと日程的に無理だった。事前の検索では全く引っ掛からなかったのは痛恨。



9月15日(日)

09:30 気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)に行く。最初に見る13分の記録映像が編集上手かった。だいたい見学に60分掛かると書いてて実際その通りなのもよく練られている感ある。

f:id:palop:20190924133735j:plain

10:40 予定にはなかったが、伝承館に置いてあった案内に誘われて岩井崎に行く。遺構ばっか見て、今ある観光地をスルーしてんじゃねえよと言われた気がしたので。

f:id:palop:20190924134001j:plain

11:50 初日12日に訪れた南三陸さんさん商店街を再訪。平日だった12日とは違って大観光客祭りだった。もちろん三連休に人がいなかったら、それはそれでまずい。たこの唐揚げを買って早々に引き上げる。

f:id:palop:20190924134147j:plain

12:30 往路とは異なり、ここから国道45号線を離れて国道398号線を海沿いに行く。しかしたまたまツールド東北と日程が重なり、大川小学校までライダーと並走することになった。ヘボドライバーが峠の上り下りを対向車線に大きくはみ出しながらライダー集団を追い越すという苦行になった。後続にクルマが溜まらなかったら、個人的には時速20キロでライダーの後ろを走っても全然構わないんだけどね。1台も轢かなかったのが奇跡。

13:25 吉浜小跡地・東日本大震災慰霊碑を訪れる。ライダー集団を追い越すのに気をつかい過ぎたら現地を行き過ぎてしまい、「戻ったら同じライダー集団を2度追い越すのかよ」と思ってスルーしようかとも考えたが、やはり二度とある機会でもないので戻った。

f:id:palop:20190924134306j:plain

13:45 大川小学校跡地を訪れる。ツールド東北ライダーたちの立ち寄り所でもあり、たくさんの見学者が。ライダーたちは北上川に沿って西へ、私は南へ、ここでお別れでヘボドライバー的には助かった。

f:id:palop:20190924134454j:plain

結構前にリチャード・ロイド・パリー『津波の霊たち―3・11 死と生の物語』は読んでいて、今回泥縄式に関空での待ち時間に辰濃哲郎『海の見える病院―語れなかった「雄勝」の真実』を読んで、いくらトンネルが苦手でも釜谷峠は通らなければならないと決めていたので、その念願は叶った。3月の寒いなか、あの峠を越えて助けを求めても、反対側も大惨事だったというのは想像を絶して言葉が出ない。

 14:20 雄勝病院犠牲者慰霊碑を訪れる。

f:id:palop:20190924134757j:plain

15:40 女川駅に駐車して駅前から海まで歩いたり、女川町まちなか交流館で防災関係の展示を見る。

f:id:palop:20190924134925j:plain

18:00 石巻の宿に到着。



9月16日(月)

09:35 朝から雨。ハリストス正教会教会堂と石ノ森萬画館のある中瀬へ。駐車場のルールが分かりにくかったので、すぐに撤退。

f:id:palop:20190924135141j:plain

10:25 東松島・大曲浜の大震災慰霊碑を訪れる。造成中、通行止め、う回路ありでくじけそうになったが、なんとかたどり着く。展示館ではなく碑だけなので無理して行く必要はなかったけれど、雨が降っているのもあって何か意地になってしまった。

f:id:palop:20190924135337j:plain

11:15 東松島市震災復興伝承館と旧野蒜駅を訪れる。大曲浜とは同じ東松島市なので、慰霊碑に刻まれた芳名も重なっていた。こちらは市全体。

f:id:palop:20190924135833j:plain

12:35 まるまつ塩竃店ではらこ飯を食べる。

13:45 塩竃津波防災センターを訪れる。

f:id:palop:20190924140427j:plain

15:00 震災遺構・仙台市立荒浜小学校を訪れる。現地を訪れるためカーナビにしたがって左折しようとしても土手の向こうに行くトンネルも高架もなくて悩まされるが、いずれ津波が来た際に土手から水が浸入しないようにトンネルは作らないと後から知る。ここにも「失われた街」復元模型が展示されていた。

f:id:palop:20190924141125j:plain

16:00 荒井駅内にあるせんだい3.11メモリアル交流館を訪れる。企画展「貞山堀より愛をこめて~震災から8年後のふるさと~」を開催中で、主催者らしき地元の方にいろいろ伺う。さっきの土手が云々もこちらで教えて頂いた。

f:id:palop:20190924141434j:plain

17:00 楽天生命パーク宮城に行くが、貸し切りイベント中らしく、「カレンダーを見て一般公開時に来てください」と駐車できずにあしらわれる。

17:40 ガソリンを入れて、レンタカーを返却。おしまい。



感想のようなもの

2011年5月くらいからNHKで放送された震災関連ドキュメンタリーはほぼ録画してほぼ目を通してきたが、東北地方の地理に疎くて番組で取り上げられる街が単発でしか浮かばなかったんだけど、今回クルマで旅したおかげでだいぶ点と点が線になったり面となったり繋がり始めた。録画保存した番組をいま見直したら感想も違うだろう。 

三陸自動車道ではなく旧国道45号線を走ったからというのもあるだろうが、それこそ陸前高田から大船渡を経て釜石に至るまでにも峠を上って下ると小さな湾が見えてきて、何世帯かはわからないけれども必ず海辺の集落があり、震災時はさぞ救助が大変だったろう(手が回らない/後回しにされる)と想像するし、集落が残っている限りは釜石や大船渡ほどの規模ではなくとも嵩上げや道路整備やその他諸々は当然必要であるし、そうした行政の援助を受ける権利は当然あるし、と考えれば復興は部外者が思うよりもずっと大変。

慰霊碑詣でをしようと海沿いの道を走ると、まだまだ工事中、迂回有、行き止まり有とグーグルマップもカーナビも役に立たない状況だったりして驚いたのだけど、恐らく、まずは高台に仮設住宅を確保→嵩上げ工事して新しい街づくり・住宅づくり→防潮堤づくり→最後に津波の被害に遭った海沿いの整備…という流れなのではないかと想像するが、結局津波がきたら被害が及ぶと推察される地域をどう利用したらいいのかはどうやっても悩みどころで、そこが整備中・工事中だからといって復興が進んでいないみたいにいうのはおかしいのかもしれない。

復興といえば、被災後すぐに市長村長がトップダウンで都会のコンサルか何かに頼んだような再建計画を出した自治体と、嵩上げした更地に何が欲しいか住民が集まってボトムアップでじっくり計画を練っていた自治体があって、ドキュメンタリーなんかでも特集していたけど、結局どういう帰結になったのか、上手くいったところといかなかったところがあったのか、その辺りをまたドキュメンタリーにして欲しいね。結果として上手くいかなかったことだけを取り上げて行政を糾弾するのはフリージャーナリストでもできるけど(というか単発の不満を御用聞きするフットワークこそ個人ジャーナリズムの真骨頂)、大手メディアには継続的に並行して複数を取材していたからこそ分かる強みを発揮してほしい。

それぞれの街のそれぞれの資料館なり伝承館なり観光案内所なりに行くと、過去の記憶を展示すると同時に未来への希望も当然謳っていて、そういう所で紹介される物にそれぞれの街固有のローカル・アイデンティティをものすごく感じた。魚介類なり農産物なり伝統の祭りなり。東京の報道と地元の思いのズレみたいな話はよくされるけど、東京のメディアもバカではないので、ニュースを作る時には地元のリーダー的な人に「暗いニュースは難しいですが、希望が湧くような話題が何かないですか?」と真摯にお伺いと立てた結果がああいう感じだったのではないか。「震災からたった3か月で魚市場を再開!」と報じたとき、それは東京の人が見たいものであり、地元の人が見せたいものでもある。2者は共犯関係でもあったろうと思った。

小規模の自治体の伝承コーナーは手作り感覚で、映像もNHKこころフォトの使い回しだったりして、仙台市がバックについてると区単位の資料館でも映像の編集はカッコイイし、展示も金かかってるし、みたいな差は感じないでもなかった。お金がない自治体は訴える内容で勝負。

鵜住居・いのちをつなぐ未来館の中にある図書コーナーに置かれていた自費出版の報告書をパラパラと読んだ。生徒が全員助かって「釜石の奇跡」と称賛された鵜住居小学校で行方不明になっている事務職員の夫が出したもの。「奇跡なんて言葉を使うな!」という主張を市教委や市とかわしたやり取りが収録されている。東京で流される希望あるニュースでは取り上げづらいけど、地元鵜住居ではタブー視されることなく割とフェアに扱われているみたいで、その土地固有の文脈を知るために来た甲斐があったと思った。

(※そもそもは防災教育を重ねてきたという意味の「釜石の軌跡」を誰かメディアが「奇跡」にしちゃったという話だったような記憶だが。「(強化の)狭間の世代」が「(実力が)谷間の世代」に転じてしまったサッカー・アテネ五輪世代を思い出す。)

行くまで気づかなかったのだけど、震災遺構には2種類あって、建物は被害にあったけどそこに避難した人は助かった一方で建物周辺の住宅に住んでた人は呑気にしていて犠牲になったケースと、建物周辺に住んでた人は高台に逃げて助かった一方で建物に避難した人の多くが犠牲になったケース。この2つは全然違う。後者の方は毎日通勤通学中に見るだけでも辛いと正直思う。震災遺構が地元の人にとってどういう象徴的記号になっているか、全然わかっていなかった。これは原爆ドームなんかとも意味するものが全然違うと思う。

大槌町コミュニティセンターの伝承コーナーで、町が発行した辞典のように分厚い追悼文集を見た。犠牲者の顔写真・略歴・被災時の状況・家族からのメッセージの4点セットが、何百人と掲載されている。ニューヨークタイムスが9.11の時にやった“Portraits of Grief”(←ぜひ検索を!)のパクリ企画といえばそうなんだろうけど、数値では表せない実際に生きてきた人々の営み・生きた証が量で迫ってくるのはすごく大事で、他の自治体にもやってほしいくらいだが、やはり大槌町くらいのコミュニティ規模でないと個人情報公開の了承は得られにくいだろうことも理解できる(巻末に犠牲者の4割くらいしか収録できてないと書かれていたはず)。

私も魚津の漁師の孫で、小さい頃に祖父母の家へ遊びに行った経験から分かってはいたはずだが、海岸から100メートルほどの距離でも住宅がごちゃごちゃ建て込んでいたら、家から海なんて全然見えないのよね。割と海に近いホテルをとって「歩いて港でも見に行くかな」とか思ってたけど舐めてた。現実はスマホでグーグルマップとにらめっこしてないと海がある方向すらわからない。

国道45号線を上ったり下ったりしていると、やたらと「ここまで浸水しました」「ここから浸水しました」という標識があるんだけど、ああいうのは実際に津波で犠牲になった時「ここまで浸水すると分かってて逃げなかったお前が悪いんじゃ」という犠牲者批難には繋がらないのかな。それとも防犯のために必要な情報を提供すること自体が犠牲者批難を強化するという考え方そのものがおかしいのかな。それはともかく、普段からあの標識がやたらと目につくのは日常を不安に陥れるというか、「お前に安全な所などない」と常に脅かされている感覚になるというか、精神衛生上なにか怖いような気もした。まあ北海道なら熊に注意とか桜島なら火山灰に注意とか、地元民なら気に留めないことを旅行者が勝手に気に病んでいるだけかもしれない。

ネットの個人サイトに関しては閲覧時期による原稿の異同にはこだわらず、思い出したら書き足していく感じで、とりあえず終わり。

 

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

 
海の見える病院 語れなかった「雄勝」の真実

海の見える病院 語れなかった「雄勝」の真実

 

不屈館(瀬長亀次郎と民衆資料)の感想

f:id:palop:20190907004432j:plain

私のタイムラインのドキュメンタリークラスタが「カメジロー!カメジロー!」と賑やかだったので、沖縄旅行へ来たついでに那覇市にある『不屈館(瀬長亀次郎と民衆資料)』という瀬長の資料館を訪ねてみた。その感想を書いておく。2本とも未見であるカメジロー映画にケチをつけるというひどい文章になっているが、映画の公式サイトを観察した結果であり、大外しの推測はしてないつもり。そして資料館の方はすごく興味深い資料がたくさん展示してあるので、是非行ってみてください。

一言で言うと、20世紀半ばには確かに存在した共産主義民族主義を兼ね備えた英雄を21世紀に描くのはなかなか難しいよね。

瀬長の事はそれこそカメジロー映画の番宣でしか知らなかったので、資料を見てびっくりしたんだけど、実際のところ瀬長は筋金入りの共産主義者なんよ。21世紀の価値観を含んだ悪口としての共産主義者ではなく、事実としての共産主義者。そして資料館では何を隠すこともなく堂々とそう書いてある。そりゃあ事実なんだもん。だけど私が見た限りドキュメンタリー映画の番宣では、そこはたぶん意図的に隠されている。米国の占領政策に抵抗した愛国者(愛郷者?)という描き方になっている。

瀬長は戦前の1932年に治安維持法で逮捕された筋金入りの(大衆による悪口としての)“アカ”なんよ。戦後は1947年に沖縄人民党を立ち上げる(何故ってアカだから)、1950年は知事選で大敗する(何故ってアカだから)、その後立法院議員になって労働法制に尽力する(何故ってアカだから)。ところが1954年に占領軍に喧嘩を売って逮捕されて1年半の牢屋暮らし…からの1956年12月那覇市長に当選…とここで瀬長は大衆が取っ付き難いアカから米軍占領政策に抵抗する民族英雄にジョブチェンジするわけです。もちろん断っておくと、瀬長本人のなかでは恐らくジョブチェンジしてない。基地で働く沖縄人民の労働条件をめぐって闘い、周辺で暮らす人民の生活条件を守るために占領軍と闘うことは通底しているわけだけど、民衆から見た役割演技としてはアカから民族英雄にジョブチェンジする。

鳥山淳「復興の行方と沖縄群島知事選挙」(『一橋論叢』第125巻第2号、2001年)によると、1950年の沖縄群島知事選の獲得票数は、平良158520票、松岡69595票、瀬長14081票。都市部の労働者に少し名が知られていただけの泡沫も泡沫の“アカ”候補者よのう。鳥山論文をちらちら読むと面白いな。米国政府が沖縄を恒久的に保持する事に決めて本腰を入れて復興を始めて、労働力の確保のため軍作業賃金が約3倍に引き上げられた結果、離農者が続出して農地は荒廃したって書いてある。そりゃあ共産主義者なんて農村票が獲れるわけがない。

資料館にある那覇市長選辺りの選挙公報資料を見ると「島内の反動勢力が占領軍と結びついて我々を共産主義者だと誹謗中傷しているが、負けてはならない!」みたいな文言が書いてあった。まあ中傷じゃなくて事実じゃんと言いたいところでもあるが、左右の対立が厳しかった頃。オール沖縄ではなかった頃。保守反動とか言わなくなったよね。そういう時代の空気。

1960年に祖国復帰協議会の結成に尽力した頃からは完全に民族主義者よね。1970年に行われた沖縄初の衆議院選挙からは7期連続議員になっているけど、沖縄全県区(定数5)で行われた7回の選挙結果をみると、自民党2、日本社会党1、沖縄大衆社会党or公明党1、瀬長枠1(1973年に沖縄人民党日本共産党に合流)という感じ。返還前後の沖縄が置かれた状況を想像すると、今の香港みたいだなと思うかもしれないが、実際はドキュメンタリー作家の新田義貴が書いたようにスコットランドに近いものだろうか。植民地において民族主義政党は人民の福利厚生に心を割く左翼政党でもある。だからといって後の歴史家が、彼らを反植民地主義を叫ぶ民族主義政党のように描き、ソ連共産主義もなかったように描くのは断じて欺瞞である。

1960年といえば、いわゆる「アフリカの年」。冷戦期の植民地にとって、共産主義者民族主義者とは両立するものである。恥ずかしながら私はアフリカの近現代史に無知なので、アフリカ諸国の独立といえばモスクワ留学帰りの独立運動指導者が独立後はソ連型計画経済を実施して汚職や腐敗でオオコケしたというイメージなんだけど、もちろんアフリカには50前後の独立国があるわけで、英仏に留学して英仏に抵抗した指導者もいるだろうし、国家経営がうまく軌道に乗った国もあるだろうし、金太郎飴のように見てはいけないのは当然。ただあの時代の民族自立を冷戦史のなかでちゃんと位置付けないといけない気もする。私が読んだ学校の歴史教科書は80年代までだけど、その後は単に「ソ連は崩壊しました」だけ加筆するのではなく、1945~1989年の世界史叙述も本来なら全て読み替えないといけないはずでは、という話。

「もし70年代になっても80年代になっても沖縄が日本に返還されず占領地だったら」とイフの歴史を考えたとき、歴史的な共時性という意味では、瀬長はANCのマンデラになっていたかもしれないし、PKKのオジャランになっていたかもしれない。そういう想像もできるだろう。武器をとったかは分からんけどね。余談だが、この手のリーダーは学者か弁護士のような知識人階級か、逆に無学だけどやたら演説が人の心を打つ叩き上げの労働者階級だったりが多い印象だけど、瀬長は新聞記者なのよね。ちょっと意外で面白い。

だから21世紀も20年が経とうという現在に、瀬長亀次郎(1907~2001年)のドキュメンタリー映画を作ろうとしたら、「1956年はフルシチョフスターリン批判(2月)に始まり、日ソ共同宣言(10月19日)をめぐっては北方領土返還と沖縄・小笠原返還を関連付けた「ダレスの恫喝」もあり、そしてハンガリー動乱(10月)ときて、12月の那覇市長選では米国に喧嘩売って刑務所に入っていた筋金入りの共産主義者が当選!」というくらいの国際環境を視野に入れた描き方が欲しいよね、という事が言いたいわけですよ。日本共産党武装闘争路線を放棄したのは1955年7月ですよ。そういう時代ですよ。

※これはまあ、いま私が石田博英にハマってて1956年の北方領土返還交渉にも興味があるので、過剰反応しているのかもしれない。そこは認める。

資料館で見せてもらった約30分の映像(佐古ディレクターによるTVドキュメンタリー『報道の魂SP』「米軍が最も恐れた男」2016年)には、あの頃には珍しく進歩的な男女平等主義者だったというエピソードが描かれていたのだけれど、これも60年代第2波フェミニズムを通過した西欧風男女平等じゃなくて、普通にソ連を模した男も女も平等に労働力だよっていう男女平等よね。と書いたらまた価値判断としてのソ連の悪口を言っているみたいに思われそうだけど、そうじゃなくて事実としてのソ連の男女平等だから。もちろん、表では社会主義共産主義だと言いながら、家に帰ったら家父長制バリバリのおっさんがたくさん居た頃だろうから、言行一致しているだけ立派じゃんという話ではあるんだけど、コンテクストとして瀬長を西欧風開明紳士みたいに扱うのはどうなん?という話。まあ、こういう面倒くささがある事も含めて、みんな冷戦とソ連の存在を抹消したがるんよね。

余談。ここまで長々と、なるべくオーソドックスに事実ベースの話を書いてきたわけだが、事実ベースでない話をすると、当時の国際環境からして瀬長はソ連共産党から資金提供を受けていたかもしれないね。ここも勘違いしてもらいたくないのは、私はソ連から資金提供を受けていたと中傷したわけでも、仮に受けていたとしても非難したいわけではないよ。それは恥ずかしい事でも隠すべきタブーでもないよ。冷戦期ってそういう時代だったんだから。岸信介がCIAから資金援助受けててもいいじゃん、日本社会党ソ連共産党から資金援助受けててもいいじゃん。だけど、なかったことにはするなよ。ちゃんと関係者は書き残しておけよ。「墓場まで持っていく話」とか言ってんじゃねえよ。歴史に対する責任を果たせよ。ソ連共産主義がなかったような20世紀の歴史を書いてんじゃねえよ。そんな感じ。

うーん、50年代から60年代にかけてリアルタイムで瀬長が共産主義者から民族主義者にジョブチェンジした話(もちろん瀬長自身には一貫性がある)と、映画というメディアにおいて1998年から2018年にかけて瀬長の解釈のされ方がチェンジした話がクロスして分かりにくい説明になってしまったね。そこはごめんなさい。

1974年生まれの私は、親米保守が国是になっちゃった日本しか知らないので過去の空気感がわからないのだけれど、おそらく1950年代だと日本と沖縄とで反米度の温度差はあまりなかったのではないか。そこから1972年の沖縄返還、1995年の反基地運動と、どんどん米国に対する温度差が広がっていく。広がるにつれて、瀬長は共産主義者から民族主義者に描き方が変わっていったのではないか。瀬長の伝記的事実は変わっていないのに、世の中の受け取り方が変わった。そういう話。反米保守の小林よしのりが『沖縄論』(小学館、2005年)で瀬長について触れているらしいことをどこかで読んだのだけど、象徴的な気がした。

この文章を書くために検索して仕入れたネタなんだけど、佐次田勉『沖縄の青春―米軍と瀬長亀次郎』(かもがわ出版、1998年)の方は(アマゾンレビューをみた限り)バリバリの共産主義者物語になっているみたい。これを受けて二番煎じの佐古ディレクターは21世紀にウケる物語として民族主義者的描き方にしたのなら、まあ理解できる。

まとめ:⑴カメジロー映画は共産主義者である民族主義者である瀬長の民族主義者である側面しか宣伝してないよね、⑵それは佐古監督が悪いというよりかは時代の2つの要請だよね、⑶2つの要請のうちの1つは、単純にソ連崩壊以降は共産主義者は悪口になって描きにくくなったよね(でも恐らく1998年ではまだそうでもなかった)、⑷もう1つは、瀬長が活躍していた50年代60年代は日本人と沖縄人とで米国に対する感情は近かっただろうけど、特に1995年以降は別々の感情を抱くようになったよね(労働者・共産主義者としての反米アイデンティティよりも沖縄民族主義者としての反米アイデンティティの方が観客にとって違和感がなくなった)

ここまで書いて、佐古ディレクターの映画がバリバリ共産主義者としての瀬長をちゃんと描いていたり、あるいは逆に佐古Dから「230冊を超える瀬長の日記を全部読んだけどソ連の話なんてひとつも出てきませんでした。目の前の沖縄大衆の話ばかりでした」と反証されたら、素直にごめんなさいします。

おしまい!

 

「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯

「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯

 
米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~ [DVD]

米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~ [DVD]

 

NHKドキュメンタリー・緊急被ばく医療

2019年3月に放送された 『ETV特集』「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」及び同じ制作班による『BS1スペシャル』「緊急被ばく医療の闘い 誰が命を救うのか」の評判が良く、もちろんそれに異論はないのだけれど、ほぼその2年前の2017年2月にNHK総合で放送された『明日へ』「証言記録・第61回・福島県 見えない恐怖の中で~緊急被ばく医療の闘い~」もなかなかのものだったので、そこは先駆者の功績もちゃんと評価してあげたいというのが、このエントリーの目的です。

※カッコ内の肩書は当時だったり現在だったりいい加減ですが気にしないでください。

 

GTV『明日へ』「証言記録 第61回 福島県 見えない恐怖の中で~緊急被ばく医療の闘い~」

2017/2/26初回放送、43分、撮影:長谷川哲也、ディレクター:野澤敏樹、プロデューサー:丸山雄也、制作統括:松尾雅隆/佐藤謙治、制作協力:駿、制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK

インタビュイー(GTV版)

長谷川有史(福島県立医科大学救命救急センター

田勢長一郎(福島県立医科大学救命救急センター・DMAT受け入れ側)

鈴木敏和(放射線医学総合研究所緊急被ばく医療研究センター・オフサイトセンター着)

重富秀一(双葉厚生病院)

廣橋伸之(広島大学病院・救急医)

谷川功一(広島大学緊急被ばく医療推進センター→現在、福島県医大

近藤久禎(厚生労働省DMAT事務局)

熊谷敦史(長崎大学国際ヒバクシャ医療センター)

 

 『ETV特集』「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」

2019/3/9初回放送、60分、資料提供:福島県立医科大学放射線医学総合研究所広島大学長崎大学杏林大学福井大学/DMAT事務局/東京消防庁陸上自衛隊/双葉厚生病院/福島赤十字病院日本赤十字社福島県支部福井県立病院/双葉地方広域市町村圏組合消防本部/高野甲子雄、撮影:佐藤努、ディレクター:鍋島塑峰、制作統括:矢吹寿秀/宮本康宏、制作・著作:NHK福島

インタビュイー(ETV版)

福島芳子(放射線医学総合研究所

廣橋伸之(広島大学DMAT・医師)

重富秀一(双葉厚生病院・院長)

谷川攻一(広島大学・医師→現在、福島県医大副理事長)

細井義夫(広島大学・医師→現在、東北大学大学院)

立﨑英夫(放医研・医師)

鈴木元(原子力安全委員会の調査員・医師)

「医療支援にかけつけた医師」のテロップのみ(BS1版をみると竹村真生子)

長谷川有史(福島県立医科大学・医師・救急外来リーダー)

熊谷敦史(長崎大学・医師→現在、福島県医大

山口芳裕(杏林大学・医師・東京消防庁特殊災害支援アドバイザー)

 

BS1スペシャル』「緊急被ばく医療の闘い 誰が命を救うのか」

2019/3/10初回放送、50分×2、資料提供:福島県立医科大学放射線医学総合研究所広島大学長崎大学杏林大学福井大学/DMAT事務局/東京消防庁陸上自衛隊/双葉厚生病院/福島赤十字病院日本赤十字社福島県支部福井県立病院/双葉地方広域市町村圏組合消防本部/高野甲子雄/立﨑英夫、撮影:佐藤努、ディレクター:鍋島塑峰、制作統括:宮本康宏/矢吹寿秀、制作・著作:NHK福島

インタビュイー(BS1版)

福島芳子(放射線医学総合研究所・オフサイトセンター医療班)

廣橋伸之(広島大学DMAT・医師)

近藤久禎(厚生労働省DMAT事務局・医師)

重富秀一(双葉厚生病院・院長)

谷川攻一(広島大学・医師→現在、福島県医大副理事長)

細井義夫(広島大学・医師→現在、東北大学大学院)

立﨑英夫(放医研・医師・オフサイトセンター医療班)

鈴木元(原子力安全委員会緊急事態応急対策調査員・医師)

竹村真生子(県立南会津病院・医師)

長谷川有史(福島県立医科大学・医師・救急外来リーダー)

熊谷敦史(長崎大学・医師→現在、福島県医大

山口芳裕(杏林大学・医師・東京消防庁特殊災害支援アドバイザー)

 

※谷川先生の名前は科研費のページでチェックすると攻一が正しいはずで、2017年版の功一は間違いだと思うが、画数等のゲンを担いで改名した可能性もないではない。

 

話を聞いている顔ぶれは、2017年版も2019年版もほとんど一緒よね。2017年版ではリーダーの谷川先生にだけ聞いていたけど、2019年版では同僚の細井先生にも聞いているくらい。DMATの話は2017年版の方が詳しかった。

あとは、放医研からオフサイトセンターに派遣された人へのインタビュイーが違うくらい。2019年版の福島先生のシーンで出てくるホワイトボードに書いてある「鈴木(放医研)」は2017年版に出てくる鈴木敏和先生よね、多分。地震発生直後、放医研から福島先生が先遣隊としてオフサイトセンターに行って受け入れ準備して、その後に鈴木敏先生が到着した感じか。2つのバージョンを組み合わせて謎解き。

f:id:palop:20190731120029p:plain

f:id:palop:20190731120056p:plain