パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

プロレス・ハロプロ・ブログ

いろいろと文句は言いながらも、ETV『知を楽しむ』の森達也「愛しの悪役レスラーたち」は全4回とも見た。たとえばアンドレ編で、米国の人はアンドレを見かけると「へい、昨日テレビで見たよ」と握手を求めてくるけど、日本人は遠巻きにひそひそと指さすだけで、アンドレは日本人のそれが嫌だったというエピソードから「日本人は排他的」という感想を述べた数分後に「アンドレは世界のどこへ行っても好奇の目から逃れられない異形の人だった」みたいな話をするのはどうなんだろう、矛盾してないか。私も東ドイツのバウツェンという町を旅行したとき、10代くらいの男女に指差されてクスクス笑われたけど、言語とか見た目の同調度で異形度も変わるだけという話ではないか。で、最後は「人間はみんな孤独なんですよ」という深いようでそれ自体では何の意味もない言葉で締められてしまった。プロレスが一般社会の縮図である部分もあるだろうし、どこの世界にも虚実がないまぜになった部分はあるだろうけど、プロレスがプロレスたる理由が全然語られない。プロレスが社会の延長線上にあるなら、森氏はこれほどプロレスに惹かれないだろうに、社会とプロレスを分かつものが語られない。たとえばアンドレなら、あの身長であの身体能力だし、プロレスでなくともNBANFLで大金稼げたのではないか。異形が尊敬に変わる世界もあるのに、結局アンドレがプロレスに身を投じたのは何故か。そういう方向に突っ込まないと、プロレスのプロレスたる所以を一般人に説明したことにはならないのでないか。とにかくプロレスの特異性を説明するより先に一般社会論に接続しちゃうので「人生で大切な事はみんなプロレスから学んだ」みたいなサムさに繋がっている。森氏は「ドキュメンタリーは主観」とよく言う。大いに結構。でも「韓国人であった大木が日本人を名乗り、必殺技が“原爆頭突き”というのは、人生そのものがギミック溢れる!」みたいな物言いは、逆にステレオタイプなのではないか。実は大木さん、日本大好きだったかもしれないじゃん。自伝にはそう書いていない? 本人が書いているから真実とは限らない、本人が言ったから真実とは限らない、そう言っているのは森氏自身じゃん。歴史的事実とか客観報道とは離れたところで特定の人物を特定の視点で扱えることが「主観ドキュメンタリー」の長所だと私は理解しているのだが、この4回の4人物、いずれもステレオタイプな韓国人像や異形の人像を勝手に当てはめた挙句に、ステレオタイプから外れた部分を「ギミック溢れる人生」って煽っているだけみたいだった。私自身はドキュメンタリーウォッチャーだし森氏ウォッチャーだから氏が言わんとするところはある程度理解出来るけど、あまり一般人に対して「俺はそう聞こえたんだ」「俺にはそう見えたんだ」を言い過ぎると、ステレオタイプじゃない見方が出来る俺自慢にしか聞こえないし、そのためには事実なんてどうでもいい人なんだと思われるだろうし、それは「ドキュメンタリーは主観」派にとって良い事にはならない気がする。

上ではいろいろ文句も書いているが、ハロプロヲタの私にとって、虚と実がないまぜになったり、虚と実が反転したりする瞬間が楽しいというのは、とても理解出来る。実際、ハロヲタとプロレスヲタを兼ねている人間も多かった。初期モー娘はいわずとしれたアサヤンというセミドキュメンタリー(リアリティショー)の申し子。だけど、私はアサヤン電波少年のような作りの番組が性に合わなかったので見ていない。アサヤンと縁が切れたハロプロは、21世紀に入ってネットのおもちゃになっていく。私がハマったのはココから。テレビで発した何気ない一言から、勝手に視聴者がキャラを想像し、ネットが増幅し、それぞれのキャラ解釈を戦わせ、あまりにも外れていると思われる解釈は自然消滅する。共同幻想の産物としてのアイドルなんだけど、だからといって生身の人間である本人からかけ離れて独り歩きもしない。そして時に生身の本体が「事実は小説よりも奇なり」を地で行く発言をしてくれたらネットで祭り。ネットで辻ちゃんの笑い方はテヘテヘだし、松浦さんの笑い方はニャハハ。当然「お前等、気持ち悪いキャラ付けするな」みたいな発言をする人間もいるけど、そこで実際に辻ちゃんがテヘテヘと笑っている動画が貼られる。「おもちゃにされる生身の人間側からするとどういう気持ちなんだろうなあ。単純に中傷されるよりも気持ち悪く思うものか、或いは自分とは別物と割り切って意外と平気なものか」ということも含めて、この10年で激変したTVとTVドキュメンタリーを取り巻く状況、ネットによる双方向性時代におけるドキュメンタリーのあり方、などを考える上でハロプロって面白い素材だと思うが、学術方面で真面目に研究対象にしている人はいなさそう。特に矢口は、アサヤンによって人生をセミドキュメンタリー化された初期モー娘を体験、オールナイトニッポン初期には投稿葉書を無くしたことを真面目に謝っているディレクターの横でクスクス笑っていたのを「大人のTPOも知らないのか」とバッシングされ、治外法権だった深夜の生放送ラジオが音源アップロードや書き起こしによってネットで晒され続けるという時代の画期を(倖田某よりも早く)体験、オールナイトニッポン後期になるとわざとファンやヲタやアンチが騒ぎそうな発言を狙ったようにするようになって「釣りラジオ」と呼ばれるようになる。最近では、自らが加入していたmixiを晒されて慌てて退会するという経験もしているし、この10年のメディアの変化を体現している存在なのではなかろうか(自分で突っ込んでおくと、これはこれで「人生で大切なことは全てハロプロから学んだ」みたいな文章になってて気持ち悪いと思う)。

2005年頃、ハロプロが落ち目になってテレビ出演も減った頃に「ハロプロメンバーはブログを書け」という話題がのぼるようになった。ブログが流行り始め、ぱっとしないタレントが始めて知名度を上げたりする状況が生まれていたからだが、私は反対だった。ハロプロメンバーは舞台の上で魅せる訓練を受けているだけで、文章を書く訓練を受けているわけではないから。(実際に見たことがないからよく知らないけど)10代の女の子が携帯メールで送るような文章って、ファンが読んで面白いだろうか。より親近感は増すかもしれないけど、舌禍の危険性も高い。どうしてもやるなら「誰と誰の仲が良い」妄想をするために、仲間との2ショット写メを毎日載せるだけの方が安心だ。対案としてラジオ、正確にはポッドキャスティングを考えた。下手に地方ラジオの枠を自社買いするより、全国で正規にダウンロード出来た方がいいじゃん、ということでポッドキャスティング。本人の声というのはすごい情報量がある。言っている内容が下らなくても本人の声なら全然許せちゃうところがある。よりファンになってもらうための親近感を演出するにも声は文字に優る。そう考えたのだが、メロン記念日がブログを続け、ハロプロ研修生達もブログを始め、携帯サイトでモー娘のメンバーもツアー日記を書くようになった現在、私は間違っていたようだ。少し語彙が不足していても、少し文章力が不足していても、驚く程それぞれの個性が文章に出る。親近感も沸く。そして何より情報を沢山発信出来る上にイメージコントロールがしやすい。書いてある以上のことは存在していないわけだから、出せば出すほど見せたくない部分を隠すような構造になっている。一方で、情報が出れば出るほど、出ない部分を想像してしまうのもファンの性。かくてより夢中になってしまう。尚克つタレント本人が「これが素の私です」と言えば、いくら心の中で「演出じゃんよ。見せたい部分だけじゃんよ」と思っても、ファンだからこそ「あなたが“素”だと言うのなら信じましょう」としか言えない構造になっている。
確か20世紀の終わり頃、世界のナカータヒデがネットで日記を発信し、CSで広報番組を始めた時、スポーツ新聞の「選手のコメントをとってくるのが記者の仕事」という仕組みは終わるかもしれない、自分の視点で試合を語れないと記者失格になるのでは、という未来予想があった(現実はそうならなかったけど)。同じようにブログで多くの市井の人々が自身の毎日を発信するようになった今、客観報道や芸能人番組のメイキングならともかく、「市井の人々に1年間密着」的なヒューマンドキュメンタリー系は結構な危機ではなかろうか。日記系ブログとは需要が被りまくりだろう。よほど自分の「他者」としての視点に自信があるか、映像の力に自信がないとやれない。実際、物足りない50分間のドキュメンタリーを見た後、番組に出てきた人物名で検索して関連ありそうなブログを読むことなどざらにある。いわゆる「主観ドキュメンタリー」系を賞賛している人々はもっと危機感を持たないと。

ブログはイメージをコントロール出来る。「自分が見せたい“素”」である。実社会で繋がりのある友人ブログと異なり、連絡をとって確かめようがないタレントさんのブログは、だからこそ信頼が大切になる。「演出があるのは分かっているけど、敢えて全て真実だと丸飲みしてやるぜ!」という覚悟と信頼である。よって「確かめようがないけど、信じます」が成り立たなくなると、ブログも成立しなくなる。たとえば最初の日に「ブログ主の父です。ブログ主は今日亡くなりました」と書いて、翌日に「本人だよーん。昨日のは嘘だよーん」と登場したら、多分ドン引きされる。割とたわいもない嘘だし、たかが(リアルで会ったこともない人の)ブログなのに、何故だかこういう「釣り」はものすごく不快になる。不思議なブログリアリティ。
書く側の立場になって言うと、私はこのブログを「サッカーやドキュメンタリーやハロプロなんて、私の人格の5%くらいしか占めてないだろ。残り95%くらいは実生活の中にあるさ」と思って書いている。なのに、匿名で批判めいたコメントを1コもらっただけで、ものすごいダメージを受けた。自分が打たれ弱いことを自覚していたから良かったものの、虚勢を張るタイプだったら、いきなり閉鎖したかもしれない。たかだか自分の人格の一部なはずなのに、このダメージの大きさは一体、という感じ。本当にブログにおけるリアリティというのは謎だ。
こんな感じで、ゼロ年代のネット人格リアリティ、ブログ人格リアリティに関する小説を書こうと画策しているわけだが、正直あまり自信は無い。