パロップのブログ

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マーク・リラ「ネオコンは終わったか」

ネオコンのワシントン進出を可能にしたのは、アメリカ政府の特異な構造によるところが大きい。 主要政党と高い専門性を誇る官僚によって支配される傾向が強い議院内閣制と比較すると、アメリカの制度は穴だらけで、大きな文化潮流の影響を受けやすい。アメリカの政党は比較的弱く、官僚制度は二流で、連邦制度の意思決定は極度に分権的である。戦後、 アメリカの中央政府が拡大し責任が重くなるにつれ、議院内閣制度では通常官僚たちが行う知的労働のほとんどが、ブルッキングス研究所やランド・コーポレーションなどに「外注」されるようになった。アメリカの基本政策研究のほとんどが、これらの機関の「政策知識人」と呼ばれる人たちによって行われる。彼らはある分野、もしくは複数の分野の研究をし、議会の委員会で証言し、官僚に短期間任命されて専門分野の仕事を引き受ける。

マーク・リラ「ネオコンは終わったか」『アステイオン』Vol.68(2008)  

なるほど、そういう見方があるのか。米国の官僚と民間とシンクタンク回転ドアは素晴らしいとか、米国の三権分立は素晴らしいとか、そういう話ばかり聞かされてきたので、こういう視点の提示はありがたい。ほんとかどうかはわからんけどね。そういう話ばかり聞いてきたのはお前の勉強不足だと言われればごもっとも。

アステイオン創刊30周年ベスト論文選 1986-2016 冷戦後の世界と平成

アステイオン創刊30周年ベスト論文選 1986-2016 冷戦後の世界と平成

 

 

竹中平蔵・大竹文雄『経済学は役に立ちますか?』

経済学は役に立ちますか?

経済学は役に立ちますか?

 

そもそもはツイッターで坂井先生のツイートを読んで気になり、手に取った。

https://twitter.com/toyotaka_sakai/status/1002007880684290049

読了してみると、さきほどのツイートはややミスリードかなと思った。確かに一読して「奨学金を一律に給付型にすることには賛成できない」というタイトルの節だけは、坂井先生が書くとおり、大竹先生が竹中先生を「人間の一生は一本線だから、企業みたいに多角経営してリスク管理ポートフォリオはできませんよ」とたしなめているけど、他は割と意気投合している。もちろん私が経済学のことを分かっていなくて、大竹先生一流の皮肉や諧謔が読めてないだけかもしれないけど、そもそも竹中先生と大竹先生の考え方は親和性あるよね。

竹中先生(1951年生まれ)は70年代にフリードマンマネタリズムに衝撃を受けてサプライサイドの経済学を専門にしました。大竹先生(1961年生まれ)は机上の労働経済学を地道にやっていましたが、合理的な選択をする個人を想定した新古典派経済学が労働者の分析にはしっくりこないと悩んでいたときに行動経済学に出会いました。そんな2人。

私も行動経済学進化心理学に親和的な人間だという自覚はあるので、いかに底辺労働者の身であろうとも竹中先生的な考えを正直あまり否定できない。というか、いろいろ著書を読めば読むほど竹中先生が好きになっていく予感。

 

竹中 2009年に誕生した民主党連立政権に社民党が入った段階で、終身雇用・年功序列こそが正しい働き方であるということを前提に作られた制度による雇用期限が、2018年までにすべて完了するからです。契約社員派遣社員はよくないと決めつけて、契約社員派遣社員)として同じ会社に3年間あるいは5年間勤めたら正社員、つまり無期雇用にしなければならないというようなルールができたのですが、その期限が2018年なのです。 (中略)終身雇用・年功序列こそが正しい働き方であるという歪んだ発想のもとに間違った規制を行ったために、例えば契約社員のままでずっと働きたいとか派遣社員のままで働きたいという人が辞めさせられてしまうということが起こりうる。無理な規制の矛盾は、これからたくさん出てくると思います。

竹中 ポピュリズムで大変なことになるというのは、日本では2009年の民主党政権誕生で経験済みです。それがよくわかったので、いま社会が安定しているという言い方もできなくはありません。 p.205

この辺はすごいよね。終身雇用・年功序列とそれを後押しする労組や労組に後押しされた革新政党を破壊することへの確固たる信念を感じるところよね。経済学云々以前の本人のイデオロギーだと強く感じるところでもある。坂井先生のツイートをよく読み直すと第3章に限定しているのか。それなら納得。逆にいうと第1章第2章辺りは意気投合した2人の掛け合いが楽しめるはず。

「ポリシーボードは国民全体のためにどういう政策がいいかを議論する場」という節で、なんで政策委員会に経団連や労組の代表が入っているんだ、そういうのは参考人としてヒアリングすればいいだけじゃん、委員に入れたら業界の利益を主張するに決まってるじゃん、という話はごもっともなんだけど、その流れで、

大竹 極端な話、ある委員会が開かれる直前に厚生労働省のビルの前で行われたデモの先頭に立っていた人が、 デモで演説をした後、そのまま委員会に委員として参加することもあります。p.35

大竹 それは感じています。「労働紛争解決システム検討会」の委員にも労働側の人たちがいて、委員会の直前に厚生労働省の前でアジ演説されていました。p.151

これ、同じ話よね。なんで同じことを2回も言った。よほど腹に据えかねていたのか。読んだときは母熊先生への当てこすりかと推測したが、「透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会」の報告書を眺めた限りでは参集者名簿にいなかった。名簿を睨んだ限りでは、日本労働弁護団の徳住堅治弁護士辺りか。

そもそも本書の成り立ちがはじめににもあとがきにも書いてなかったんだけど、何かの雑誌の3~4回やった座談会をまとめたものなのかとか、この語り下ろし単行本のために集まって集中的に喋ったのかもよくわからないので、なんで同じことを2回も言った?

「反競争的教育によって助け合い精神は希薄になる 」という節で、

大竹 例えば、運動会の徒競走で順位をつけないとか(中略)当時の日教組は、生まれ持った素質や能力はみな同じであり、成績が悪い子がいたとしたら、 それは教育環境が悪かっただけだという思想で、順位をつけないということになったのでしょうが、予想外に「だから助け合わなくていい」ということになってしまった。

これはちょっと大竹先生大丈夫かな。徒競走で順位をつけないってエビデンスあるの。実は都市伝説という話では。それが日教組の影響だったとなるとさらにエビデンスが必要では。もちろんこれも本書の他の章と同様に「人間はそれぞれ得意なものは違うから、お互いに「これはあんたが1番、あれは私が1番」と認めあった方が助け合うようになるよ」という心理学のエビデンスを使った行動経済学の説明が発端なんだけど、挙げた例がやや微妙。

以上、つまみぐいではあるけれど、大竹先生の「可哀そうな人に可哀そうな物語で同情を集めて変な運動するより、心理学的な手当てで具体的に助けた方がwin-winじゃん」みたいな思想が垣間見えるはず。

どうでもいい余談なんだけど、「オーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)で生まれたシュンペーター」(p.234)がすごく気になった。チェコでかくね?「オーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア地方(現在のチェコ)で生まれたシュンペーター」の方がよくね?と思ったんだけども、ウィキペディアシュンペーターの項を見たら「オーストリア・ハンガリー帝国(後のチェコモラヴィア生まれ」となっていた。うーん、どうやら編集者がウィキペディアを見て赤文字を入れたのかね。

『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』

『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』は、2008年に出版されている。もう少しいえば2003年〜2006年の科研費を得て行われたプロジェクトをまとめたものである。

 1月に国会図書館で『ビッグイシュー』の上山和樹×斎藤環を45号(20060301)〜105号(20081015)までコピーしたので、次のステップとして本書の上山和樹の箇所(20070929収録)を読もうと思った(上山×斎藤を読んだ話はまた別の機会に)。最初はそこだけ読んで済まそうと思っていたのだが、他の論文もなかなか面白かった。そもそも同じ根っこの問題意識から一つの書物が編まれているのだから、当たり前の話だが。まあレヴィナスメルロ=ポンティのところは読んでもさっぱりわからないし、日本で行われている事例はほぼ読み飛ばしたけど。そういえば去年行った生命倫理学会にもレヴィナスの顔やらメルロ=ポンティの身体やら訳わからんことを言う偉い人達がいた。

しかし、疎外という用語が、ピネルに始まり、ヘーゲルフォイエルバッハマルクスときて、 ガタリフーコーにまで関係するとは思わなかった。19世紀の精神医学と哲学は近い所にあったのね。20世紀には社会学や心理学や文化人類学に細分化されて、人間の心の中を考えている人達と社会のシステムや制度のことを考えている人達に枝分かれしていたのが、フランス現代思想やら言語行為論やらエスノメソドロジーやらも絡んできて、結局最後には合流する感じがある。本書にはクルト・レヴィンのグループ・ダイナミックスも出てきたし、このまま勉強を続けたらルーマンやバトラーも出てきそうで恐ろしや恐ろしや。

まあラカンからしてわかってないので本書に出てくるジャン・ウリのこともちゃんとわかってない。精神分析を理解しないとたぶん制度分析も理解できない。

 

ジャン・ウリ曰く

精神科の患者というのは、ある意味でそういう、自分の目の前にいる人物の無意識の欲望というのに非常に敏感な人たちが多くて、何かある種のアンテナのようなものをもっているわけです。医師や看護師の資格、そんなものが一〇〇あっても全然意味はなくて、やはりそういう無意識の欲望をもって、どうかかわっているかということが非常に重要な要素になってくるわけです。 p.164

認知症対応型共同生活介護グループホーム)の元労働者としては、この辺りの話は実感できる。

純化して喩えに上げて申し訳ないけど、介護系の資格を取るとか勉強するとかに全然興味がない純粋に生活のために働く系おばちゃん、「世話をしてやってる」が前面に出ているタイプ、利用者の訴えに「規則で決まってるからダメ!」「あーもう、全然言うことを聞かないわね、この人達」とか言う人。一方にそういう人がいる。もちろん賃労働なのだから、この割り切りはありといえばあり。利用者側も敏感に察知して、こういう人には段々と頼みごとをしなくなる。

他方で福祉系の学校を出た使命感に燃えている人、全人格をもって利用者と向きあう人。利用者も信頼してあれこれ頼んでくるので、それをしっかり実現してあげようとする。これは真似できないしついていけないのでサービスを標準化するという意味では同僚から好かれない。なによりこの人自身が潰れたりする。

労働者としての私は、利用者のことを内在的に理解しようと努めること自体を面白がっている人。だから一見後者のように見えるんだけど、自己犠牲の精神がないから、助けを求めて握ってきた手をあっさり離す。もしかすると私が一番悪質かもしれない。

 

ジャン・ウリ曰く

結局、看護師の仕事というのは、自分の経験によって働くということ、つまり自分の歴史、自分固有の個人史を使って働いていくということなのです。

ところが、これはフランスでもそうなのですが、そのような仕事の仕方というのは、じつは国家的には禁止されているわけですね。だけど、それを禁止してしまうと、先ほどからいっているような、一つの共感にもとづいた仕事というのは、全然やっていけません。 pp.161-162

へえ、フランスでもそうなのね。イメージでもっと個人の裁量だらけな国かと思ってた。

これは本書の後半に出てくる病院機能評価とも関わってくる話かな。病院機能評価って、ようするに医療版ISO(国際標準化機構)みたいなものよね。誰がやっても同じように出来るマニュアルを作りましょう。もちろん看られる人間を工業製品のように扱うのではなく一人一人を個性ある者として看るわけだけれど、じゃあ看る側は誰に代わっても大丈夫ですとなるのか。人と人との関わりを標準化できるのか。ある看護師が非番だったり病欠したり退職したりしても変わらず看護できるのが良いとされて良いのか。いやいや、仮に利用者ではなく看護師でも医者でも介護士でもその場にいる人間が1人でも代わったら、その場のルールもシステムも全体を見直す、微調整する、それが制度分析であると。言うは易し、なかなかきついね。

社会のシステム・ルール・コードに対応できなくて精神病院に閉じ込められている人達、実は頭がおかしいのは社会の方なんじゃねえの。とりあえず精神病院内の医者と患者の関係、看護師と患者の関係、医者と看護師の関係、全部ゼロベースで洗い直してみるべきでは。その洗い直した関係、今後はその見直し作業を外の社会にまで広げないと、精神病院を廃止して精神障害者を外に出しても良いことにはならんぜよ。…っていうのはよくわかる。よくわかるけど、だがしかし。

竹端寛先生のこの本とかたぶんそういう話なんだろうなと。まだ読んでないけど。

「当たり前」をひっくり返す

「当たり前」をひっくり返す

 

 私自身、感情労働自体は仕事のときだけ感情を切って1日8時間の役割演技(ロールプレイ)だと思えばそれほどきつくないけど、自分固有の歴史を資源に感情労働を行うのはかなりしんどい。そういう話が、恐らく第4章の三脇論文に出てくる武井麻子氏の話と関わってくるのだろうが、よく読むとちょっと違うような気もする。

武井には治療共同体でのノウハウから制度分析へと考えを進めるチャンスがあったのだ。感情労働が制度分析を行うことだとして、この不払い労働の価値を治療論として展開するチャンスが日本にもあったのだ。 pp.194-195

少しだけ本音をいえば、「最適化された制度・システム・ルール・コードができたぞー」と達成感を味わうそばから「完成した瞬間から制度の陳腐化が始まるのだ、固定化してはダメだ、現在のシステムを疑え」みたいに言われるのに、ほとんどの人間は耐えられないのだと思う。特に人間関係や権力関係をたえず疑って、検証して、みたいなのは。私も労働は標準化して欲しいタイプだし、介護する側と介護される側の立場が入れ替わったりして欲しくないタイプ。権力差に安住したいタイプ。それほど理不尽でなければ権力の下側になっても安住したいタイプ。

 

余談

「アコイエ修正案」と前後して厚生省の外郭団体(INSERM)が公表した専門家チームによる報告書(通称「クレリー=ムラン・リポート」)のなかに、心のトラブルは対処する治療手段としては精神分析より認知行動療法のほうが効果的である、と記されていたことから、精神分析家たちの反発はやがて認知行動療法へと向かって行く。 p.358

これは日本でも香山リカ先生辺りの本で読んだ覚えがある。犯罪加害者の更生プログラムに認知行動療法が取り入れられることが増えたけど、精神分析の方が効果あるんじゃないの云々と。割と縄張り争いの話でもあったのね。

 

さらに余談。

私はサッカー観戦こそ22人を箱庭に入れて人間社会の縮図を90分間観察する楽しみと考えて観ているところがある。味方の10人を見て相手の11人を見てポジションを1メートル ほど動いたり、ボールの位置を見て相手の位置を見て体の向きを30度ほどずらしたり。サッカー観戦と制度分析は非常に似ていると思う。

なので、ジャン・ウリの以下の発言はちょっとショックだった。

一九世紀末から二〇世紀初頭に活躍したフランスの社会学ガブリエル・タルドはいかにして「大衆(la foule)」を「公衆(le public)」に変えるのかということを一九〇五年の書物で述べている。彼によると、公衆というものは一つの一貫性をもっているものであるけれども、必ずしも一人一人の人物が大衆においてあるように触れ合って狭い場所に存在している必要はない。公衆というものは、固有の構造をもっているものである。そして、人々がこの公衆というものになったときにはじめて、大衆という状態において起こる「伝染(contagion)」という現象から逃れることができると彼はいうのである。しかし、この大衆という状況よりもっとひどい状態が存在している。それが「グレガリスム(grégarisme)」である。「グレゲール(grégaire)」という形容詞は集団がごちゃまぜに存在している状態のことである。たとえばわたしはサッカーが嫌いなわけではないが、サッカーの中継などをみているとまさにあれがそうなのだが、おぞましい、恐ろしいものであって、あのようなグレガリスム、つまり人間の集団的状態にこそファシズムは基づいていたのであった。 pp.265-266 

いやいやいや、ジャン・ウリ、サッカーのことを全然わかってねえよ。集団がごちゃまぜじゃねえよ。ファシズムじゃねえよ。全員が他の人間の位置や向きを見ながら相互行為を行っているんだよ。でもまあ改めて引用箇所をよく読んでみると、サッカーの話をしているのではなくサッカー場の観衆の話をしているのだろうか。ちょっと分からないので保留。そもそも伝染とかグレガリスムとか現代思想用語、わからんしね。

そんなことを考えていたら、たまたま以下のような記事をみつけた。

ボールへの到達時間を予測する――サッカーの間合い【前編】〈高梨克也〉

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/1599

ボールへの到達時間を予測する――サッカーの間合い【後編】〈高梨克也〉

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/1600

うむ、こういう感じ。ジャン・ウリもこれを読むべし。軸足とか重心とかの話が出てくると、風間やっひー理論を思い出すね!

二人称的アプローチといえば、細馬宏通『介護するからだ』も面白かった。

介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)

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