パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ボヘミアンラプソディ殺人事件』と光の魔術師

録画した『ボヘミアンラプソディ殺人事件』を見ていたら、エンドクレジットに「撮影:夏海光造/水野宏重」と出てきたので「おっ」と思い、改めて最初からザっと見ながら気に入ったシーンをキャプってみた。

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夏海が関わったTVドキュメンタリーは割と見ていて、その映像の美しさから「光の魔術師」と私だけが勝手に呼んでいる。「そんなに好きならエンドクレジットで気づくんじゃなくて、見ている最中に気づけよ」と言われればごもっとも。

私の見立てだと、イギリスでのドキュメンタリーパートを夏海、日本でのドラマパートを水野だと踏んでいるのだが、全く逆の可能性ももちろんある。その場合は私の目が節穴だったということで許してほしい。ブログのタイトルに「光の魔術師・夏海光造」と入れなかったのは、そういう理由だ。まあ、びびり。検索すると、夏海と水野は同じ会社の盟友同士のようだから、きっと許してくれるのではないか。許してください。

我が家のぼろいTVとDVDレコーダーで録画したものを我が家のぼろいパソコンでキャプったものなので、画質が悪くてこの美しさが伝わらなくて申し訳ない。綺麗な薄型テレビを持っててブルーレイレコーダーに保存したという人は、ぜひそういう目で見直してほしい。

 

間接照明の多用、意図的な演出だよね。技術的なことはよくわからないが、カメラの横には普通の撮影で使う大きな照明があって、人物の奥にも間接照明を置くことで顔の陰影がはっきりする効果とかあるのかね。

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自然光の入れ方もいいよね。単調になりがちなインタビューシーンの画面をなんとか面白くしようとしている感じがある。

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色彩感覚も最高だよね。

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最後はルース・ドックレイさん特集で。ご本人に検索で見つからないようにカタカナ表記にしておこう。

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構成演出は、これまた奇才の誉れ高い長嶋甲兵でした。

 

これくらいだと引用の要件は満たすだろうか。画像と文章の主従は逆転していないだろうか(ルースさんが余計なのは自覚している)。許されるなら、こういう感じでドキュメンタリー批評をしたい10年代だったが、気が付いたら2018年になっていた。

一般人が生命倫理学会に参加してみた話

※最初は連続ツイートしようかと思ったけど、長くなったからまとめてブログにしたので、基本的には140字で改行する書き方になっている。

せっかく自称サバティカル中だから、人生で一度くらい某先生が学会で大暴れしているところを見物してみようかと生命倫理学会に参加したので、その話を問わず語りに書いてみよう。一応、ネットで学会のプログラムを眺めて、意外と医療介護分野のシンポジウムが多いのを確かめて、「これは介護福祉士/ケアマネ資格持ちとして研鑽を積むためだ、決して大暴れを見物するのではないのだ」という自分自身へのエクスキューズを作ってから申し込んだ事を申し添えておく。

 

パネリストの1人である盛永先生が公募に手を挙げたオーガナイザー自身で、現代思想おじさんは雇われ司会者という解釈でいいのかな。

とりあえず、他のパネリスト2氏が誤ったパーソン論受容をしているわけではないのに、あの場でスライドp.8までの話をされても八つ当たりとしか思えないだろうし、フロアもポカーンだろう。悪手だった。

とはいえ「政策的な話をするのに、尊厳概念は使い物にならんよね」というところまではパネリスト3人とフロアまで含めて合意形成が出来ていた気はした。そこから先の議論を進めたいところで時間切れ。

いみじくも盛永先生が「必要悪」と口走ってしまったように、「人類の歴史において未来永劫人工妊娠中絶が1件もない社会はありえません」vs「ヒト胚の尊厳は絶対不可侵です」という矛盾を、「尊厳概念を捨てて権利同士の衝突、優先順位の話にしませんか」というのが某先生の主旨かな。

22週の胎児の尊厳(尊厳がよくないなら権利でも価値でもいいけど)と妊婦の尊厳とがぶつかった場合に、妊婦の尊厳を優先することは正当化されるけど、受精4日目のヒト胚と衝突する尊厳は存在しないので廃棄処分は不可、みたいな合成の誤謬はありそうな気がする。そういう誤謬が起きないよう、屁理屈の整合性を一生懸命に考えるのが生命倫理学の仕事ではないのか。

まあ「ブタさんやイヌさんにももちろん尊厳はあるけど制限付きで人間を100としたら70くらい? じゃあ妊婦は人間だから尊厳100として胎児は当然それより劣るはずだから95くらい?」みたいな下衆な話は真っ当な学者なら初めから拒否したいという気持ちは理解出来る。尊厳ってのは有か無かどっちかで、9割の尊厳とかありえないんだよ!

「遺伝子操作と人間の尊厳」というタイトルが悪かったのではなかろうか。最初からタイトルを「中絶/パーソン/尊厳概念」辺りにして、論点をピンポイントにした直球勝負が出来たら面白かったかも。だがオーガナイザーの問題意識は違ったのかもしれない。

この文章を書きながら色々検索して、今更だけど以下のエントリーに気づいた。

盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

https://yonosuke.net/eguchi/archives/8525

(アマゾンレビューみたら、同書は日本医学哲学・倫理学会学会賞を受賞していた。というか、医学寄りの倫理学会というのも存在するのだな。)

なるほどシンポジウム前に盛永先生とやり取りしていたのね。会場全員これを読んでいる前提で話が進めばよかったのにね。しかしこれを読むと、やはり遺伝子操作やヒト胚の話がシンポジウムのメインであるべきなのか。

しかし某先生のスライドを見ると、初めから遺伝子操作の話をする気が無さ過ぎる。これでは噛み合うはずがない。でも下線を引いた「カント的な伝統とは関係がない」p.13は論点になったかもしれないのか。カント的伝統は関係あるのかないのかの話からキリスト教由来の議論を参照する必要があり、人格主義生命倫理学の秋葉先生が召喚されたのか。個人的にその論点が面白いかといえば、うーん微妙。人格やらパーソンやら言葉の定義で平行線が続くだけのような。

正直にいえば、カトリックを見直した。問答集が出来上がっている。生半可な難詰にはびくともしない。話せば長くなるからいちいち言わないけれど、とりあえず全ての問いに回答は用意してある。伊達に千年以上にわたって当代随一の天才達が異教徒からの攻撃を打ち返して体系化してきただけの事はある。しかし「善を成すべき、悪を成さざるべき、何が善で何が悪かは時代によって変わる」って、生命倫理の話でよく出てくる滑り坂論法なんて目じゃなく、ズルズル滑って行きそうだな。まあものすごい勢いで滑って行かないようにするのも議論を蓄積してきた伝統の力なのかもしれないが。滑るにしても少しずつ滑って行きます、みたいな。

ディメンションが違ってもピース。

まあ某先生が配ったスライドのプリントを受け取った若手研究者が「伝言ゲームを止めて、ちゃんと英語論文を読んで、ちゃんと批判しよう」と思って研究を続ける機運が高まれば、老兵として充分役割を果たしたといえよう。

ここまではシンポジウムにおける議論の仕方の感想。以下余談。学問の訓練を受けていない素人が文脈を理解しないまま内容に触れるのは危ないけど、ちょっとだけ感想を。

たとえばシリアスな遺伝病を持って生まれてきた人に対して、遺伝子操作を行って病を克服し人生を謳歌してもらう代わりに子孫を残すのはちょっと遠慮してもらいますみたいなのは生命倫理に適うだろうか。品種改良した種無しブドウとかスイカみたいな一代限りのイメージ。

「ゲノム編集は創造主をも恐れぬ行為だ!」と「ゲノム編集からどんなミュータントが誕生するかも予測できない!」というのが反対の理由なのか。前者はまあ宗教、置いておこう。後者の場合、性的指向や障害で差別するのを禁じるのが21世紀の潮流なら、手が4本、目が3つで生まれてきても人間の尊厳を認めて差別しなければ良いだけでは、とも思う。社会が差別しなくても本人のアイデンティティが不安定に…とか言うかもしれないが、そもそも自ら望んで主体的にこの世に生まれてきたものは誰一人としていないわけで。映画『X-MEN』は社会からの承認とか本人自身の自己肯定感とかそういう話が裏テーマだった記憶がある。手が4本あっても差別がなく自己肯定感を持てる社会を作ろう!

 

この項終わり。

 

瀬戸山先生の基調講演は見事な語り口だった。行動経済学とかナッジとか生命倫理学業界では嫌われそうな事を言ってもOKなのも人徳なのか、その手の研究にアレルギーがなくなっているのか。プログラムの巻末に載っている広告に『医療現場の行動経済学』があるのを見て「大丈夫か?排斥されそう」と思ったけど、瀬戸山先生の肝いりであったか。そもそも生命倫理学の人は行動経済学とか嫌いそうというのも私のただの偏見で根拠はない。

元々法哲学の出自なのに、異分野の人と交流するのが楽しくてこっちに顔を出すようになったという話をされていたが、シンポジウムも「対戦成績は24勝21敗、お互い手の内を知り尽くしたベテラン大関同士の一番です」という知的勝負が見たいのか「おっと、猪木、いきなりリングに寝転んだ!」みたいな異種格闘技戦が見たいのか、は難しい。異種格闘技戦を出来るのが恐らく生命倫理学の良いところだが、よほど事前にうまくブックを書かないと散漫になるのも事実。

 

お昼ごはんのついでに、14~16時はWi-Fiの入りが良いホテルに戻ってJリーグプレーオフを見た。その後、初日最後のシンポジウムを聞くべく学会に戻るつもりだったが、すっかり面倒くさくなり、地下鉄内にぶら下がってた広告に誘われて嵐山の竹林の小径を観に行った。全然ポスターの写真と違ってた。騙された。

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2日目には医療とケアに関する3つのシンポジウムを眺めた。プログラムを眺めると、面白そうな一般演題(口演)もいくつかあったが、原稿読み発表+折り目正しい質疑みたいなのを見るくらいなら自宅で論文を読んで内容を知ればいいや、ということで議論を楽しめそうなシンポジウムを選択した。

須田とか広井とか島薗とかスタープレーヤーを見たい気持ちはもちろんあったが、介護労働者/ケアマネの卵として勉強しに来たという建前を維持してみた。結果、シンポジウムで仕切る児玉聡先生と質問する川口有美子先生を見られたのでよしとしよう。

2日目の人々は誰もパワポのスライドをプリントして配るという風習自体がなくて、ほんとカルチャーが違うんだな。初日はスーツのおっさんだらけで私服で行ったら浮いてしまったが、2日目は出席者に女性が多かったのでそれほど浮かなかった気がする(気がするだけ)。

余談だが、初日の人々は「前の方に配布資料を並べています」くらいアナウンスすればいいのに。というかそもそも出入り口に配布資料を並べればいいのに。やはり学者先生は事務的に無能。

 

出席したシンポジウムのタイトルはそれぞれ「人生の最終段階における医療とケアの意思決定支援―ガイドラインの活用の実際と課題―」「人生の終末期の医療・ケアについて考え話し合うにはどうしたらいいのか―国内外の取り組みから考える―」「在宅医療・ケアにおける臨床倫理支援の実態と今後の課題」の3つ。内容が似てる。

初日の人達が、尊厳概念がどうこう、カントがどうこうデリダがどうこう喧々諤々しているなかで、現場系のシンポジウムでは「尊厳は大切、自己決定権ももちろん大切、では終末期の人や認知症の人をどうしましょう?」みたいな前提で進むのがなんか面白かった。ほんとカルチャーが違う。カントやデリダを研究した結果をどう現場に落とすか、というのが学会の重要な役割のはずだが、その間を繋げるのは難しそう。

どうやら、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)と厚生省が策定した「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」が終末期医療業界ではホットな2大トピックらしかった。

どの話もなかなか勉強になったし面白かったけど、終末期医療における倫理といえば、もうほとんど自己決定権の話なのね。終末期医療の話には、人工中絶も遺伝子操作も出てこないので、結果として尊厳死も自己決定の話にのみ接続されて「尊厳死や延命治療の拒否も本人の意思がちゃんと確認できるかが焦点だよねえ」みたいな雰囲気で、面白いというか危ういというか。正直にいえば、この手の実践をどうするかを話すならば生命倫理を絡めなくても医学会や看護学会でもいいんじゃないかなあとも思った。

昔は医師が権威で方針を決めていた→独善的だ→医師が選択肢を示して当事者が決める(インフォームドコンセント)→まだ自己決定が足りない→事前指示書(AD)で本人が決断→素人が決めれるわけないだろう→ステークホルダーみんなで話し合ってみんなで合意しましょう(ACP)→実は自分で決めたかったんじゃなくて、決めるまでに自分の意見を聞いてもらいたかっただけじゃね?→みんな(特に当事者)の希望を聞いた上で、重要な事だからこそ最後は専門家が責任を持つべきだ←今ココ。こんな感じ?グルグル回りながら螺旋状に練度が高まっている感じ?結局は専門家を信頼できない一般人と、制度の中に専門家を位置付けたからには資格を持つ専門家の腕を信じていただくしかないんですという行政とのせめぎ合い。

皆様の話を聞いていると、ACPが成功するためには常日頃からステークホルダー同士でコミュニケーションを欠かさず、どんな結果になっても納得感がある、誠実に対応してくれたと思える事なんだろう。裏返して現状の一般人の不満というのは、医師が忙しすぎて「医師がちゃんと話を聞いてくれない」「3時間待って3分診療だ」とかなんだろう。解決するには、ACPの中心をソーシャルワーカーやケアマネジャーにして「あなたのお父様の人生観から自分史、好きなおでんの具まですべて理解して、お父様の希望を汲みとれるのは私達です。医師?ああ、あれは医療という狭い範囲でアドバイスをしてくれるだけの雑魚ですよ」という価値観に世間が慣れるしかないっしょ。

まあ、医師が看護師を見下し、看護師が介護労働者を見下している現状をなんとかしないと、多職種連携なんて鼻で笑っちゃうよね、というのはある。最後のシンポジウムのパネリストをしていた訪問看護されている医師が「この学会に介護関係者が全然来ていないのはいかがなものか」みたいな発言(学会の在り方に疑義を挟んでいただけで、来てない介護勢を悪く言っていたのではない、念のため)をされていたが、まあ軽く見られるのを分かっててノコノコやって来るお人好しはなかなかいないだろう。叩き上げの看護師の方々が現場で働きながら大学院に通って論文書いて医学会のなかでの看護学のプレゼンスを頑張って確保したように、介護業界も介護福祉士の団体が「専門職として認めてもらいたい」などと賃上げ運動してもダメで、苦学して論文書いて、アカデミズムに介護学の居場所を作り、こういう所に出てこないと地位は向上しないだろう。「むむ、おぬしもなかなかやるな」と思わせないと地位は上がりません。

 

今年6月に策定された「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」に関わったらしい稲葉一人先生が会場から手を上げたり(「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」は決定プロセスに関わる医療者を支援する倫理コンサルのためのガイドライン認知症の方は認知症の人の意思決定を支援するケアラーのためのガイドライン)、「そのガイドラインの作成に私も参加したのですけども…」みたいな学者や役人がゴロゴロ挙手したりするのは、さすが知の最前線。素直に感心した。かつて何か(たぶん事前指示書)のガイドラインの策定に携わった際に川口先生とやり合ったらしい清水哲郎先生は、川口先生の質問というか意見とのやり取りがピリピリしていた。

 

プログラムを眺めていると「ストレングスファインダーを使用した倫理研修プログラム」というのがあり、ついさっきゾゾタウンの人へのインタビュー記事でストレングスファインダーという語を知ったばかりだったのでタイムリーだった。ちゃんとした大企業で働いた事がないので知らなかったが、今どきのちゃんとした企業はこういう個人の強みの把握とかやってんのね。ビッグファイブやストレングスの把握って、なかなか微妙よね。スタッフに倫理研修プログラムを行うにあたってスタッフにストレングスファインダーを行う倫理的問題…以下ループみたいな。

 

二度と行く事はないだろうけど、良い社会勉強になりました。おしまい。

(2019/2/8追記)

予稿集をバラバラにしてスキャンしたのを機に、改めて当日発表を聞くほどではないけれど、いつか論文を読みたいと思った面白そうな研究をメモ。

野辺陽子「養子と里子の「出自を知る権利」に関する社会学的研究」

角田ますみ「ストレングスファインダーを用いた介護倫理研修プログラム」

井口真紀子「終末期の末梢輸液を巡る在宅医の語り」

川端美季「近代日本の「国民性」言説における身体観と道徳観」

船木祝「独居高齢者と共同体」&宮嶋俊一「独居高齢者における「死者との関わり」

吉田一史美「米国の出生前診断・選択的中絶と障害児の養子縁組」

仙波由加里「理想的な配偶子ドナーとはどのような人か―ニュージーランドと英国でのドナーへのインタビューから―」

高橋博子ほか「インフルエンザ予防接種からみる認知症患者のインフォームド・コンセント

2018/10/9プラハ~ブルノ

※時刻はレシートで確認できたもの、~頃は体感記憶

 

9時半頃チェックアウト

合鍵を返すと、10EUR戻ってきた。

トラムで本駅に向かう。

 

10:04 本駅で列車チケットを買う 219CZK

10:10 スーパーで朝食を買う 28CZK

駅前のベンチでパンと牛乳を摂っていたら、課外活動中の子どもたちが怪しげに見ていった。牛乳のはずなのに酸っぱいプレーンヨーグルトぽい味がした。

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11:00頃 バーツラフ広場に戻ってしばらく名残惜し気味にウロウロした後、2000年に発見して以来、毎度寄っている郵趣屋さんを訪ねるが、開店11時になって開いていない。店の前で常連らしきおばさんが「電話しても出ないのよ」とか話し掛けてきた。まあ店主は道楽を兼ねて趣味の店をやっているような感じだから、こんなパプニングも仕方ない。

 

広場から本駅に向かう途中、通りで偶然、独立100周年記念写真展を見つける。昨日ポスターを見かけたけど、どこでやるのかわかんないぜと諦めていたので良かった。幸い列車の出発時間にもまだ間があるのでゆっくり見る。

※写真展は別に章立てする予定

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駅までの道すがらジュビリーシナゴーグを眺める。

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12:51 プラハ駅発

15:25 ブルノ駅着

インターシティは快適。たぶんこの列車で気付き、その後のチェコ・スロバキアでの列車でも同じだったと思うが、列車には指定車/自由車の区別がなくて、座席の頭の上に「ここ〇〇~〇〇の区間に予約あり」みたいなシール札が貼ってある。指定席の人が来たらそれまで勝手に座っている人が立ち去る感じ。あの制度はいいなと思う。証拠写真を撮るつもりが忘れた。

 

駅前から市街地を調査がてらウロウロする。トラムの乗り方も研究する。ここはそんなに面倒くさくなさそう。

 

16:57 サブウェイで昼食 130CZK

あれを入れる、あれをかける、どのように焼く、いろいろ面倒くさかった。なんでサブウェイに入ってしまったか。でもこれで日本のサブウェイにも挑戦できそう。店の中でのんびり食べるのはいい。そして美味しい。

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17:28 アルベルトで買い物 52CZK

17:37 トラム15分券買う 20CZK

トラムに乗ってホテルに向かう。

 

17:53 ウヘリゴンキーにチェックイン 1840CZK(クレカで支払い)

レセプションを訪れると、感じのいい兄ちゃんが「チェコ語話せる?話せない。そりゃそっかあ」みたいに感じよく、チェコ語で部屋やレストランの仕組みを説明してくれた。この最初の1人部屋に2連泊となるので、この機に風呂場で洗濯する。

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レシート、よく見ると、税率15%と21%の商品があるのね。