パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

ワールドカップ2018の日本代表を振り返る

本題の前に、私の立ち位置を明らかにしておこう。旧東欧ヲタのバヒド信者です。

まず基本的なところで、ワールドカップは実力が正確に反映されない数週間に7試合くらいを詰め込んだただのトーナメント大会、かつてのガンバ大阪の監督さんが言った風にいえば「世界3位じゃなくてワールドカップ3位」扱いでいいんじゃない、という風に思っている。その国の総力とか全然関係ないじゃん。だからスウェーデンブルガリアがベスト4に入ったら「米国は暑かったね。昼間に試合やってクソみたいな大会だったね」で終わるし、韓国とトルコがベスト4に入ったら「八百長ひどかったね。審判ひどかったね。クソみたいな大会だったね」で終わる。「ベスト4に入ったあの国は強くなったね」なんて誰も言わないんだよ。国の評価とはそういうもの。

サッカーの実力というのは1シーズン通して30~40試合やって、まあチームのおおよその力量が正確に反映されるのかなと。誤審も均すと公平になるし。だからVARも短期決戦トーナメントでの導入のみでいいのかなと思っている。その1つの誤審がチームの成績、ひいては大会の成否に直結する場合に限って導入しますよと。

ワールドカップは実力を正確に反映するものでもない、再現性のない一回性の大会。だから歴史のイフは言いません。バヒドなら3連敗だとか逆にバヒドならベスト8だったとか。バヒドが監督だったらコロンビア戦の開始5分で槙野が退場していたかもしれないし、そんなの考えてたら延々と分岐するだけでしょう。

というか、ワールドカップってこんな権威のある大会だったっけ?この20年くらいでどんどん価値が凋落している感覚だったのに。今大会、アフリカ勢がボーナスで揉めなかったじゃん。大会前にちゃんと話がついていたのか、話がつかなくてもみんな真面目に参加したのか、どっちかわからないけど、肩透かし。代表レベルの選手みんなにお金が行き渡って、逆に真面目に参加して頑張ることに意義が出てきたのだろうか。わからん。

バヒドの試合はつまらなかったかといえば、わたしは正直親善試合をあまり真面目に見てないからなんとも言えない。そもそもキリンなんちゃらチャレンジなんて、本来は宮崎のキャンプ地やJヴィレッジでやる課題出しのトレーニングマッチなのに大金取って興行にするから面倒なことになっている。W杯予選の何が面白いかって、負けたらアウトの真剣勝負だから面白いので見るわけで。だからバヒドの本番を楽しみにしていたわけで。

代表チームの雰囲気がどうとかコミュニケーションがどうとか言う話もあったけど、そんなん23人決めるまで競争させて疑心暗鬼のメンバーが数人混ざっている状況と、23人決めて腹をくくってやるしかないチームを比べても仕方ない。比較になんない。バヒドが決めた23人が腹をくくって対戦相手を丸裸にしてリアクション重視のサッカーをやったらどうなるか、本番をひたすら楽しみにしていたけど、それも歴史のイフ。証明のしようがない。

ただまあバヒドで勝ったか負けたか分からんけど、選手のスペックと対戦相手との相性にこだわり過ぎて、オーラとかラッキーボーイとか見ないで、ノットヒズデイの選手を使い続けてコケそうな感じはあった。

ああそれから、バヒドの戦い方で成績を残したとして、日本に成績以外の何かが残ったかといえば大して何も残らなかっただろうとは思う。話は最初に戻るけど、再現性のない一回性の大会なんだからそれでいいじゃんとしか。

今回の日本代表をめぐる構図がわかりづらかったのは、欧州でそれなりの実績を残してきた自負のある海外組がバヒドに反発して、国内組の若手の方がバヒドの言うくらいやらないと海外じゃ通用しないんだみたいな肯定組になったこと。もし遠藤ヤット及びミシャ式サッカー組が代表の中心を占めて「日本には日本のやり方があるんだよ」とバヒドに反発して、海外組が「いやいや、そんなんじゃ世界で通用しないよ。バヒドの言う通りだよ」という構図だったら、ここまでサッカー論者たちがややこしく揉めなかったはず。

興梠なんか「裏に早いサッカーとか向いてないっす。俺は体脂肪多くていいっす。バヒドとは絶対合わないので代表とか興味ないっす」みたいなスタンスだったけど、バヒド解任されて西野サッカーになると分かってたら、もっと代表に意欲を見せてたかもしれないし、大迫ほどではなくても結構1トップやれたんじゃないの?とも思う。国際大会じゃ通用しない?いや、ACLならけっこう通用してたじゃん、みたいな。

欧州で何年もレギュラー張っている選手が、戦術ヲタから「そんな戦術眼じゃ欧州で通用しねえよ」と言われているのはつらい。まあでも井手口や細貝のように日本だったら評価されるピットブルのような追いまわしが欧州じゃウケないのはなんとなく分かる。とはいえ細貝、2シーズンはブンデス1部で30試合以上出ているんよな。欧州クラブでもトップオブトップ以外はまだまだサッカー脳よりもタフさや速さや上手さが起用において優先されてるんじゃないの、という感触はある。

そもそもは2014年のチームをどう評価するのか、から議論が始まっている。今回の大会が始まる前のフットボリスタの対談でひしゃく先生と浅野先生が「2014年はコンディショニングに失敗しなかったら、世界を驚かす可能性があった」みたいに言っててこっちも驚いたが、そう思ってる人と「日本オリジナルじゃ世界に通用しないんだよ」と思っている人とではそもそも会話が成立しない可能性が高い。その亜種として「もしかすると2014年は日本オリジナルでそれなりに世界に近づいていたかもしれないけど、あれから4年の間に世界のサッカーはよりいっそう戦術的になり、バヒドみたいにやらなきゃ欧州勢から離されちゃうよ」という意見もあって、なかなか複雑。

ミシャ式がACLでさっぱりだったり、アンダー世代の吉武ジャパンが圧倒的にボールを支配しながら貧弱センターバックがボコられてアジアレベルでも負けていたのをみると、日本オリジナルではダメじゃんというのもわかる(←でもこれは戦術じゃなくて個の能力不足になるのか)。JFAが言ってる日本らしさと本田達が唱える自分たちのサッカーとミシャ式はそれぞれ違うのだろうけど、本田香川岡崎のような個人事業主として欧州を渡ってきた選手にミシャ式を教え込んでワールドカップで見たかったなあという気持ちも少しある。バヒドごめんなさい。

結局のところ、近い将来、若くして欧州に行って、マンCやバルサクラスは無理としてもナポリモナコクラスでレギュラー獲って、ポジショナルなんちゃらや5レーンなんちゃらに適応してみせたスター選手が現れて、日本代表に入ったときに「代表はレベル低いことをやってるなー、監督も言ってることレベル低いなー」と言い出した時に、どんな議論が起きるだろうかってところだろう。戦術ヲタライターから選手に密着ライターまでみんなで喧々諤々議論したら楽しいだろう。酒井宏樹にはキャプテンを期待したい。議論のリーダーシップも期待したい。

余談だが、「自分たちのサッカー」組がわりとJリーグ好きから冷ややかに見られていたにもかかわらず、かといってJリーグ好きがバヒド支援者にならなかった理由に、バヒドが監督のとき、首都圏の選手が怪我で招集辞退しようとしたら「グループの一員として顔を見てミーティングに参加してほしいだけだから」とかいって強引に集めた挙句、トレーニングにも参加させて壊してクラブに返して、Jリーグサポのヘイトを無駄に溜めた事があった記憶がある。ああいうので味方を自分から減らしていたのはバヒド信者も認めないといけない。なんかバヒドや本田のキャラもあって、感情的な反発がいろんな所でバトルロイヤルしてたよね、今回は。

ところで個人的な解説者の好みは都並氏と宮澤ミシェル氏なんよね。元プロ選手ならではの経験的な個人戦術の話が好き。都並氏はスピードある選手の対処法とか数的不利の誤魔化し方とか微妙なスペースの消し方とかの説明が上手い。宮澤氏はコーナーキックが3本続いた時の不安感とか交代選手が入ってすぐのテンションのあげ方とか心理ゲームの説明が上手い。正直、戸田氏までいくと戦術的過ぎて情報過多かなと思う。素人の私には聞いていて情報が消化できない。

長友の立ち位置は面白かった。バヒド政権下で絶対的なレギュラーだったから監督と若手にもっと迎合しても良かったはずなのに、W杯予選辺りでも「ベテランが必要だ」的なコメントをずっと出してた。レギュラーであっても内心は「こんなサッカーじゃダメだ」と思っていたのか、クーデタを予期していたのか。どんな人なのかよく知らないので、政治に長けている人なのか、純粋に良い奴なのか。選手としての評価もよく分からない。インテルでの評価は、戦術的な神経戦になるビッグマッチでは使うのがちょっと怖い、だけど戦術的な事を抜きにすれば、その辺のイタリアのユースで育ったひ弱な子たちよりも運動量あるし1対1は強いしガッツもあるし、クラブの監督としてはフロントの思惑とは別についつい使いたくなっちゃう感じ?復権させたくなっちゃう感じ?

香川は面白くて使いにくい選手よな。潤滑油だけど決して縁の下の力持ちではない。出来るプレーは狭いくせに本人中心のチームを作ってあげないといけないけど、結果それで他のみんなも輝くんだからいいんじゃない。武藤講釈師が「敵陣の勝負どころで思い切り仕掛けてくれ。お前が、どこかの時間帯で無理をしなければ、この相手には勝てない」とつぶやいていたが、そういう無理をして輝くスタイルじゃないよな。チームに好循環を生んで5-0で大勝するときに3点目4点目をとるタイプ。

乾と武藤って、バヒドに干されそうだった点も含めて同じカテゴリーよね。戦術より自己判断し過ぎな感じ。しかし欧州感覚では同じカテゴリーなのに、日本では乾が「自分勝手、幼い」みたいな扱いで、武藤が「責任感がある、大人びた」みたいな扱いだったのは日本文化論的に面白いかもしれない。

吉田・長友・酒井宏とディフェンスラインに欧州リーグでやれている選手を3枚揃えられたのなんて奇跡なんだというありがたみが世間からあまり感じられなかったのは残念。吉田×ルカクとかそもそも日常の風景というか、選手の能力って全勝したり全敗したりするもんじゃないよね、勝ったり負けたりして当然の関係なのが逆にかっこいい。昌子と槙野はどっちが上とか下とかなくて純粋に監督の好みだろうなあと思うわけで、バヒドの言うことを信じれば上手くなるし、上手くなればレギュラーになれると信じて努力してきた槙野は気の毒だった。

そんなところか。

上川龍之進『日本銀行と政治 金融政策決定の軌跡』と鯨岡仁『日銀と政治 暗闘の20年史』

上川龍之進『日本銀行と政治 金融政策決定の軌跡』(中公新書、以下「上川2014」)と、鯨岡仁『日銀と政治 暗闘の20年史』(朝日新聞出版、以下「鯨岡2017」)を読み比べてみた。同じ時代の同じテーマを扱った本なのにネットで比較している人がいなかったので、書き残しておこう。 

日銀と政治 暗闘の20年史

日銀と政治 暗闘の20年史

 

  

日本銀行と政治-金融政策決定の軌跡 (中公新書)

日本銀行と政治-金融政策決定の軌跡 (中公新書)

 

 私は巷で評判の鯨岡2017を読んだ後、類書の存在に気づいて上川2014を読んだわけだが、上川2014を読んだ後でふと疑問に思った事があって鯨岡2017に戻った。鯨岡2017の巻末に載っている詳細な参考文献リストに上川2014がないんよね。ほとんど同じ分野の先行著作を挙げてないのは解せないと普通は思うところだが、今回に関しては解せる理由がある。

上川といえば、最新刊の『電力と政治』でも本書と同じように新聞の引用で通史を書いて、朝日新聞の記者に切れられていた。

【上川龍之進著『電力と政治ー日本の原子力政策 全史』】について(2018.5.15作成)

https://togetter.com/li/1227602

f:id:palop:20180717233427j:plain

新聞記者が切れているのをみて、学者様は「こいつ、何を文句言っているんだ、新聞屋は引用の要件も知らないのかよ」とバカにしていたが、いくら引用の要件を守っているからといってこんな風に事実関係をそのまま使われたら、新聞記者なら良い気はしないだろう。たとえば1930年代の昭和恐慌について当時の新聞記事を参考にしたとかならともかく、2000年代の出来事でこれをされるとなおさら。

おそらく鯨岡も上川2014を読んでムカッときただろう。それどころかむしろ上川2014を読んだことが鯨岡2017の執筆の動機なのではないかと思う。「俺の記事を丸写しして通史を書いているくせに、その事実関係が微妙に間違っているから読んでてイライラする」と。そして参考文献リストでは敢えてスルー。「そもそも元ネタ俺じゃん」。

上川2014では、はしがきでちゃんと目的を掲げてくれるのがいい。さすが学者。

本書は、一九九八年の日本銀行法改正以降の金融政策決定を軌跡を追うことで、日本銀行と政府・与党間の影響力関係を解明する。(中略)この分析を通じて、日本銀行はなぜ追いつめられたのか(中略)という問いに答える。そのうえで中央銀行と政治は、いかなる関係にあるべきか、中央銀行の金融政策は、どうあるべきなのかを考察することが、本書の主たる目的である。p.vi

これから日本銀行の本来あるべき姿がいかに政治によって捻じ曲げられたかを描写していくぞという宣言。

そして「終章 日本銀行はなぜ追いつめられたのか」でちゃんと考察してくれる。筆者が事実関係を離れて政治的な自分の意見をちゃんと述べているところも好感が持てる。

筆者は、日本銀行が政府・与党の言いなりになることは、短期的にはともかく、中長期的に見た場合、危険性が大きいと考えている。pp.273-274

アベノミクスについては野心的な実験と評する向きがある。筆者は、現実社会では実験的な政策はできうる限り行うべきではなく、大きな副作用をもたらす可能性のある、新しい政策の導入に際しては、検討を重ねたうえで、くれぐれも慎重に行わなければならないと考える。p.276

 それから政治学者のジョン・W・キングダンが提唱した「政策の窓モデル」(「修正ゴミ缶モデル」)p.259は勉強になった。本文ほとんどマルパクリでも終章はさすが政治学者様だから読んで損はない。

ただ、①現実社会で実験的な政策を行うべきではない、②日本銀行が政府・与党の言いなりになるべきではない、③アベノミクスのような間違った政策を行うべきではない、のうち筆者がどこに力点を置いているのかはちょっとよく分からない。というか本文を読むと、

速水は自らの信念通りに政策運営を行おうとした。政界からの不当な要求に対し、理論的には正しい政策判断を行ってきたつもりであった。p.146

福井は「経済理論としては正論でも国民に理解されない政策」ではなく、「筋は通っていないが国民の支持を得られる政策」をとることで、失墜した組織の評判を回復させようとしたのである。p.147

リフレ論者の認識は甘過ぎたと言わざるを得ない。

リフレ論者は、世界金融危機発生後、自らの認識の甘さを棚上げして、日本銀行への攻撃を強めた。

リフレ論者は、グリーンスパンを称賛した過去に頬かぶりして自らの議論には責任を負わなかった。

日本銀行はリフレ論者に広報戦で敗れてしまったのである。p.193

衆参両院の予算委員会では、FRBがイギリスのようなインフレ目標を設定したと認識した(日本銀行からすれば「誤解した」)与野党の議員が、「FRBと同様に、日本銀行インフレ目標を設定すべきだ」と白川に迫る場面が繰り返された。pp.222-223

 まあ、明らかにアベノミクスは間違っていると思っていて、日銀は正しかったと思ってて、でも政治学者としてそれをストレートに言いたくないから日銀と政府・与党の関係論に落とし込んでいるように読める。もっとも、金融政策の是非を判断せずに中央銀行と政治がいかなる関係にあるべきかを論ずるのは難しいのもわかる。

鯨岡2017、こちらのまえがきは、

日銀の政策決定プロセスについては、日銀の金融政策決定会合の議論だけを見るのではなく、「金融政策」「国内政治・政局」「通貨外交」を三位一体で描くことを目指した。政治家や官僚、さらには外国の政府や中央銀行の首脳の言動にまで広げて、関係者の証言を集め、事実を淡々と記録するように心がけた。p.3

そしてあとがき

本書の目的は、特定の政策を称賛あるいは断罪したり、是非を問うたりすることではない。政策が誰の手により提唱され、どのような力学で決められ、実行されていったのかを克明に記録することである。p.415

 たとえ今があるべき姿ではないとしても、そのまま記述しようじゃないかという現状追認ではある。新聞記者が現実をありのまま見ようじゃないかといい、学者が理想はこうあるべきだという。本来は逆なのかなと思わなくもないが、そうでもないか。

そもそも「経済理論としては正論」はあるのか。正しい金融政策はあるのか。リーマンショックのような事件があって世界全面株安になった時、日本だけ株安にならなかったとして、それは「正しい金融政策をやった日銀グッジョブ」なのか。いやいや、世界と運命をともにしようよ。協調政策をとろうよ。そういう話ではないか。財政ファイナンスは反則?もちろん。だが、米国もEUも日本経済がよくなるなら大目に見てくれるさ。円安誘導は反則?もちろん。だが、米国もEUも必要性はわかってくれるさ。そのかわり、米国やEUが困っているときは日本も自国の利益ばかり考えないで協調介入してくれよな。そういう話ではないのか。その辺の持ちつ持たれつを含めての日銀の役割ではないのか。だから、上川2014がいう政府・与党の言いなりにならない理想の日銀というのがいまいちピンとこなくて、「金融政策」「国内政治・政局」「通貨外交」を三位一体で描く鯨岡2017に肩入れしたくなる。

まあ、金融のことはわからないけど。

それから「事前報道ルール」の説明とか「政府高官」クレジット発言の説明とかはやはり学者より記者の方が上手いよね。

後は細かいネタを。

山本は言った。「自民党内でリフレ派と言えば、私や中川秀直先生だ。だが、残念ながら、我々はあまり人望がない。仲間を増やすために、人気のある人を取り込もうと思う」p.216

 山本幸三氏の発言。こういうのを読むと、政治家を好きになっちゃうよね。キャラクターが立って愛着がわいてくるというか。

甘利は白川から「とっても生真面目で、人柄の良い方だ」という印象を受けた反面、「『市場を動かしていこう』という迫力はないな」と感じていた。(中略)「米国のFRBの歴代議長のような、もっと良い意味で、ワルになってもらわないといけません。『デフレ脱却は絶対にできる』という顔をしてもらわないと困ります」と声をかけた。pp.280-281

 密談を見てきたように語るのは、実際甘利氏とサシでインタビューとかしてるのだろう。見てきたように会話を再現するのは学者様には禁じ手だから読み物としては不利になる。

民主党の支持母体である全国の造船や機械、自動車などの労組や中小企業をまわると、「この円高をなんとかしてくれ」という声であふれていた。日本企業の競争力は大きく低下し、日本経済は壊滅しかねないという悲鳴だった。民主党の地方組織からは、「このままでは選挙を闘えない」という悲痛な声が上がっていた。p.250

これが2012年9~10月の頃。前原経済財務相が偉かった頃。私はこういうの全然知らなかったから民主党政権はひどかった論があまりピンとこない。前原氏が政治的に終わったことで、井手英策先生も一緒にお払い箱になってしまったのか、そういえば。

余談だが、文中で経済財政相、金融相、財務相経済産業相と出てきて訳がわからんかった。検索して、経済財政相は昔の経済企画庁長官、大蔵省から財務省に変わるとき財務と金融が分離されて財務相と金融相が生まれたと分かった。財務と金融が分離したのに日銀の監督官庁財務省かよ、ますますわからん、みたいな。

政治家を生き生きと描いた鯨岡2017を補足するものとして、清水功哉『デフレ最終戦争 黒田日銀 異次元緩和の光と影』(日本経済新聞出版社)は日銀内部を生き生きと描いていて面白かった。総裁会見のライブ中継開始や議事要旨公表変更の舞台裏とか日経の記者はさすがに上手い事説明するなあと思った。

デフレ最終戦争 ―黒田日銀 異次元緩和の光と影

デフレ最終戦争 ―黒田日銀 異次元緩和の光と影

 

 

『ヒルビリー・エレジー』

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

アパラチアのティーンエイジャーには、自分にとって嫌なことを回避し、都合のいいことだけを採用するという「明らかに予測可能な抵抗性(レジリエンス)」が見られる点について言及している。p.44

 

愛情に満ちた安定した家庭が、子どもにいい影響をもたらすことは、社会科学のさまざまな研究によっても証明されている。(中略)「子どもの回復力(レジリエンス)」といわれる現象について書かれた本が、何冊も出ている。p.238

 

 おそらく原書では同じresilienceで、訳者が別の訳語を当てているのだろう。下の使い方が普通よな。上の使い方は皮肉よな。本来、予測不可能な困難に直面してから回復する力の事なのに「予測可能なレジリエンス」と名付けるのは、「それはレジリエンスやないやんけ!」というツッコミ待ち。

ヒルビリー育ちが米国社会で経済的に成功する方法」を描いた米国人が好きな成功物語なわけだが、祖父母みても母みても地頭(←問題ある表現だが)の良い青年に勉強するための環境を整えてあげたら成功したという話で、環境を整えてあげたらヒルビリーの誰でも成功するわけではない。遺伝か環境か問題は難しい。そもそもヒルビリーの人々が経済的に成功したがっているのかよく分からない。

「これがアメリカの繁栄から取り残された白人たちの生活だ!」みたいなのを期待して読むと、ちょっと裏切られるかな。