パロップのブログ

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社会党のマドンナ旋風'89

なぜ我々団塊ジュニア男は、経世会的なものが嫌いなのか、自分達に不利に働くと分かっていても新自由主義的なものに親近感を抱くのか、余り語られていないと思う。そもそも我々にとっての政治的原風景、すなわち社会へ関心を示し始め、社会的な動物になっていく中高生だった頃に接した政治的情報は、1988年のリクルート疑惑から93年の金丸信逮捕辺りまでだろう。マスメディアから「政治家は悪人だ」「素人感覚万歳」というメッセージを刷り込まれ、そしてその後に起こった政治の展開を受けて深層心理に残ったのは「竹下金丸はろくでなし」「かといって主婦感覚もプギャー」だったのかもしれない。ただ、正確な事実関係を知らないまま、新聞やテレビから流された俗流政治談義の影響を受けっぱなしというのも情けないので、思春期の呪縛を解くために、まずは89年に発生した社会党マドンナ議員を調べた。とりあえず、ウィキペディアに載っている選挙結果から女性名を抜き出し、その名前を検索するという原始的な手法をとった。それだけだと「ネットがソースかよ」と笑われそうなので、図書館まで行って関連がありそうな本にざっと目を通した。大下秀治『小説土井たか子〜山が動いた』(1990/1)、日本社会党中央本部機関紙局『資料日本社会党50年』(1995)、日本社会党50年史編纂委員会『日本社会党史』(1996)、別冊宝島Real『社会党に騙された!』(2003/12)、山口二郎編『社会党 戦後革新の思想と行動』(2003/10)辺り。
89年のおおまかな流れは、4月に消費税導入、6月22日に国会閉会と都議戦告示、25日には参院新潟の補欠選で社会党大渕絹子氏が初当選、7月2日の都議選三井マリ子氏(杉並区)ら社会党候補が大勝、3日に社会党参院選比例区の名簿発表、5日に参院選公示、23日に行われた参議院選挙で大勝して宇野内閣退陣、この辺りまでが消費税の風。翌90年2月16日に行われた衆議院選挙でも社会党大勝(といっても中選挙区制なので非自民枠を民社・公明から奪っただけ)、6月10日の参院福岡の補欠選でも社会党の三重野栄子氏が初当選、91年3月18日に統一地方選挙(前半)告示、4月7日と21日に投票で社会党が敗北、6月21日に土井辞意(ブーム終了)。反消費税ブームが1年と少しで切れた後、社会主義陣営の崩壊とイラク戦争によって逆風が吹いた感じ。
大下本は、土井の半生が描かれた部分は公式本の引き写しらしく大した証言はないが、リアルタイムで追ったのだろう89年の活動部分は面白かった。特に小沢一郎が全力で社会党ブームを潰しにいった参院茨城補選(1989/10/1)の話とか。参院選は結果だけで、マドンナ候補の具体的な活動等は全く出てこないのが残念。発行が90年1月ということで、ラストシーンは89年暮れに、公明石田、民社永末、社民連江田、社会土井、連合山岸の会食しているところ。「衆院選では社会党だけが一人勝ちしてはいけません」などと協議しているが、結果的に不安的中となった。他にも田辺・金丸ラインとか小沢・市川ラインとか後に自分も知ることになる政党順列組み合わせ政権の萌芽を知る。文春のパチンコ疑惑、警察庁の平沢保安課長によるパチンコ利権の話なんかも含め、いま2ちゃんで見かける「パチンコ=総連=社会党」図式のコピペ元は、この頃にあった週刊文春によるネガティブキャンペーンだったことも分かった。
社会党の党是のうち、反自衛隊、反安保、反原発は判るが、日本の右肩上がりの経済成長にも否定的だったとは知らなかった。たしか消費税廃止案の代案は「経済成長による税収の自然増」だった記憶があるのだが、整合性が掴めない。社会党の現実化路線への転換努力は土井氏の前の石橋氏(86〜87年辺り)から始まっていたようだが、世界が新自由主義とグローバリゼーションに覆われるタイミングで現実の方へ舵を切ろうとしたのは、後世からみるとセンスに欠ける。むしろ農産物の自由化などの政策課題で、現実主義者から白い目で見られても内向きの姿勢を取り続けていたら、今頃は反グローバリゼーションの政党としてその存在が活きていたかもしれないと思った。
社会党が細川内閣に参加していた93年12月14日に発表されたコメ部分開放に関する社会党見解では「われわれのこれまでの方針に照らせば反対」だが「連立政権に参加する立場から首相の判断を了とせざるを得ない」とあった。94年1月21日の参院本会議では、政治改革関連4法案が与党社会党から17人の反対者、3人の欠席者を出して否決、村山党首が与党仲間に謝罪。2月28日には造反組田英夫や国弘正雄が「護憲リベラルの会」を結成。ずるずると党是を捨てたあげく、数カ月後の福祉目的税の導入でとうとう党として堪忍袋の緒が切れるわけだが、与党化・自由主義化への妥協を重ねることに反対する者を切り捨てて分裂までして社会党が得た果実は何だったのだろうか。
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以下、マドンナ参院議員をざっとさらう。漏れや間違いがあるかもしれないし、当時の実感とは違うかもしれないけれど、ネットに漂う資料くらいにはなるだろう。
衆議院土井たか子(どいたかこ)1927年11月30日生まれ。憲法学者。69年に衆議院(兵庫2区)へ初当選、86年に党委員長、91年に辞任、96年に社民党党首、2003年に辞任、05年に衆議院落選。
〔千葉〕糸久八重子(いとひさやえこ)1932年3月22日生まれ。派閥は政権構想研究会(右派)。81年の補選で日本社会党から出馬して落選、83年に初当選、89年に再選、95年に引退。著書に『育児休業法〜四党共同法案と欧州諸国の法制』(労働教育センター、1990年10月)。
〔愛知〕前畑幸子(まえはたさちこ)1937年生まれ。税理士。86年に日本社会党から出馬して落選、89年に初当選、92年11月にシリウスへ転籍、95年に無所属で出馬して落選、98年に民主党から比例区(名簿第19位)で出馬して落選。
〔岡山〕森暢子(もりのぶこ)1932年生まれ、英語教育者で画家。89年に日本社会党から出馬して初当選、95年に日本社会党から出馬して落選、98年に日本社会党から比例区(名簿第7位)に出馬して落選。
〔高知〕西岡瑠璃子(にしおかるりこ)1934年生まれ、NHK労組委員長(?)で歌人。89年に日本社会党から出馬して初当選、94年3月の小選挙区法に青票を投じて除籍(?)、95年に無所属で出馬して落選、98年にも無所属(日本共産党と共闘)で出馬して落選。
〔長崎〕篠崎年子(しのざきとしこ)1918年生まれ。89年に日本社会党から出馬して初当選、95年に引退。
〔北海道〕竹村泰子(たけむらやすこ)1933年生まれ。市民運動家。1983年に日本社会党推薦で衆議院(北海道1区)に当選、86年に落選、89年に日本社会党推薦で初当選、95年に比例区(名簿第5位)で再選、民主党へ移籍して2001年に比例区から出馬して落選。
比例名簿第2位〕久保田真苗(くぼたまなえ)1924年10月6日生まれ。83年に比例区(名簿第2位)で初当選、89年に比例区で再選、95年に引退。宇野首相の女性問題を追求して名を馳せる。細川内閣で経済企画庁長官。著書に『消費は毎日の投票―地球時代の女性と政治』(日本社会党中央本部機関紙局、1995年)等。
比例名簿第4位〕日下部禧代子(くさかべきよこ)1935年11月2日生まれ。福祉関係の学術畑を歩む。89年に比例区で初当選、95年に比例区(名簿第1位)で再選、96年1月〜11月まで橋本内閣で文部政務次官、2001年に自治労組のバックアップがなくなったため(参考http://www.i-press.co.jp/wind/00_1004.htm)引退。著書に『生きることのフィロソフィー〜女性と福祉と教育と』(日本評論社、1985年)『年輪とダイヤモンド〜人生80年時代を生きる』(全国社会福祉協議会、1986年)等。
比例名簿第9位〕堂本暁子(どうもとあきこ)1932年7月31日生まれ。TBSで記者・ディレクター。89年に比例区で初当選、94年12月に新党さきがけへ転籍、95年に比例区(名簿第2位)で再選、96年にさきがけ議員団座長、98年7月の参院選後にさきがけが事実上解党して無所属の会へ、2001年4月に2期目途中で知事に転身、05年3月に再選。
比例名簿第12位〕清水澄子(しみずすみこ)1928年3月1日生まれ。56年「福井県働く婦人の会」結成に携わったのち日本婦人会発足に参加。89年に比例区で初当選、95年に比例区(名簿第8位)で再選、2001年に比例区(非拘束名簿)へ社民党から出馬して落選。著書に『手さぐりの女性解放』(日本婦人会議中央本部、1983年)。
比例名簿第15位〕肥田美代子(ひだみよこ)1941年生まれ。童話作家で薬剤師。89年に比例区日本社会党から出馬して初当選、95年に比例区(名簿第10位)へ日本社会党から出馬して落選、96年の衆院選大阪10区)に民主党から出馬して近畿比例区で初当選、2000年の衆院選大阪10区)へ出馬して近畿比例区で二選、03年の衆院選大阪10区)へ出馬して小選挙区で三選、05年9月の衆院選大阪10区)へ出馬して小選挙区比例区とも落選。著書多数。
比例名簿第20位〕三石久江(みついしひさえ)1927年生まれ。89年に比例区で初当選、92年11月にシリウスへ転籍、94年に小選挙区制へ反対して会派「護憲リベラルの会」へ、95年に引退。
〔新潟補選〕大渕絹子(おおふちきぬこ)1944年11月12日生まれ。志苦裕(86年当選)の欠員に伴って行われた1989年6月25日の補選で当選、1992年7月に再選、1998年に三選、2002年10月に社民党離党を表明(同年11月に同党を除名)して無所属に、03年9月24日の民主党結党に合流、04年は出馬せず引退。
〔福岡補選〕三重野栄子(みえのしげこ)1926年5月10日生まれ、旧姓堤、54年より組合活動、62年に日本社会党入党、83年に筑紫野市議に初当選。小野明(89年当選)の欠員に伴って行われた1990年6月10日の補欠選に日本社会党から出馬して初当選、1995年に再選、2001年に社民党から出馬して落選。

『資料日本社会党50年』に載っている当時の新聞記事を読むと、比例区は(2)久保田、(4)日下部、(9)堂本暁子までが目玉の女性候補で、それ以下は党自身も当選するとは思わないで並べた所謂「杉村太蔵」だったようだ。
89年と90年の補選は一見マドンナ旋風のようで社会党が空けた欠員を社会党で埋めているのだから、票読み的には順当で、「旋風」は単なるマスコミ煽りのような気がする。
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一口に社会党女性議員といっても、社会党・労組直系、革新系女性問題の在野学者、どの政党から出馬しても構わなかった野心家など出自は様々で、ひと括りにしてはいけない。時間があれば、各々の議員さんが議会でどんな質問をしたのか議事録を読んでみようと思うが、ざっと検索したところでは、皆が皆福祉や環境系の委員会に属していたわけではなく、総務だったり外交だったりもいて、当たり前だけど個性がある。大雑把には、94年の選挙法採択の際、連立与党の“政治家”として賛成票を投じた人と、自らが信じる民主主義の原理に殉じて反対票を投じた人で、袂を分かったように見える。始めから政治への野心ギラギラだった人はともかく、89年に泡沫候補だった素人が政治の世界に巻き込まれ、辞める6年後には政治地図が一変して社会党の存在も危うくなったのだから、リアルタイムでは大変でも終わってみれば面白かったと思うので、是非その体験を書き残して欲しいと思う。