パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ハイビジョン特集』「シリーズ青春が終わった日」

「ぼくもいくさに征くのだけれど〜竹内浩三 戦時下の詩と生」2007/7/22初回放送、90分、出演:柄本佑尾上紫、撮影:夏海光造、構成:中村結美、取材:桑原一仁、ディレクター:正岡裕之/佐藤直子、プロデューサー:小林ひろ子、制作統括:大野了/大門博也、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHKかわうそ商会
戸井十月インタビュー・ドキュメント 全共闘 それぞれの「決着」」2007/7/23初回放送、90分、撮影:佐藤利明/西徹、取材:金原伸介/石井大介、プロデューサー:宮崎和子、ディレクター:田中直人、制作統括:渡辺庸治/鳥本秀昭、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHKテレビマンユニオン
「バブル鎮魂歌〜ダンスフロアに消えた青春」2007/7/24初回放送、90分、出演:谷村美月、撮影:平松伸浩、取材:荻野達也/本井雅美、ディレクター:源孝志、プロデューサー:槙哲也、制作統括:大墻敦/川崎直子、制作・著作:NHKホリプロ、共同制作:NHKエンタープライズ

竹内浩三編は、浩三の再現ドラマと、浩三を演じる柄本が浩三の詩や遺族の証言を聞いて感じたことをカメラの前で話すドキュメンタリーの部分をメタっぽく重ねて、「戦時下の20歳の言葉を現代の20歳がどう感じるか」を表現しようとする面白い試みがされている。見ている30歳のおっさんは「対象視聴者に入っていないんだな」と置いていかれた気もしたが、面白いのは面白い。しかし柄本及び彼に同行する映画学校の女性2名の3人から発せられる感想がありきたりなので、あまり試みが成功しているようには思えなかった。そのうちに俳優が素の自分に戻って感想を言うドキュメンタリー部分もディレクターが仕掛けた台本があるのではと思うくらいの予定調和。たとえば自分がパッと思ったことを書くなら「自分らの体育の授業にも行進の練習とか組体操とか戦前の名残りみたいな意味不明なのあったよね。そんで列を乱した男子とか体育の先生に『ふざけんなあ〜』とか言ってボコボコに殴られるの」「戦前の軍事訓練とか問答無用で殴られるのかと思ったら、浩三は教官も呆れて殴られなかったんだって。実は戦時中の方が個性とか認められてたんじゃないの」「システムは若者を容赦なく戦場へ送り込むけど、システムを末端で動かす人々の顔は見えた。戦後民主主義システムは自由だけど、システムをとりまく先生も生徒ものっぺらぼう」とか、もっとディレクターを挑発するような発言はなかったのだろうか。また、3人の感想として「浩三さんは借金して失恋して今の私達と変わらないよね」「出征しても隠れて日記を残したりしてすごいよね」みたいのもあったけど、そこにも違和感があった。金の無心にユーモアたっぷり、失恋の嘆きにもユーモアたっぷり、平時を「表現者」として自覚的に生きていたからこそ、戦時になっても自分を自分として生きることが出来たのでは。その辺りの浩三の強さをうまく描けてなかった気がした。もちろん、その辺りの物足りなさこそが「20歳が20歳を知って感じる」という作りなのかもしれないし、制作者の狙いなのかもしれないが。
全共闘編は、放送前の仮タイトルが「900番教室の2時間半〜三島由紀夫VS東大全共闘」だったのでちょっと歴史秘話だと思って期待していたのに、全然違う内容になったのは残念だった。まあ論戦の内容は『討論三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘』という本を読めということなのだろう。ざっと検索すると論戦は頭の良い人達同士による抽象的で難しい内容だったらしいし、映像化しても多分面白くない。なので、戸井氏と全共闘7人との対話集という形で良かったのだろう。当時の事実と「当時のことを今はどう考えているか」という現代性の両方をうまく盛り込んでいたし、非同時代人としては、68年6月〜69年5月までの流れがおおよそ分かっただけで充分。番組構成的には、10年くらいにETVで見た記憶があるシカゴセブンのドキュメンタリーに似ている。あの時どんな役割をしましたか、今どんな風に暮らしていますか、当時の行動をどう整理していますか、等々。個人的には7人の1人、船曳鴻紅さん(←Wikiに項目もある有名人だった)が今年開いたという第二外国語クラスの同窓会を取材したら面白かったのにと思った。船曳さんは名簿を引っぱり出して疎遠になった同級生へ連絡したという。全共闘に参加していなかった人は船曳さん達をどう見ていたのかとか聞きたかった。余談だが、エンドロールの文字が小さくて読み取れなかったので、上に書いたクレジットが間違っていても制作者の責任。
バブル編は、放送前の仮タイトルは「ターンテーブルの向こう側で〜DJが見たバブル・うたかたの夢」だったが、DJ風情でドキュメンタリー1本作るのは無理だったのか、黒服/DJ/お立ち台ギャル/アッシー等、当時の登場人物総登場であの頃を語る。制作者には申し訳ないけど、率直に言ってこれはちょっと出来が悪過ぎるのでは。民放バラエティの再現ドラマかと思った。たとえば明治期とか昭和初期とかの出来事ならば、何の新解釈も批評性もなくとも知られざる事実を発掘しただけで一応のドキュメンタリーにはなる。しかしつい20年前のこと、しかもメディアが発達した現代、数年前のことがすぐ陳腐化する時代とはいえ、調べれば映像でも文字情報でもいくらでも残っている近過去のドキュメンタリーで、当事者に集まってもらって当時のエピソードを聞くだけとか、なんじゃそりゃ。時代に乗れなかった(乗らなかった)おっさん達の鼎談も「よくは知らないが、雑誌やテレビで見た記憶を総合すると、ディスコは(偏見や僻みも含めて)こんな風に見えていた」という妄想語りに過ぎないし。番組の最後で形だけ「あなたにとってバブルとは?」みたいな質問をしているけど、そりゃあ「面白かったねえ」くらいしかかえってこないのも道理。当事者へのインタビュー中に出来事・エピソードしか聞いていないのだから、それ以上の思索が深まるわけもない。それから番組の体裁として10代の女の子が親に向かって「バブルって何だったの?」という質問をしているのだから、当時のことを知らない人に向けて説明している風に作らないと。「みんな覚えているから、大体ニュアンスで分かるよねえ」って作ったらダメじゃん。「アッシーとは車で送迎しても、やらせてもらえなかった男のこと」ってちゃんと説明する気がないなら、最初から番組作るなよ。素人の私が気付かないだけで、表現者としてのメッセージがあったのならマジで教えて欲しい。まさか谷村さんが最後に言った「楽しかったのなら『楽しかった』と素直に言おうよ」みたいなのがメッセージじゃないよなあ。バブル世代の制作者が同世代に贈る自己肯定讃歌じゃあるまいし。