パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『Nスペ』「インドの衝撃」シリーズ

第1回:わき上がる頭脳パワー、ディレクター:天川恵美子、制作統括:深野淳子
第2回:11億の消費パワー、ディレクター:高木徹、制作統括:岩堀政則/広瀬公巳
第3回:台頭する政治大国、ディレクター:山本出、制作統括:安川尚宏
『Nスペ』に関しては、視聴者もネット情報も溢れているので自分がスタッフを記録することもないだろうと思い、実際第1回は流し見して終わりだったのだが、第2回に思わず引き込まれたので、エンディングでディレクターを確認すると高木氏だった。高木氏は自身が制作したドキュメンタリーを書籍化した『戦争広告代理店』『大仏破壊』で知られているが、だらだら流し見するつもりだった人間の気を逸らさせない構成は見事としかいいようがない。明日(2月12日)深夜24時から第2回の再放送があるので、暇なドキュメンタリー好きは是非御覧頂きたい。

先日、NHK番組改編訴訟の控訴審判決があった。一般的には編集権や期待権に注目が集まったようだが、個人的にはニュース番組とドキュメンタリー番組/教養番組を別物としているのが気になった。判決要旨は報道等で読んだだけだが、朝日新聞によると「ニュース番組とは異なり、本件のようなドキュメンタリー番組または教養番組では、取材対象となった事実がどの範囲でどのように取り上げられるか、取材対象者の意見や活動がどのように反映されるかは取材される者の重大関心事だ」、毎日新聞だと「ニュース番組と異なり本件のようなドキュメンタリー番組などでは「特段の事情」がある場合、編集権より取材対象者の番組への期待と信頼が法的に保護されると1審と同様の判断を示した」、読売新聞だと「判決は、放送事業者の「編集の自由」について、「取材対象者から不当に制限されてはならない」とする一方、ドキュメンタリー番組や教養番組については「取材経過などから一定の制約を受ける場合もある」と指摘」とある。自分の推測に過ぎないが、この裁判長の中で「ニュースとは当事者が嫌がっていても無理矢理撮影して世間に伝えるべきもの」「ドキュメンタリーとは撮影者と被撮影者が長期に渡って人間関係を作って共同作業の中で作られるべきもの」なんだろう。
確か森達也氏が著書の中で「興味を持った対象に取材を申し込み、最初はうまく撮影が進んでいたのに、段々と森氏が撮りたい所と対象者が見せたい部分にずれが生じることで険悪になり、結局撮影は中止し、相手の了解が得られないから放送もしなかった」という話を書いていた記憶がある。対象にカメラを向ける行為の加害性については森氏もよく言及するが、さて「インドの衝撃」はニュースなのかドキュメンタリーなのか。

「11億の消費パワー」のラスト辺りで、中産階級のインド人女性が新しくオープンした西側風スーパーチェーンで買い物し、カメラに向かって「買い物すると気持ちがすっきりするんです。買い物最高!」みたいなことを言うシーンがある。見た日本人は「資本主義に毒されちゃっているなあ」「高度経済成長時の日本が歩んだ道と一緒だ」「古き良きインドが失われていくのか」辺りのあまり肯定的でない感想を持つだろう。しかし、コメントしたインド人女性にしてみれば、ちょっと買い物をして楽しんだだけなのに、遠い日本から“贅沢に目が眩んだ可哀想なインド人”扱いされるのは心外だろう。「インドに大型スーパー開店」というニュースに使用されるのかと思ったら、60分間のドキュメンタリーの締めくくりにインドの変化を象徴する言葉として使用された。これがドキュメンタリーであるならば、期待権を侵害しているといえるかもしれない。
斎藤貴男氏は『戦争広告代理店』の書評で「本書には致命的な欠陥があると指摘せざるを得ない。戦争をビジネスにするPR業者に対する怒りの欠落だ。彼らをともすれば賞賛し、日本も見習おう的な視点さえ散見された。取材先への一定の配慮はやむを得ないにせよ、許容範囲を超えている」と書いているらしい(孫引きなので間違っていたら申し訳ない)。自分は『戦争広告代理店』も『大仏破壊』も読んでいないが番組の方は見た。なので斎藤氏が言いたいことは何となくわかる。高木氏は世界をありのままに把握したい欲求がある人なのだろうと思う。「世界は興味深い情報の集積」といわんばかりに様々な人やモノを素材として取材し、それを神の視点から俯瞰する。「インドの衝撃」にしても、貧困層への同情や貧富の差に対する怒りはなく、「最近のインドってこんなだよ」という事実の提示だけがある。パレスチナイラクで貧しい人々に寄り添いながらドキュメンタリーを作っている人達からみれば「こんなのはドキュメンタリーではない。単なるカメラの暴力だ」というかもしれない。
高木氏にしてみれば「告発だの怒りだのいう前に、まず知られていない事実を掘り起こすことが大事ではないか」といった反論があるかもしれないし、心の中では取材対象に対して様々な感情が生まれているけど、ディレクターは感情を作品にこめるべきではないというポリシーがあるのかもしれない。視聴者の方にも「中立公正に新たな事実を伝えてくれた方が良い」という意見があるかもしれない。自分も基本的にはカメラの暴力をエンターテイメントとして楽しんじゃうろくでなしだが、その自覚を持ちつつ、またニュースとドキュメンタリーの違いも意識しつつ、いわゆるTVドキュメンタリーを見ていきたい。
(2/12追記)再放送を見たので、一応ラストシーンを正確に書き起こす。本当は顔や声の表情まで描写しないと意味ないのかもしれないが。

消費の楽しさを知ったその心の変化は、もう後戻り出来ないところに来ています。
夫「買い物をするといい気分になるんですよ。仕事に疲れた時、元気が出てくるんですよ」
妻「買い物は本当に幸せにしてくれるものです。気持ちが落ち込んだ時は、思いっきりお金を遣い、すっきりするまで買います。私にとってこれほど楽しいことはありません」


高木氏の著書を読んだ。

「バレンタイン流マネジメント」の逆襲

「バレンタイン流マネジメント」の逆襲

内容は10数年まともにプロ野球を見ていない自分でも面白く読める本だが、その中にちょっと面白い文章があったので以下に引用する。

番組冒頭のVTRは、その番組を見ようかどうか迷っている視聴者に、このまま見続けようと思ってもらえるか、ほかのチャンネルにザッピングされてしまうかを決める重要なものだ。視聴率の一分毎のグラフを見ても、この最初の一、二分で上昇するか、落ち込むか、落ち込むにしても最低限にとどめるか、大幅に落ちてしまうかでその番組全体の視聴率がおおよそ決まってしまう。〔P.120〕

高木氏の意識が高いのか、それとも今時のTVドキュメンタリー制作者は皆同じようなことを考えているのか、はたまた映像作家とは視聴率競争など無かった昔から視聴者を引き付けるためにあらゆるテクニックを駆使したものなのか。