パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

DVD『万才! フットサル』

116分、2005年、ディレクター:務中基生、撮影:務中基生/水野博章(GOIS)/末広哲士(GOIS)/宮崎ススム/山口巧(多分UFG)、編集:林信尊/小林哲夫、制作協力:ゴイス(株)、制作進行:水野博章/山口巧、プロデューサー:橋本慎/宮崎ススム/末広哲士、エグゼクティブプロデューサー:山崎/瀬戸/不破
「ドキュメンタリー」とは、一般的に思われているような「客観的な事実の集積」ではなく、表現行為の1形態である以上、ドキュメンタリーで最も大切なのはディレクターの主観である。被写体に向ける観察者の視点に主張がなければ、ドキュメンタリーとは呼べない。過去の貴重な史料映像を編集しても、余程の天才でない限り、ドキュメンタリーにはならないし、コンビニにある防犯カメラの映像をそのまま流してもドキュメンタリーにはならない。さて、18カ月間にわたって芸能人フットサルチーム・ガッタスを追ったこの『万才』は、真の意味でドキュメンタリーと呼べるだろうか。
『万才』には多くの欠点がある。映像の使用を認めた対戦相手がカレッツァだけだったからといって、芸能人フットサルの初期に遡ってまでカレッツァとのライバル関係をことさらに強調するのはミスリードだし、もっといえば試合の映像も必要ない。勝敗の分かれ目を選手の能力ではなく、気持ちの強さ弱さに収束させる世界観も陳腐だし、「アイドルなのに本気」である事を連呼したナレーションも陳腐。だが、こうした要素は商業上の要請によるものであり、ディレクターの能力に由来するものではない。
そうしたハンデを除いたとしても、この作品のほとんど9割は、アイドルとしての魅力が発揮された選手の映像と、下らない質問にも「で?」などと答えたりは決してしない、カメラの前で話すことが仕事であるアイドルへの義務的なインタビューシーンで構成されている。ディレクターはアイドルのプロモーションビデオとして必要最小限の仕事を果たしているだけである。典型的な芸能事務所に雇われただけの「お仕事」であるといえる。
しかし、その中でディレクターが自分の意思で積極的に物語で介入しているシーンが1箇所だけある。それは柴田が北澤監督に相談するシーンである。そのシーンの前に、斉藤が北澤監督に相談し、涙を流し、吉澤キャプテンに励まされるシーンがある。話の流れからして、これは意を決した斉藤が自主的に起こした行動であると推測出来る。しかし、柴田のシーンはどうだろう。柴田の北澤監督に対する問いかけの内容は、何か答えをもらうために具体的な疑問をぶつけている感じではなく、質問する柴田も手探り状態。柴田の表情からは「自分は胸の内に溜め込んでおくタイプだけど、ディレクターの要請で仕方なく言わされている」感が伝わってくる。逆に、柴田は北澤監督との対話が終わった後、カメラ(ディレクター)に向かって「ありがとうございます」と言っているが、これは「仕方なく言ったけど、結果として胸のつかえがとれた」事に対し、きっかけを与えてくれたディレクターに感謝しているのだろう。これらの映像から、恐らくディレクターは柴田に対して「さっき斉藤さんが北澤監督と話してたよ。最後は吉澤キャプテンと話して気持ちがすっきりしたみたいだよ。柴田さんも心に何か引っかかっている事があるんだろ。思い切って北澤監督に話してみれば?」という誘導をしたのではないだろうか。行動を促す事で化学反応を期待する行為。これは「今日は個別のインタビュー撮りなので、皆さんよろしくお願いします」と義務的に指示を出すのとは全然違う。
ドキュメンタリーにおいて、演出側が台詞を用意してカメラの前で言わせるのはもちろん反則であるが、前述したように、ドキュメンタリーが表現者の主観を問うものである以上、ディレクターは被写体の心を揺さぶり、被写体の物語へ積極的な介入をするべきである。というか被写体とディレクターとの関係性が物語に反映されていなければ、ドキュメンタリーと呼べない。当然、ドキュメンタリーを制作する上でもっとも難しいのは、取材者と被写体の間に信頼出来る関係性を生む事にある。初対面の一般人(例えば甲子園に出る高校球児など)を取材しに行って「カメラは意識しないで、いつも通り自然に振る舞ってください」或いは「私に何でも思っている事を話してください」と言っても、無理なのは言うまでもない。
柴田のシーンは、目の前のフットサルに関する相談事であると同時に、本人の芸能仕事の方向性にも関わる事だし、生き方の悩みに繋がる部分もある。柴田も心の中では「そんな個人的な事をカメラの前では話したくない」と思っていたかもしれないが、その反面、芸能人とは自分の人生をカメラの前で切り売りする事を商売にしている人間でもある。そう考えると、一般人よりも信頼関係を築く時間と手間を省く事が出来、半強制的な義務としてカメラの前で語らせる事が出来、尚且つ、大衆に与えたいイメージが先にある大スターでもない柴田クラスのB級アイドル柴ちゃんゴメン)は、ドキュメンタリーの素材として最高なのではなかろうか。
エンドクレジットによると、『万才』を作ったのはゴイスという独立系制作会社に発注したもののようである。会社のサイトを見ると、これまでにハロプロ関係のライブDVDやPVを作っている。但し、本作品のディレクターの名前は、検索してもほとんどヒットしない。まさか一般人でもないだろうし、ゴイスと繋がりのあるフリーのディレクターかカメラマンなのだろう。恐らく制作プロジェクトの責任者として、ガッタス初期から練習風景を撮影し、そのほとんどは「雇われ仕事」と割り切って淡々と撮影していたのに、この柴田のシーンだけはドキュメンタリー作家の性として積極的に介入してみたくなったのではないだろうか。そんな推測をしてみる。
結論をいえば、たとえ柴田のシーン1箇所のみであっても、それで等身大の20歳前後の女の子を描いた立派なドキュメンタリーとして充分成立している。これで、たとえば最終シーンを感動の勝利ではなく、勝利を喜びながらも個人として活躍出来なかった斉藤と柴田の少し複雑な表情で締めるなどして、徹底的にこの2人のドキュメンタリーにしてしまえば、商売品とは別物で、ドキュメンタリー映画祭にだって出せるはずだ。大体、アイドルをしているめっちゃ可愛い20歳前後の女性、しかもカメラに対して怖じ気づく事無く語ってくれる女性に、18カ月も密着して、尚かつ制作費の捻出に苦労するどころかギャラが出るんだから、世の中の貧乏ドキュメンタリー制作者が聞いたら、羨ましい限りの話ではないか。それでもし薄っぺらい作品しか完成しなかったら、それは2人の人間性が薄っぺらいのではなく、芸能界フットサルが薄っぺらいのでもなく、ディレクターの才能が薄っぺらいのだ。こりゃ、ディレクターズカットが見たくなってくるぜ。
『万才』を見てフットサルに興味を持つ人はほとんどいないだろうし、『万才』を見てハロプロに興味を持つ人もほとんどいないだろうから、商品の購入ターゲットはあらかじめフットサルとハロプロの予備知識を持っている極めて狭い範囲の人間のみだといわざるを得ないが、それでも敢えて「これはドキュメンタリーだ」と叫びたい。(続くつもり)
※我が家はテレ東系帯番組が見られないので、ガッタス映像について知らないものは沢山ある。よって的外れの事を書いている可能性は充分にある事を付け加えておく。
万才 ! フットサル [DVD]