パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ユマニチュード入門』

 
ユマニチュード入門

ユマニチュード入門

 

 

技法の具体的な例はなかなか面白いが、結局は“これは選択の問題であり、ケアの優先順位の問題なのです。選択には常にリスクがともないます。リスクをとることを許さない社会であってはならないとわたしは思います”(p.101)に尽きるかもしれない。日本はリスクチャレンジに寛容な社会だったっけ?続編は『ユマニチュード応用編(訴訟編)』とか。

こないだ「君が僕の息子について教えてくれたこと」っていうドキュメンタリーを見たが、自閉症の息子とコミュニケーションがとれないで苦しむアイルランド人パパが辛そうだった。近代西欧思想の「大人と子供は違う」「子供は保護される一方で教育を通して大人にすべき存在」「コミュニケート出来ない存在はもはや人間とは呼べない」に割と連なっているように思えるユマニチュード思想の人間観に対して、たとえばALS方面からの批判とかあったら読んでみたい。

一介の底辺介護労働者として言えば「ファストフードに来て料亭の接待を期待している」感はある。私は福祉の心を持っていないので、いわゆる問題行動も逆に「このアクションにはこんなリアクションなんだ、ギャハハ」と楽しめる方だし、本書のような「心なんてなくても振る舞いで伝わります」という技術マニュアルは大歓迎だけど、大切に思っていない人に「あなたのことを、わたしは大切に思っています」というメッセージを発信するのってかなりの感情労働で、その対価はちゃんと払われているのかなかなかな~。好きでもない人の目を見つめるのって、意外と疲弊するよ。社会から落ちこぼれたコミュ障でも就職できる介護業界の良さが失われてしまうよ!(冗談です)

 

冗談はともかく、コミュ障が何故コミュ障なのかっていうと、世間コミュニケーションの9割はルーチンや定石で成り立っているのに、元々センスも経験もない人間が「ぼくのかんがえたさいこうのコミュニケーション」を自己流で通してしまって、それが周囲と溝を生んでますますコミュ障になる悪循環に陥るからだと思っている。ドレスコードが分からないならマネキン一式買って着ればいいのに、必死で考えて自己流で着た結果余計に周囲から浮いた服装になるみたいな。そうやって社会の吹き溜まりたる介護業界にやってきたコミュ障がユマニチュードに出会って「あなたを大切に思っていますと伝える人類共通の技法があるんだ」と気づくのは実は革命かもしれない。「ぼくのかんがえたさいこうのコミュニケーション」を捨てて、人類が大体共有しているアイコンタクトの仕方とか不快感を与えない手の触れ方があるんだ!という発見。同時にコミュ障は基本的にマニュアルが嫌いだけど、ここで成功体験をする事で、分からない時には必死で下手な考え休みに似たりをするよりも、賢い先達がまとめたマニュアルを真似すれば社会・世間とうまくコミュニケート出来る事にも繋がるかもしれない。介護労働者から編集部に「ユマニチュードで友達が増えました!」「ユマニチュードで彼女が出来ました!」というお便りが続々と!(冗談です)