パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

堀川Dによる永山則夫

7月11日(日)にETVで再放送があるので、宣伝の為に間に合わせてみた。6月28日にNHK-BS2で放送された『ザ・ベストテレビ』での堀川Dと大林宣彦、相田洋、森達也各氏とのやり取りがとても面白かったので書き起こしをしようかと思っていたが、間に合わなかったのでいずれ練習も兼ねて動画をユーチューブにでもあげてみようかと思っているが、あげたところですぐに削除されるかもしれない。(7/18追記:とりあえず上げてみた)(10/29削除されました)


ETV特集』「死刑囚永山則夫〜獄中28年間の対話」
2009/10/11初回放送、90分、撮影:山崎裕、ディレクター:堀川惠子、制作統括:宮田興、制作・著作:NHK
『創』2010年6月号に掲載された堀川Dの制作手記が立ち読みしたが、もともと光市事件から永山基準に興味を持って…、という流れで死刑裁判への興味から番組を作っていたけど制作に行き詰っていたところ、夫から「永山側の視点で描いてみたら…」みたいなアドバイスを受けて前に進んだというようなことを書いていた(はず)。
番組のハイライトは永山と獄中結婚した元妻カズミさんのインタビューなんだろうし、それはそれですごく重い内容だったのは確かだが、個人的にはカズミさんを突き放した先の永山の心境の方をもう少し詳しく描いて欲しかったというのはある。
永山は死刑から無期懲役、それが「無期懲役が破棄されてから4年後、弁護団を解任し、カズミさんとも離婚しました」(ナレーションより)となるんだけど、

「彼は、私の前に置いた命というものを再び処刑台へ向ける心になっていく。体全体から『もういい』。もう私に対してのブロックであり、生を閉じるということであり、何よりも悔しいのは、生きて4人の命を背負って罪を償おうとするあの目を、そこで切ってしまった」(カズミさんの証言)

幼少の頃から社会に疎外されて育った者が出会い、初めて感覚的に分かり合える伴侶を見つけ、カズミさんに(行くことを強制したわけじゃないけど)遺族へ挨拶回りさせて2人で背負って行くことを覚悟させといて、死刑判決が出たくらいでまた心を閉じるのかよ。外部からの悩み相談に賢者よろしく回答している場合じゃねえよ。というのが番組を見たときの率直な感想。恐らくこの番組だけじゃなくて彼の著書なんかを読んだら印象は違うのだろうけど、これだけを見ると色々と難しい思想書を読んで理論武装はしたけど、一番大切な瞬間に一番大切な人を遠ざけちゃったかあと思ってしまう。俺に言われたくはないだろうけど。

永山曰く「自分は逮捕された時から生きる希望を持ってたわけじゃないよ。生きたいと思わせたのはあなたたちじゃないか。そういう風に思わせてから殺すっていうのは、やり方なの?」(大谷恭子弁護士の証言)

記憶が曖昧だが、映画『デッドマン・ウォーキング』は自分の罪と向き合わず斜に構えていた死刑囚が、死刑執行直前になって罪を告白し悔いて人間性を示したところで執行されてしまうという死刑廃止論者の主張が濃い内容だったと思うが、あれを「人は強制的に死と直面させられるまで罪とは向き合わないものなのか」「最後までうそぶいて死刑になるより、人間性を取り戻して良かったね」と受け取る人もいるだろう。
幼少からの過酷な人生もあって永山は自分の命を大切に感じられなかった。自分の生を大切に感じられないから、他人の生も大切に感じられない。だから殺した。それを「生きたいと思わせた」すなわち、他人の生にも意識を向かわせ、他人の生を奪ったことに対して向き合える人格形成を促した上で、改めて罪を問うて死刑執行する。理に適っているといえなくもない。
私の感覚だと、人間性や良心は捨てたり拾ったり出来るもので、ある瞬間に良心を手に入れることが出来たらそのまま保持出来るものではないだろう。だから安定した人格みたいなものを想定している西洋人権思想、合理主義、近代法とは相容れない部分がある。「(自分に向けて)罪を悔いる」ことと「(他人に対して)罪を償う」ことと「その後の現世を生きる」ことの関連性が、特にキリスト教的な価値観がベースに無いと見えづらい。日本人に向けて番組を作るなら、そこの関連性を面倒でも描かないとなかなか届かない気がする。

独房で書き連ねた思い、そして語った言葉。永山が遺した28年間の対話は、死の宣告を下された人間が生きることの意味、そして罪を負った人間を裁くことの意味を問い掛けています。(最後のナレーション=恐らくディレクターの言いたい事)

個人的には「人を殺めた人間がその後を生きることの(現世的な)意味」は問い掛けてきた(し、それは充分にすごいことだ)が、「死の宣告を下された人間が生きることの意味」はあまり問い掛けてこない内容だった。

ETV特集』「「死刑裁判」の現場〜ある検事と死刑囚の44年」
2010/5/30初回放送、90分、撮影:山崎裕/高野大樹、ディレクター:堀川惠子、制作統括:宮田興、制作・著作:NHK
堀川Dによる続編的作品。かつて一度だけ死刑を求刑したことがある元検事の心の旅。
元検事の言葉に対して堀川Dが「本当にそう思ってらっしゃるんですか?(怒)」と問い直すシーンがハイライトか。「てめえ、まだ官僚答弁するつもりか。個人の立場で返事しろよ」と言わんばかりの再質問だった。普通ディレクターの質問部分はカットするものだろうけど、その後の「組織としては…、個人としては…」発言を引き出すためにどうしても必要なシーン。とはいえ、検事としての私と個人としての私を分けることなんて本当はできないはず、75年も生きていればなおさら。
個人的に印象に残ったのは、長谷川死刑囚の母が国選弁護人を訪ねてくるエピソード。日頃は路上で新聞を売っている母が、失礼がないように精一杯の正装をし、カステラを手土産にし、「どうか息子をお願いします」と。光景が目に浮かんできた。ドキュメンタリーはこういう人間的光景の積み重ねが大切。
死刑囚の手紙を加瀬亮が朗読するのは反則くさかった。感情移入しちゃうじゃん。前作でも永山則夫の吹き替えに浅野忠信を起用していたし、フリーディレクターというか民放出身のディレクターはキャッチーさを纏うことに躊躇がない気がした。

ディレクターのスタート地点は「裁判員制度が始まったら<私>が死の宣告を下すことになるよ」だから死刑裁判の中身を問うのはまっとうなんだけど、西洋思想に基づいた法制度に日本人の死生観を接ぎ木した違和感みたいなのを拭わないと。「一般の人は死刑の内実を知らないのです!」と力んで啓蒙に励んでも、「よし、問題点は理解しました。死刑は当日朝ではなく数週間前から予告して心の準備をさせましょう。家族との面会や手紙のやり取りも自由にしましょう。薬物投与による執行にしましょう」みたく、死刑制度をより人道的に改善する方向にしか行かないような気がする。
たとえば現代、たらふく酒飲んで住宅地を120キロで走行中に人をはね殺したら? 殺意はないけど、状況次第で命が失われる事故が起きることは予見できた。ひいた相手は中学校から私立に通わせた何千万円と教育に投資してきた大切な一人息子。世論は出来ないと分かってて「死刑にしろ」と叫ぶかもしれない。恐らく21世紀の日本では掛る経費の問題等もあって命の重さは重くなっている(値段が上がっているとはいわない)。西洋人なら魂の値段は常に一定で「神に対してフェア」「神に対して平等」という建前が通用するかもしれないが、日本では命の重さは恐らく変動相場制。だから昭和40年代の裁判記録をもって死刑制度を問うことに違和感がある。長谷川の件も、空き巣に入って、家人に見つかったら脅すつもりでナイフ見せて、相手が抵抗したので逆上してめった刺ししたけど、殺意をもって侵入したわけではない。そして国選弁護人がやる気なかった、死刑なのに判決文が2ページ、これが死刑裁判として当時の感覚でどれだけ杜撰なことだったのかは分からないし、ちゃんと1審から弁護人と話していれば死刑を回避出来た事例かもしれないが、今だと逆に極刑かもしれない。最近の厳罰主義な風潮は体感治安が云々、安心・安全が云々とは違ったところで命の重さが変わっているからではなかろうか。
うーん、死刑裁判に関して制度設計がうまくいってないという話と死生観や命の重さに関する話がうまく切り分けられていないということを言いたかったけど、うまくまとまらない。この番組の2ちゃん実況や『デッドマン・ウォーキング』のネット感想を読むとこういう番組の意図が伝わっていない気がしたが、「最近は民衆がますますバカになった」みたいな言い方はしたくないので、色々書いてみた。

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

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裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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