パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

PALOP THE OBSCURE

「皆さん、青年が、現在たまたま自分の辿っている行路を適性を考えることなく無批判に辿り続けていくか、あるいは、自分の適性や好みがどういうものかを考慮し、それに従って行路を修正していくかは、難しい問題であります。それは、私が取り組まねばならなかった問題であり、かつ、何千人という人々が、この立身出世の時代に、考慮しつつある問題であります。私は後者の道を取り、失敗いたしました」
トマス・ハーディ(川本静子訳)『日陰者ジュード』(国書刊行会、1988年)より

無駄に遠隔地での面接と不採用を繰り返した結果、このまま6月末まで無収入でいるといよいよ口座残高がマイナスを示す危機的状況となり、5月始めから社会の最底辺たる派遣労働者として仕事をしている。何不自由なく甘やかされた10代、貴重な時間をドブに捨てた20代を経て、いよいよ夢も希望もない未来への足掛かりを得たのは、何とも感慨深い。ただ、楽しかった10代20代の思い出だけで生きていけると考えていたのは甘かったというか、若い頃に想像していた以上に記憶の風化が早いのには少し戸惑っている。そんなわけで今は新しく覚えなければならない些末に忙しく、優先順位が低い諸々は放置されている。具体的にいえばTVドキュメンタリーウォッチングは典型的な高等遊民の趣味だから今は無理。サンフレッチェの試合感想は何とか惰性で続けている。個人ブログを惰性で続けるのは無駄以外の何物でもないが、一度止めるとどうでもよくなるのが明らかなので、惰性も大切にしたい。
80年代の戦後民主主義育ちだから、誰かに対して何かを証明する必要はないのだけれど、逆にいえば絶えず「私はいま何者かになろうとしている途中なのです」と今の自分を正当化する嘘を付き続けなければ生きていくのがつらくなる時代でもある。若い時は自分を騙すのも簡単だったし、たとえば「就職活動をしていなかったのは教採を受けるから」など嘘の内容も浅くて軽くて良かったが、30歳を過ぎるとさすがに誤魔化しきれなくなってきた。ボクシングで喩えると、これまでは3ラウンド終了時点で3ポイント差だからまだまだ取り返せそうにみえたのが、8ラウンドが終わって4ポイント差がついてて、ますますラッキーパンチ狙いの無理攻めになるという悪循環。
というわけで、「自分は時間を無駄にしていないぞ!」という自分への大きな嘘として無職時代から小説を書き始めている。とはいっても、自分はストーリーをテリングする能力が皆無なので、必然的に好きな小説のプロットをパクりつつ、ゼロ年代風にアレンジして誤魔化すことにした。「再構成してパクるにはプロットを一度解体して理論で武装する必要がある」というわけで、文学研究論文を読んでみたりもした。最近は図書館で探す以外にもネット上のPDFで論文が読めたりするのが素晴らしい。
学生の頃に、旧東欧好きとして、また歴史的興味からオーストリア文学や東ドイツ文学の講義をとったが、文学研究というよりは文化や背景の豆知識披露みたいな印象で、文学を研究するという意味や仕組みからしてさっぱり分からなかった。それが今回「最新の文学理論に乗っ取った…」みたいなうたい文句の論文をいくつか読んで、やはり必要は発明の母なのか、なかなか楽しめた。21世紀の現時点から19世紀イギリスのあれこれを批判的に読む意味は微妙だと思わなくもないが、読み解き方に関しては勉強になった。
ちなみに一番好きな小説というのは『ジュード』で、これまで自分の中に、不幸な選択を追い込まれるように尚且つ自分の意思で繰り返すジュードと自分を重ね合わせて喜ぶイタイ傾向があったのだが、他人の論文を読んでいるうちに自分をスーと重ねるようになった。つまりは「ゼロ年代的にはジュードとスーのポジションを男女入れ替えた方が面白くね?」ということ。口では古い慣習を笑って進歩的な態度を取るのがかっこいいと思い込んでいたのに、不幸に見舞われた途端に保守化したスーを男性に置き換え、逆に素朴な夢や成功物語を信じて努力を重ねた若き日々は報われないで不幸な最後を迎えるのだけれど、その過程で本人はむしろ他人の価値観に左右されない個を確立した風に見えるジュードを女性に置き換えたら、しっくりくるんじゃないだろうか? たとえばだが、新しい生き方だの新しい価値観だのを世間に喧伝しながら結局偉い大学教授の箱入り娘と結婚した学者男と、就職氷河期に花形編集者に憧れていつか正社員になれると派遣として死ぬ程働いた挙句に風邪を引いても満足に病院へ行けないまま肺炎が悪化して死ぬ女性、そんな2人の出会いと別れとか面白い話を作れそう。
出産という行為だけは男女の入れ替えが不可能だと当初は思ったけれど、『ジュード』を読み直すと、2人の間に子供が生まれる場面は意外なほどささっと済まされている。子供がポンポンと生まれていた当時の貧しい階級の様相そのままに、出産を特筆すべきエピソードとして扱わなかっただけかもしれないが、これだけ愛だの男女の関係だのを描いた小説のくせして、家族の増える場面が淡泊なのは興味深いかもしれない。ハーディは基本的に男の役割とか女の役割にこだわりがなかったと推測してみる。
まあ、とはいえ今の自分に壮大な物語を男女逆転して描くような能力はないのでボツ。幾つかの論文を読んで興味深かったのは、ハーディが小説内で手紙に重要な役割をさせるというもの。書き手と受け手の間で解釈がずれ、小説の語り手と読者の間でもまたずれて、みたいな読み。デリダの「不在」概念を使った論文もある。この辺りをヒントに、アイドルブログを巡る書き手と受け手の「誤配」や「リアリティ」なんかをテーマにした小説を書いたら、あずまんこと東浩紀氏だけでも喜んでくれそうな気がするので、それを目標にして何とか完成させてみたい。