パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」

「日頃あれだけドキュメンタリーについて言及しながら、まだ読んでなかったのかよ!」と言われても仕方ないが、恥ずかしながら新古本屋の100円コーナーで買うくらいしか出来ない無職最下層民なので、御容赦願いたい。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

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で、文庫版をようやく読んだ。タイトルの「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」(P.35)は、シライジッチが米国務省からメディア対策のアドバイスを聞いた時に浮かんできたボスニアのことわざ。本書には、以下のような文章も出てくる。

また、シライジッチは詩的な表現を使いたがった。それはシライジッチが教室で講義するときに好んだスタイルだ。シライジッチが教鞭を執っていたコソボ州の州都プリシュティナの大学で、学生たちはその語り口に聞き惚れていた。しかしこれも、アメリカの視聴者に対してはタブーだった。陳腐に聞こえてしまうのだ。(P.95)

最近は、成績が伴わないからなのか、オシム父の会見を読んで(聞いて)「言い訳がましい」とか「正面から答えていない」といった批判的な反応をする人も結構いると思うけど、本人にしてみたら、バルカンで一般的な話し方をしているだけなのかもしれない。
たとえば、文字媒体ではなく同僚や友人との間で「こりゃあ全くの四面楚歌だなあ」や「まさに飛んで火に入る夏の虫だったよ」みたいな会話をしたことがある人はいるだろうか。いないと思う。もしかすると団塊世代のサラリーマンにはいるかもしれないが、周囲の人間は心の中で「お前は昭和かよ!」というツッコミを入れているはず。
私がテレビでシンポジウムなどを見ている限り、古い慣用句が大好きなのはペルシア語族。或いは、NHK-BSでロシアのニュースを見ていて、政治家が「犬が吠えてもキャラバンは進みますよ」と話しているのを聞いた時は度胆を抜かれた。
おそらく大の大人が昼間からカフェで友人とお喋りし、気の利いたコメントを発した奴が偉いみたいな慣習が残っている国の人と、テレビの影響なのか、猫も杓子も一般人も政治家もスローガンみたいなフレーズを連呼するのが日常になった世界に住んでいる人とでは、根本的なコミュニケーションのシステム自体が異なっているので、言語的な通訳を介しても意思の疎通が出来なくなりつつあるのかもしれない、などと邪推してみる。
私自身若者だし、万物は流転する派なので「最近の若者は言葉遣いがなってない」などと思ったりはしないが、今や学校でことわざや四字熟語や故事成語や慣用句を習っても、使い道はテストで良い点を取るか、クイズ番組で得意気な顔をするか、昭和期の文献を読むくらいしかなくて、実生活で必要かといえば、多分要らないだろう。とはいえ、詩的な表現が「陳腐に聞こえる」社会はあまり楽しくないと個人的には思う。

カテゴリーは「サッカー」にしてしまったが、本の感想も少し。悪魔的な独裁者を作るのは結構簡単で、西側メディアによって怪物にされたといえば、グルジアのガムサフルジア大統領を思い出す。元は文学者で人権活動家(といってもソ連時代の人権擁護は民族主義的な要素が多い)、選挙によって大統領へ選出されたのに、西側が大好きなシェワルナゼとの対比で「独裁者」扱いにされていたので、当時はうわべのニュースを聞いても訳が分からなかった。結局、失脚した後はメディア報道から見えなくなった記憶がある。当時は新聞を読み逃すとストーリーを掴まえられなくなってしまったが、今はインターネットという便利なものがあり、「ガムサフルディア」で検索してみると、どうやら今年になって遺体とともに復権しつつあることが判明し、思わぬきっかけで消息が知れた。まあ、一回レッテルを貼っちゃうと、マスメディアも「自分の見立てが偏見に満ちていました」とは絶対に言わない。「確かに中立ではなかったかも知れませんでしたが、事実関係で間違った報道はしてません」が精一杯。たとえば日本の左寄りメディアは「保守メディアは政府の犬になってジョンイルを悪魔扱いし過ぎ」と言うけれど、それを言ったら欧米メディアもアウンサンの娘を持ち上げたものだから、今さらミャンマー政府を見たままには描けなくなっている。これは偏見や情報操作というよりも、初期の情報不足による偏見段階を経て「本物の独裁者、狂人なんていない」と分かってきても、訂正出来ない、誤りを認められないというメディア特有の体質の問題だろうと思う。