パロップのブログ

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憲法改正について

昨日(http://d.hatena.ne.jp/palop/20070304)の続き。一応は自分の立ち位置を明らかにしておきたい。といっても、少し前に長谷部恭男氏の『憲法と平和を問いなおす』を読んで改憲派から護憲派に鞍替えするくらい自分の意思がない人間だから、大したことは書けない。今日、長谷部氏の『憲法とは何か』を読了しても考えは変わらない。

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

少し疑問なところは、立憲主義が価値観の多元化による衝突を防ぐためのツールであるならば、本来1種類で良いはず。世界統一国家は無理にしても、たとえば国連憲章で個人に国籍離脱の自由や移動の自由を与え、加盟国家に亡命者受け入れの義務等を課し、その上で各国家の憲法には固有の伝統に根ざした個性を書き込んでも良いということにはならないだろうか。
昨日の続きでいえば、そもそも立憲主義自体が宗教戦争に端を発した西欧近代思想の積み重ねであるわけで、イスラーム法と国民国家憲法がぶつかることもありそうだし、日本だってそう。日本での議論について強引な解釈をすれば、憲法第1ラウンド〜“思想的な日本の諸々と実利的な西洋の諸々(法制度など)を接ぎ木したかった明治の元勲”と“西欧人権思想を人類に普遍的なものと考える自由民権運動家”の対決は元勲の勝利、憲法第2ラウンド〜“明治憲法を引きずった敗戦直後のお偉いさん”と“戦争中に言論弾圧された憲法研究会グループ”の対決はGHQを味方につけた憲法研究会の勝利、そして今は第3ラウンドといったところか。「憲法は主権者が国家を制御するためのもの」と正論を唱えたところで、西欧発祥にして今では普遍的と考えられている立憲主義(リベラル・デモクラシー)に日本の伝統的な価値観を混ぜて埋め込みたいと考える人は決して少数ではないと思う。
一番良いのは政治家ではなく、憲法学者が新憲法の草案を必死になって書くこと。ほとんどの憲法学者護憲派というか現行憲法を「あるもの」として研究している人達らしいので、当然その骨格は変えない。その上でこの60年、無駄飯を食っていたのでなければ、学会で主流となっている「変えた方が良いのではないか」条文を盛り込めば良い。現憲法の中で「これを変えたらレジームチェンジになっちゃうよ」と言える「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」といった原理(principle)はプロテクトすると内外に宣言した上で、少しピントがずれてきた準則(rule)を直す。
一例を上げる。2005年の郵政選挙で「参議院で否決されたからといって衆議院を解散するのはおかしいのでは?」という話があった。この件について長谷部氏は、平成13年の衆院憲法調査会参考人として次のように発言している。

○保岡委員 衆議院参議院のお話がございました。参議院が、権限が強過ぎると。確かに憲法上は、予算とか条約の優越権とか、法律も一定の条件のもとに優越性が認められてはいるものの、参議院の方も同じような選挙制度になっているし、大臣や政務官、副大臣等も政府に送るという形になっていて、余り機能の違いがない。
 ところが、衆議院は、総理の不信任決議が成立したら、総理がやめるか解散するかという、民意を問う仕組みがあって、国民とそういう点で密接につながる第一院としての機能も持っているわけですね。ところが、参議院は三年ごとに交代する、半数を入れかえるという形で安定させてある。
 ところが、参議院の与党が少数になりますと、今度は参議院の安定した数の不足が連立をつくる。要するに、どちらかというと、二院制で、コントロールしたり補完したりする議院の構成で肝心の政府の構成が決まってしまう、連立政権で。
 こういうことは、私は、この憲法の持つ最大の欠点じゃないか、連立政権のよしあしは別として、制度の大きな欠点ではないかと思いますが、いかがでしょうか。最大の憲法の改正の項目ではないかと思いますが、いかがでございましょう。
○長谷部参考人 これは、先ほど私が冒頭の説明の中でも申し上げたところですけれども、二院制の妙味を生かすためには、両院の構成なりその役割が異なっている必要があるんです。ただ、参議院の現在の、特に法案の議決に関する権限が相当に強いものであるがゆえに、衆議院における多数派、そして政府というものは、参議院での支持も確保していなければ政策をちゃんと執行していけない、そういう実態にあるというのは、これは先生おっしゃったとおりのことでありまして、それがやはり問題と言えば問題だ。つまり、それでは、制度の論理からして、二院制の妙味というものを生かすことができないことになっているわけであります。
 ただ、これまた先ほど申し上げたことの繰り返しになってしまいますけれども、では、憲法上の権限を憲法改正を通じて縮減するのかと申しますと、それには参議院の特別多数の賛成を経なくてはいけない問題になりますので、現実論としては非常に難しいかなと。
 そういたしますと、そういった正面からの制度改正という非常に現実的には難しい問題よりも、その前に、今現実的な話といたしましては、自主的に謙抑的に権限を行使するような慣行をつくっていただく、そういう呼びかけをするというのがとりあえずは考えられる、そういうお話をしたわけでございます。
憲法調査会(平成13年11月8日)〕http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/008915320011108003.htm

つまり「現行憲法で規定された参議院の権限は大き過ぎて明らかにおかしい。でも憲法改正をするのは難しいから“自主的に謙抑的に権限を行使するような慣行”を作りなさい。決して“ひゃっほう! 衆議院を通過した法案を止めてやったぜ。どうだ、参議院の力を思い知ったか!”みたいな馬鹿な真似はしないように」と言っている。郵政民営化という政策の是非は別として、参議院は付帯条項でも付けて「通してはやるけど、運用は慎重にしろよ」と“良識の府”として振舞うべきだった。なのに、2005年に参議院は馬鹿な真似をした。それについては憲法改正に反対し、様々な護憲派集会で活動している奥平氏ですら、

多数派は「問題ない」/郵政解散憲法学者
 郵政民営化関連法案が参院本会議で否決された場合、衆院解散を示唆している小泉純一郎首相。果たして参院での法案否決を理由に衆院を解散できるのか。憲法や国会法学者の間では「法的に問題ない」との見解が多数だが、解散権の乱用は慎むべきとの見解も有力だ。
 奥平康弘東大名誉教授は「首相が解散するのは正当というほかない」との立場。「反対する自民党議員が違憲だというのは政治論としてあるかもしれないが、確立した憲法解釈では成り立たない」と断言する。
 前田英昭元駒沢大教授も「長年自分の政策として掲げてきた、命を懸けてきた政策が実現できないとなったときに、国民の現在の意思を問うことは意味がある」と肯定派。ただ小泉首相の国会答弁など言動は「乱暴だ」と批判した。
四国新聞(平成17年7月16日)〕http://www.shikoku-np.co.jp/national/political/article.aspx?id=20050716000311

「問題なし」と言っている。「1つの争点で解散総選挙をするな」と言うならば「1つの法案で参院が衆院の決定を覆すような馬鹿な真似をするな」という話である。

第五十九条  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
○2  衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
○3  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
○4  参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

衆院で可決された法案が参院では否決されたので衆院を解散する」のは確立した憲法解釈では間違っていなくても、「感覚的におかしい」「憲法の条文にそもそもの問題があるのでは」と思う一般人は多いはず。上記条文の通り、参院には法案をストップさせる権限があるけれど、実際に求められているのは、衆院が熱くなった時に冷静になるまで時間を稼ぐ役割である。60年間、政治的慣行を築く機会がありながら、結局政治家が馬鹿な真似をする以上、憲法学者は「あの政治家は現行憲法を危機に晒す馬鹿な真似をしています」と国民に向かって大きな声で言うか、より適切な新憲法草案を出すのが誠実なあり方だろう。上記条文の2項(原理ではなく準則)の「出席議員の三分の二以上の多数で」を削除すれば、参院は文字通り衆院に再考する時間を与えるだけの存在に憲法上も定義されるはず。
憲法の専門家がこれまで積み重ねてきた判例や解釈に基づいておかしいところは「おかしい」ときちっと声を上げないで、現行憲法の〈原理〉部分を守りたいがために〈準則〉部分の制度疲労にも目をつむるから信頼されず、「憲法を素人の皮膚感覚で語ろう」みたいなことをメディアが煽るようになる。そして、エリートや専門家が嫌いな人から、

【大谷健(朝日新聞出身)】憲法というのは、ごく普通の日本人が読んで、そのとおり解釈するように読むのがまず本当ではないんでしょうか。法学者でないと憲法を解釈しちゃいけないということはありませんね。それとも東大法学部の意見を書かないと文句をいえないんでしょうか。
【長谷部】法の解釈ということについて、少しお話をした方がよろしいのかもしれないですね。これは法律学者のものの言い方にも問題があるのかもしれないんですけれども、「解釈」を英語でいうと、「インタープリテーション:interpretation」ですね。で、日本語なら日本語で書いてあるものをそのまま理解して、「あ、意味がわかる」と、そういうのは「解釈」とは言わないのです。それは言葉を通常の文法通りに読んで理解したというだけの話です。言葉を読んで理解しましたということだけで話が済むのでしたら、おそらく法律学者は要らないだろうと思います。
 これは憲法に限ったことではないのでして、例えば利息制限法に関して、普通の日本語の理解からは到底出てこないような解釈というのを民法学者もやってきたし、最高裁もやってきているわけですけれども、要するに、なかなか法律の条文は動かないという状況を前提にしたうえで、しかし、法が実現すべき目的なり価値なりというものを一体どうやったら実現していくことができるのであろうかという、その理屈を考えるのが法律学者でして、そういうときに初めて必要になるのが「解釈」というふうにいうのだろうと思うのです。ですから、そういう意味で、解釈というのはなかなか難しい芸なのです。「芸」ですので、うまい人とうまくない人がいるのはしようがない(笑)。
 ですから、この人の芸はうまいなと思うか、思わないか、そういう話ですので、下手な芸をみせたのでけしからんと思われる方もいらっしゃるでしょうし、そうでない方もいらっしゃる、そういうことなのかなと思います。
〔日本記者クラブ会見(平成18年3月13日)〕http://www.jnpc.or.jp/cgi-bin/pb/article.php?id=563

こういう攻撃を受けることになる。本当に憲法学者が“我々は一般人から乖離しているわけではない”“世間の憲法論議を中身があるものにするために協力したい”“でも専門家の知識やこれまでの議論の積み重ねを尊重して欲しい”と思っているならば、ちゃんと言わなければ伝わらない。