パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ETV特集』「2006年夏 戦場からの報告〜レバノン・パレスチナ」

2006/12/30初回放送、90分、スタジオ進行:森田美由紀、ゲスト:臼杵陽(日本女子大学文学部教授)、取材協力:日本ビジュアル・ジャーナリスト協会アジアプレス・インターナショナル、撮影:土井敏邦/古居みずえ/綿井健陽、ディレクター:宮本康宏、制作統括:塩田純/東野真、共同制作:NHKエデュケーショナル、制作・著作:NHK
イラク戦争が始まった2003年頃は、NHKでもビデオジャーナリストによる取材映像を使ったドキュメンタリーが放送されたりしていたが、例の番組改竄問題以来、編集権等で揉めるのが嫌になったのか、外部の持ち込みを放送するのにびびっている印象(チェチェン紛争のドキュメンタリーも放送が大幅に遅れた)を持っていたが、今回の放送は3人のジャーナリストが撮った映像をまるまる使ったドキュメンタリー。改竄問題の時に自分は、NHKへの期待として「ドキュメンタリー系番組のアーカイブをちゃんと作れ」「アーカイブにはエンドロールで流したスタッフのクレジットを半永久的に残せ」「プロデューサーとディレクターは放送後にネットのチャットで視聴者の質問に答えろ」辺りの事を書いたのだが、今回の番組のように、映像を撮ってきた人がスタジオに来て説明をするというのは自分の理想に近い。
番組制作者と番組内ドキュメンタリー制作者を区分するというか「ある人が撮影したドキュメンタリーをノーカットで流しますが、そこから発せられるメッセージはNHKの意見とは一切関係ありませんよ」という仕組みにした方が、双方にとって都合が良いと思う。それから、はからずも番組内のイスラエル人が言うように、自分達にとって都合が悪い映像には「カメラの前に遺体を移動し、5回も登場させたりして、死体の数を水増していた」という防衛本能が働くし、日本では自己防衛意識を除いても大手メディアが編集・発信する映像への不信は、特にネット上だと大きいように思われる。今後益々ドキュメンタリーへの信頼の担保は映像にはなく、撮影者にしかない時代が到来し、それこそ昭和の街頭紙芝居のように映像と撮影者がセットになって上映会を巡回するようになるだろうが、テレビドキュメンタリーの場合は撮影者の出演と質疑応答がそれに替わる。信頼を醸成するには継続的な観測が必要だから、エンドクレジットの記録を残すのが、アーカイブを作らないNHKの代わりに自分がやっていること。
番組終了後に書かれたブログ等の感想で一部「イスラエルの手先」扱いもされていた臼杵氏は気の毒な役回り。確かに臼杵氏も「私は〜」か「イスラエルは〜」か主語が分からない話し方をしたので仕方ない面もあるが、「私は『イスラエルは○○と考えている』と分析しています」を「私は○○と考えている」にとってしまう人がいる。今回は3人がそれぞれ自分の撮影した映像を説明し、臼杵氏がイスラエルの立場を説明するクロストークのない場だったが、例えば議論を吹っ掛けるのが好きな親イスラエル学者・政治家がやって来て、映像のプロでありジャーナリズムのプロではあるが即興喋りのプロではないビデオジャーナリストと対峙した場合、どうなるか。NHKドキュメンタリーが次のステージへ進むきっかけとなる可能性はある。
『硫黄島〜』の自決シーンでも気分が悪くなるへたれの自分としては、頭部を吹き飛ばされた遺体は勘弁して欲しいというのが正直なところだが、「だからこそ目を逸らさずに見ろ」という意見も理解出来る。単純に血が駄目な人もいれば、「死」が駄目な人もいるだろう。何が悲惨映像かを決めるのは難しい。今回の放送基準はNHK云々ではなく、ディレクター氏が、信奉するピーター・ジェニングスのベイルート海兵隊爆破テロの報道に倣ったのではないかと推測する。
余談として、綿井氏のブログ(2006/12/27付)をみると今回放送の番宣で、そこにスタッフ名が掲載されている。その中に編集者の名もあるが、やはりスタッフを記録する上で編集は重要な職種だろうか。自分が「TVドキュメンタリーのスタッフを淡々とウェブ上に記録する」ことを始める上で、編集者はどうしようかと迷った。映画でも「名監督の陰に名編集者あり」といわれるし、軽くみているわけではないものの、やはり裏方としての名手だろうと思って外したが、失敗だったかもしれない。