パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

桜井均著『テレビは戦争をどう描いてきたか』

岩波書店、2005年9月
こちら(http://d.hatena.ne.jp/konton/20060805)で取り上げられていたので、TVドキュメンタリーウォッチャーを自称する者として、コメントしておこうと思う。実は昨年冬頃、出版されたばかりの時期に県立図書館で借りて、メモも取りながら読み進めたが、どうにもペースが上がらないので、そのまま放置していた。今回、再び借りてはみたが、やはり進まない。というわけで、以下には、読んだ感想ではなく、進まない理由を書くことになる。
まず、本文がドキュメンタリーの内容説明部分と著者の意見(ツッコミ)部分が区別されていないので、どこまで信じていいやら分からない。もちろん作品の内容を「要約」するだけにせよ、入れた箇所/削った箇所をみれば個人のセンス・思想は出るだろうけど、番組の映像の説明つまり当時の視点と、それをみた著者の感想(2005年の視点)は分けるべき。
本書では、70以上の作品を1本につき1章という「ロック名盤100」のようなディスクガイド的構成で紹介しているが、この本に沿ってドキュメンタリー作品を鑑賞するわけにはいかない。NHKの資料室に行けばあるのかもしれないが、一般人には確認不能。そうなると、取り上げられたドキュメンタリーの存在自体が疑われる。存在そのものまでは疑わなくとも、著者の「戦後初期のドキュメンタリーはモノローグだったのが、時を経てダイアローグ、ポリフォニーへと主としてアジアへ開かれていくようになった」という自説を強調するため、初期にも存在したアジアに開かれたポリフォニーな作品や、90年代以降になって制作された強烈なパワーを持っている一人称語りの作品を、意図的に外している可能性くらいは指摘することが許されるだろう。
もう少し言えば、著者はほとんどの作品の制作者をNHKの先輩として既知のはず。じゃあ、70歳だか80歳だかになった先輩のところに行き、「例の作品ですが、昭和40年代とはいえ、もっとこういう視点から見ることが出来たでしょう。何で描かなかったのですか?」といった質問をぶつけてみた方が、作品解説に余程深みが出たのではないか。一般人が利用する術のないガイドブックを作るよりは、紹介作品数を減らしても制作過程等を掘り起こして欲しかった。当時の作品の限界が、意識の限界だったのか、技術の限界だったのか、或いは制作した個人の能力に帰する限界だったのか、という部分を追求して欲しかった。
じゃあ、本書は何なのかといえば「『架空のドキュメンタリー評論』という形式を借りた著者の戦後日本批評」。そう考えて読めば、なかなか興味深い内容だと思う。産経や扶桑社から出ている「立派な日本人の立派な行い」本の逆バージョンだと考えれば、面白いというと語弊があるけど、興味深いエピソード70数本が詰まった読み物として、そのうちにでも読みたい。或いは、NHKが資料室にあるドキュメンタリーを一般に開放した時、ガイドブックとしての良い叩き台になる可能性も秘めているが、今のところ「TVドキュメンタリー」関連の著書として扱うことは自分には出来ない。

同じ著者が本書の前に出版した『テレビの自画像』(2001年、筑摩書房)に興味深い文章がある。薬害エイズに関する取材をしていた時のエピソードで、

調査報道の鉄則は、これまでの事実関係を頭に入れると同時に、進行中の事態から目をそらさず、そこから次の展開を同時的に読んでいくことです。そうしないと取材ポイントがボケてしまうからです。特に、複数のスタッフで取材する場合には、毎日ミーティングをして相互の知識や認識を確認しあうことが大切です。(P.168)

と書いているように、特に調査報道においては、ディレクターの作家性なんてものは存在せず、能力のあるNHK記者が同じ方向を向いて調べれば、自ずからその時々の国民に必要なものは発見出来るものだ、という感じ。もう一箇所、興味深い部分を引用する。

私は30年ほどテレビのドキュメンタリーをつくってきました。つくったと言っても、それらは私にとって「作品」(ソフト)ではなく、放送日時を限定された「番組」(プログラム)でした。テレビ・ドキュメンタリーは、「いま、そこで」起こっている現実を的確に記録し、可能な限り早く放送するために開発された表現の手段にすぎません。
ジャーナリズムの世界では、作品の完成度より、その時々の社会状況をどれだけ向き合って放送できたかに関心があります。
「独自性」「タイムリー性」「切り口の斬新さ」、これら3つがテレビ・ドキュメンタリーの必須条件です。(P.5)

これを読んでも、著者は「ドキュメンタリー特に調査報道は、スタッフが現場で協力しながら作品を丹精込めて制作すれば、ディレクターの作家性を越え、NHK人の総体をも飛び越え、国民意識の総体へと繋がっていくのだ」という認識を持っているのだろうと思う。「誰が作っても同じもの出来る」という意味ではなく、「取り上げる題材は日本人の共通認識を鋭く疑うものであるべきだ」という意味での普遍性を求めている人なのだろう。個人的には、TVドキュメンタリーは森達也氏がいうところの「ドキュメンタリーは芸術作品だ。作家性が無ければ意味がない」とまでは思わないけれど(そういう作品は映画祭で好きに上映してくれ)、もう少しディレクター個々の顔が見えてもよいと思っているので、著者の立ち位置(ソフトではなくプログラム)から書いたドキュメンタリー論には違和感がある。とはいえ、先に『テレビの自画像』を読んでから『テレビは戦争をどう描いてきたか』を読むと、筆者の考え方に対して腑に落ちる率が少し高くなるとは思う。

本書の内容にはあまり関係のない余談だが、著者は1946年生まれである。テレビがドキュメンタリーを制作するようになった最初期にNHKへ入社した生き字引のような人間が、もうすぐ定年を迎えるような業界の巨人が、実は自分と同じ第二次世界大戦を知らない世代であるという当たり前の事実にめまいを起こしそうになる。本書に書かれていることは自身の戦時体験と照らし合わせながら他人の言葉・行動を消化したのではなく、あくまで勉強し、取材して得た後知恵なんだと考えると、「軽い」とか「疑わしい」といった批判的な意味合いではないけれど、実際に体験したわけではないことを聞き取りや想像力で補える歳月だとはとても思えない。

テレビは戦争をどう描いてきたか 映像と記憶のアーカイブス

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