2005/10/9初回放送、52分、取材:渡辺常唱、コーディネーター:西郷広暁、ディレクター:新田義貴/萬木洋、制作統括:薮並整司/朝比奈正彦
ガザ/イスラエル/パレスチナに関するまともな解説は、専門家のサイトがあるだろうから、ここでは作品のスタッフ・クレジットだけ書いて済まそうかとも思ったが、折角なので妄言を放つことにする。もちろんイスラエルに行ったことも見たこともない人間の妄言。
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以下は、2001年に、シャロン率いるリクードが総選挙で勝ったというニュースに触れた際に、自分が書いた文章:
2001/2/7
何に違和感を感じているのかが分かった。もともと作り話の上に国家を創っているのだから、私から見れば、そこに住む人々は自然にそこで生まれたのではなく、選んでそこに住んでいるはず。だから、当然作り話が本当になるよう常に本気でなければならない。例えば、アメリカ19世紀西部のドラマが、何かある度にタウンミーティングを開いて我々は共同体の意思決定員だと示さなければならないように、イスラエル国民たる者、選挙の度に「俺らがここをイスラエルって言っているからイスラエルがあるんだ」という気概を見せて物語を続けなければならないはず。常に非常事態で最良の指導者を選ばないと消滅する危機感に襲われているはず。「俺たちは政治に興味がないし、生活出来れば良い」なんて口が裂けても言えないはず。なのに、投票率が60%台で、「ともに選びたくない候補」だと、お前ら、それでモーゼの子孫か!と言いたい。
http://fayefaye-web.hp.infoseek.co.jp/nikki.0102.1html
第4次中東戦争以降に生まれた者、或いはソ連解体後に移住してきた者にとってイスラエルは始めから存在する国家であり、戦って勝ち取り、守るために戦う国ではないのかもしれない(もちろん現在も兵役はあるけれど)。その建国の物語に愛着がない、イスラエル国を自明の存在と考える人が国の多数派になった時に、逆にイスラエルという国は存在意義が消失するのではないのか、という疑問が生まれた2001年。あれから4年以上過ぎ、この作品を見た限り、イスラエル国民は「安全で安心な西欧文明的消費社会の一員たるイスラエル」が当たり前のように存在するとは信じられなくなり、「現実に住み易い私たちの国」と「理念上のユダヤ人国家」を比較している印象を受けた。つまり「今現在、何かを捨てなければ失うことになる、かけがえのない国家」だと思い始めている。もしも、それを見越して、国民にもう一度「イスラエル国家の意味」を自問させるために、シャロンが2000年にイスラム教徒の聖地である「神殿の丘」訪問を強行し、イスラエルとパレスチナの関係を悪化させ、首相になって自爆テロと軍事侵攻の連鎖を呼び、何千人もの犠牲者を生んだのだとすれば、ある意味でものすごい策士だが、多分そんなことはないだろう。