パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ETV特集2001』「戦争をどう裁くか(2)〜問われる戦時性暴力」再考

思いがけなく話題になっているので、テレビドキュメンタリー・ウォッチャーとして思いついたことを幾つか。
その前に、番組を見た当時の感想を晒しておく。自分だけ安全圏から言うのはフェアではないだろう。

「戦争・内戦・民族紛争のなかで起きた犯罪を検証し、当事者間の和解を進め、共生を目指そうとする取り組みが世界的な規模で進められている。「人道に対する罪」という国際人道法によって裁き、和解を実現しようというのである。番組では世界各地で進められている和解への取り組みを紹介し、21世紀に同じ過ちを繰り返さないために、人類は20世紀をどう清算すればよいのかを探っていく」(NHKホームページより)
昨年行われた太平洋戦争時の戦犯法廷を手掛かりに戦時の性暴力について引き続き高橋氏と米山氏がコメンテーター。米山氏の「歴史学植民地主義フェミニズムの観点から読み直す」という紹介からして胡散臭いと思ったが、彼女は「同じ女性だからと安易に理解し合えると思わないこと」や「戦時の暴力は平時の権力意識の確認」など真っ当な意見を述べていた。戦犯法廷は『産経新聞』と『週刊金曜日』の報道の両方に目を通せば、大体の目的と仕組みは分かる。NHKが法廷について「自由主義史観」の教授にコメントさせていたのは右翼が怖かったからかもしれないが、必死にバランスを取ったと思う。流れとして教科書問題に触れるとすれば、個人的には歴史の教科書には事実は載せず、資料の調べ方、バイアスの批判的な見方、一つの説に固執しないためには、などを教えるべきだと思うが、それでも現実の教科書風に書くとすれば、「慰安婦は戦時中、支配民族からの暴力に晒されたのみならず、戦後もアジア的儒教的な男尊女卑の豚が支配する朝鮮民族社会で二重の苦しみを味わった」のようにすれば、植民地主義の観点からもフェミニズムの観点からも政治的に正しい教科書になると思うが。
http://fayefaye-web.hp.infoseek.co.jp/nikki.0101.3html

ネットウヨも2ちゃんも知らなかった頃の感想としては妥当な線だと思う。裏事情を知る前から「右翼が怖かったからかもしれない」とか書いている自分に拍手。ちなみに「NHKホームページより」の部分は「戦争をどう裁くか」という4回シリーズ全体にかかる説明。勘違いしている人も多そうだが、戦犯法廷を扱ったのは4回のうち第2回だけ。

左の人からみれば「NHKは政府の意見を垂れ流し」になるし、右の人からみれば「NHKは左翼の巣窟」になる。結局みんな世界を自分の見たいようにしか見ない。別にNHKが一枚岩の秘密組織であるはずもなく、単に右から左まで色々なディレクターがいるだけだろう。今さら放送法なんて時代にそぐわない飾りのようなものだから、あれこれ弄っても仕方ない。恐らく『ETV特集』の担当なんて出世から外れた島流しか左遷か閑職だろうけど、そういうところで変なのを飼っていてこそ時に面白い作品が出てくるわけで、ETVまでネットウヨNHK上層部の厳しい監視下に置かれると、ウォッチャーとしては詰まらないことになりそう。
受信料と税金を払っている個人としてNHKに要求する事は、
・公式サイトにドキュメンタリー系番組(『Nスペ』『ETV特集』『BSドキュメンタリー』くらいか)のアーカイブをちゃんと作れ
・アーカイブにはエンドロールで流したスタッフのクレジットを半永久的に残せ(ログを流すな)
・外部に発注したのなら、それも明記しろ
・放送した番組をネットで無料配信しろ
・(匿名でない)公人のインタビュー映像などは、本放送でカットした場合でもネットアーカイブで公開しろ
・プロデューサーとディレクターは放送後にネットのチャットで視聴者の質問に答えろ
別に無理難題を吹っ掛けているわけではなく、アメリカの公共放送(http://www.pbs.org/)なんかだと結構実現しているものばかりを並べてみた。我々の金を遣って番組を作っているわけだから、取材した素材も公共物だと思うわけだが、技術的に可能ならば、受信料を払った人間にパスワードを教えるような形にして、素材の利用に制限を加えてもよいだろう。
例えばテレビドラマならば、NHKから民放まで、誰が演出で誰が脚本かを明らかにしているというか、むしろそれをブランド(ウリ)にして視聴者を惹き付けているケースだってあるのだから、ドキュメンタリーだって制作者の顔をはっきりさせればよいのでは。大文字の「NHK」を制作者にするから胡散臭くなるわけで、視聴者に「誰々が作った→じゃあ見なくていいや」「誰々が作った→むっ、これは傑作の予感」みたいな推測が成り立つのが、真っ当な制作環境だと思うのだがどうだろう。

地雷を踏みそうだが、戦犯法廷そのものにも少し触れておく。内容・思想をどうこういう知識はないが、「法廷」自体が政治的パフォーマンスなのだからもっと上手い脚本を書けば良かったのになあ、というのが騒動も含めた感想。もっとディテールに凝らないといけない。「昭和天皇を有罪にする」という結論(目的)が先にあるわけだから、死んだ人に腕利きの弁護団100人を付けてやるとか、証言に立った被害者にそれこそ本物の法廷さながらに際どい反対尋問をぶつけるとか、そういう本物の法廷らしく見せる道具立てが必要だった。そうでないと、たまたま見た一般人は「被害者の苦悩を救えない現行の社会システムを断罪したいのかな」「女性の人権に寄り添わない現在の司法制度への異議申し立てなのかな」としか解釈出来なくなる。もし純粋に「今困っている人を救いたい」という目的で裁判を実施したのならば、現在の日本国首相、韓国大統領、北朝鮮ボスに対して「今現在、彼女たちが不幸である事への責任」の罪状で召喚状を送り、出席しなければ(多分しないだろうが)その時こそ欠席裁判を堂々とすれば良かった。それで形式的に筋は通ると思う。内容は別としても5年、10年を経て敵対陣営からも評価を得られるような自分たちの運動のエポックにしたかったのならば、死者に対して欠席裁判を行うというのはパフォーマンスとしてのセンスに欠ける。