パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ETV特集』「戦場から伝えるもの〜フリー映像ジャーナリストたちの記録」

2004/8/14放送、90分、ナビゲーター:西谷修、構成:七澤潔/城光一、制作統括:安斎尚志
以前(http://d.hatena.ne.jp/palop/20040511#p1)も書いたが、私は報道カメラマンをコーヒーカップの底に残った滓をみて適当な事を言う占い師みたいなものだと思っている。余談だが、最近メディアに露出する占い師と呼ばれている人も売りは人間観察力とトーク力のようだ。
例えば「片足を失ったアフガニスタンの少年」というタイトルの写真が説明文抜きにあったとして、失った理由は「地雷を踏んだ」「農作業中にトラクターに巻き込まれた」「古井戸を塞いでいたベニア板を踏み抜いて壊疽」などが考えられ、それは本人と撮したカメラマンしか知らないか、或いはカメラマンにも分からない。そう考えると、結局写真の真実性を担保するものはカメラマンの人間性・倫理観しかない。
人工衛星を使ってどんな所からでも動画を送る事が出来る今、70年代のように写真1枚で世界的報道カメラマンに名乗りを上げるような事は無理だろう。というか、この番組に登場するカメラマンはセンセーショナルな写真1枚で勝負する古いタイプのカメラマンではなく、写真はあくまで素材であり、写真を含めた取材活動全体で「映像ジャーナリスト」と名乗っている。そう考えると、彼らが自らの写真を大手メディアで発表する機会がないのは、大手が悲惨な写真を扱いたがらないというよりは、写真とカメラマンがワンセットでないと意味がないからだろう。自ら写真を持って各地を巡回し、スライドを次々と見せながらその写真に関するエピソードを語るカメラマンの姿は、一昔前の紙芝居弁士と重なる。
この番組に出てくる映像ジャーナリストの多くが、撮る前に被写体に許可をもらうなどの手続きを取り、また被写体を晒し者にしない配慮をすべきだと考えているのも「被写体をよく知る事でより深い写真が撮れるから」という作品に対する実利よりは、「自分が倫理的である事で写真にも道徳性を帯びさせたい」という想いからかもしれない。素人目には、こっそり隠し撮りしたり、いきなり相手の目の前でフラッシュ焚くような非人道的な方法の方がインパクトのある写真が撮れそうな気もするが、彼らはインパクトではなく、戦争のなかの日常にある何かをすくい取ろうとしているのかもしれないので、第三者が口を出す事ではない。
結局、倫理的な映像ジャーナリストに必要なのはコミュニケーションスキルに話術に人間性。となれば、地道に紙芝居弁士を務め、その人間的魅力でクライアントの信頼を勝ち取るしかない。「写真の道徳的信頼性を高めるためには、国連で証言したり、孤児院を建てたりしなければならないのかもしれない」と広河隆一氏の活動を茶化す意図はない。素直に凄いと思うが「ジャーナリストは道徳的な信頼性が大切」という思想と「1枚の写真が政府を動かす/歴史を変える」という広河氏監修新雑誌の思想は矛盾する。即効性の影響力がある写真なんてインパクトに頼った印象操作の賜物だし、だいたい1枚の写真で政策が転換するような社会には住みたくない。
彼らは「どんな手を使ってでも最終的に撮った写真の出来が良ければ勝ち」という報道写真を否定している集団であるようにみえるので、その観点から個人的な言い掛かりをつけるとすれば、東京の道路の真ん中でくわえタバコしながら撮っている若僧の写真はどんなに出来が良くても私は信頼しない。海外でのファースト・コンタクト手段として「へい、兄ちゃん、タバコ持ってない?」の一言が役に立つのは分かるし、いつ命を落とすとも限らない戦場を歩けば一服する習慣が身に付くのも理解出来るけど、それを日本の路上に持ち込んではいけない。そう言うと、それこそ「だいたい日本は潔癖過ぎるんだよ。俺みたいに世界基準で物事を考えろよ、この引き籠もりが」と返されそうなので余計に腹が立つ。この若造のタバコが当たってシャツが焦げても「パレスチナではもっと悲惨な暮らしをしている子供がいるんだ、この温室育ちが」と返されそうなので余計に腹が立つ。まあ無頼を気取る倫理屋は大嫌いという個人的なコンプレックスの話だ。
番組は最後に西谷氏が大手マスメディア批判をして締めくくられたのだが「えー、この番組はそういう軽い趣旨だったの」という感じだ。番組に登場した映像ジャーナリスト諸氏は、皆そんな小さな事を言っていたわけではないと思うのだが。