パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

BS1『ボスニア虐殺の真相を追う デンマークの元難民担当大臣』

TV-DOC、デンマーク2000年
海外ドキュメンタリーを見る場合、お国柄を反映したものか、放送局の偏向か、それともこれまでの国民内総意を覆すスクープなのかを判断する情報がないため、騙される危険がある。本編の内容は1996年にデンマークの内務・難民担当大臣ビアテ・バイスが職務でボスニアの虐殺遺体の発掘に立ち会って受けた衝撃から、大臣を辞めた後個人の身分で事件の真実を追う話である。事件とは、1992年7月10日、ボスニア・クリュッチ郡ビリャニで、イスラム教徒男性258人がセルビア人に虐殺され、ラニシュテの森に掘った穴に捨てられたという。現地で住人に詳細を聞くうち、彼女はこの虐殺を指揮したといわれる地元の地理教師マルコ・サマルジヤ(彼は住民両派の信頼厚い町のリーダーだった)に話を聞きたいと思い、彼の住むセルビア側の町プリエドルで彼の弁明を聞く場面がスクープとしてのハイライト。戦争の全体像ではなく、バイス自身の心の動きに沿う物語作りに好感が持てる。サマルジヤの弁明は「本部からイスラム教徒過激派14人をマニツァに送れ、との命令があって従っただけで、その後の虐殺には関わっていないし、住民を煽る文書も書いていない」という。おそらくは番組の云う通り彼は嘘を言っているだろう。よくセルビア民族主義者にインタビューを読むと、堂々と自分たちの言い分を言い放ち、正しいことをしたと誇りを持っていることに驚かされることがあるが、嘘をつくということは本人が犯罪を犯したという自覚があり、逮捕を恐れていると解釈することも出来る。しかし、セルビアイスラム両教徒が同じように犯罪行為を行い、同じように弁明しても西側はいつも一方的にイスラム教徒の言い分だけを認めてきた経緯があるため、セルビア人の中でたとえ理由と信念があっても西側の連中の正直に語る気が起こらない、という解釈も十分成り立つ。戦争初期にあれだけ偏向した肩入れをしたのに、今になって「中立の立場から真実が知りたいの」と言われても「あほか」としか言い様がないだろう。またサマルジヤは「1941年にナチスと組んだクロアチア人セルビア人(自分の父)が殺されたから」と理由を挙げると、バイスは「その復讐」と尋ねた。復讐ではなく、各地で戦争が始まった以上先に相手を殺さないと自分達が虐殺されると発想することに理解が及ばない限り、彼女がサマルジヤを理解することは出来ない(犯罪者を理解することと犯罪を許容することはもちろん違う)。面白いのはバイスと通訳として同行したカルステン・フレデリウス(コペンハーゲン大学で南スラヴ学を研究)が事件の見方や取材の進め方について相違があることだ。衝突という程ではない。またフレデリウスも西側研究者の御多分に洩れず、この戦争に関しては反セルビア主義者かもしれない。しかし、彼には戦前、双方に恩師・友人がいて、それが一方を悪魔呼ばわりする体質から逃れさせている気がする。それともう一つ、番組は地元住民を煽ったサマルジヤもまた民族主義者に煽られたというナレーションで終わるが、それが誰かには触れていない。虐殺当時、侵攻してきたばかりだったのか、既に駐留していたのか分からないが、外部からの正規軍について全く言及がない。バイスの心層には表れないから必要ないと云えばそうだが、すっきりしない。さて、日本では戦争は良くないもの、だから考えて口に出すのもはばかれる傾向がある。そのため多くの、特に若い人間にとって戦争の場面とは『北斗の拳』やハリウッド映画の「人を殺せ、食べ物をよこせ、女を襲え」くらいしか浮かばないが、実際にはほとんどの戦闘が、進行する方面、拠点となるため包囲する都市など綿密な作戦が立てられ、作戦暗号名も現地の報道なら載っている。政治的側面でも人道的側面でも、殺しを止める、難民を救うなら行う側の意図を予測出来るように学習し、報道するのが当然だと思うが、そうした理解がないから、「どっち側が悪い」とか「包囲されているから善い方」とか間抜けな報道になるのだろう。最後に、こういう文章を書くと「セルビア人の人殺しは悪くない」と「双方の行為を公平に見るべきだ」の違い、「戦争は仕方ないことだ」と「戦争を無くすためにはもっと戦争について学ぶべきだ」の違いを読み取ってもらうのは難しいことだと思う。