パロップのブログ

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『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』

『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』は、2008年に出版されている。もう少しいえば2003年〜2006年の科研費を得て行われたプロジェクトをまとめたものである。

 1月に国会図書館で『ビッグイシュー』の上山和樹×斎藤環を45号(20060301)〜105号(20081015)までコピーしたので、次のステップとして本書の上山和樹の箇所(20070929収録)を読もうと思った(上山×斎藤を読んだ話はまた別の機会に)。最初はそこだけ読んで済まそうと思っていたのだが、他の論文もなかなか面白かった。そもそも同じ根っこの問題意識から一つの書物が編まれているのだから、当たり前の話だが。まあレヴィナスメルロ=ポンティのところは読んでもさっぱりわからないし、日本で行われている事例はほぼ読み飛ばしたけど。そういえば去年行った生命倫理学会にもレヴィナスの顔やらメルロ=ポンティの身体やら訳わからんことを言う偉い人達がいた。

しかし、疎外という用語が、ピネルに始まり、ヘーゲルフォイエルバッハマルクスときて、 ガタリフーコーにまで関係するとは思わなかった。19世紀の精神医学と哲学は近い所にあったのね。20世紀には社会学や心理学や文化人類学に細分化されて、人間の心の中を考えている人達と社会のシステムや制度のことを考えている人達に枝分かれしていたのが、フランス現代思想やら言語行為論やらエスノメソドロジーやらも絡んできて、結局最後には合流する感じがある。本書にはクルト・レヴィンのグループ・ダイナミックスも出てきたし、このまま勉強を続けたらルーマンやバトラーも出てきそうで恐ろしや恐ろしや。

まあラカンからしてわかってないので本書に出てくるジャン・ウリのこともちゃんとわかってない。精神分析を理解しないとたぶん制度分析も理解できない。

 

ジャン・ウリ曰く

精神科の患者というのは、ある意味でそういう、自分の目の前にいる人物の無意識の欲望というのに非常に敏感な人たちが多くて、何かある種のアンテナのようなものをもっているわけです。医師や看護師の資格、そんなものが一〇〇あっても全然意味はなくて、やはりそういう無意識の欲望をもって、どうかかわっているかということが非常に重要な要素になってくるわけです。 p.164

認知症対応型共同生活介護グループホーム)の元労働者としては、この辺りの話は実感できる。

純化して喩えに上げて申し訳ないけど、介護系の資格を取るとか勉強するとかに全然興味がない純粋に生活のために働く系おばちゃん、「世話をしてやってる」が前面に出ているタイプ、利用者の訴えに「規則で決まってるからダメ!」「あーもう、全然言うことを聞かないわね、この人達」とか言う人。一方にそういう人がいる。もちろん賃労働なのだから、この割り切りはありといえばあり。利用者側も敏感に察知して、こういう人には段々と頼みごとをしなくなる。

他方で福祉系の学校を出た使命感に燃えている人、全人格をもって利用者と向きあう人。利用者も信頼してあれこれ頼んでくるので、それをしっかり実現してあげようとする。これは真似できないしついていけないのでサービスを標準化するという意味では同僚から好かれない。なによりこの人自身が潰れたりする。

労働者としての私は、利用者のことを内在的に理解しようと努めること自体を面白がっている人。だから一見後者のように見えるんだけど、自己犠牲の精神がないから、助けを求めて握ってきた手をあっさり離す。もしかすると私が一番悪質かもしれない。

 

ジャン・ウリ曰く

結局、看護師の仕事というのは、自分の経験によって働くということ、つまり自分の歴史、自分固有の個人史を使って働いていくということなのです。

ところが、これはフランスでもそうなのですが、そのような仕事の仕方というのは、じつは国家的には禁止されているわけですね。だけど、それを禁止してしまうと、先ほどからいっているような、一つの共感にもとづいた仕事というのは、全然やっていけません。 pp.161-162

へえ、フランスでもそうなのね。イメージでもっと個人の裁量だらけな国かと思ってた。

これは本書の後半に出てくる病院機能評価とも関わってくる話かな。病院機能評価って、ようするに医療版ISO(国際標準化機構)みたいなものよね。誰がやっても同じように出来るマニュアルを作りましょう。もちろん看られる人間を工業製品のように扱うのではなく一人一人を個性ある者として看るわけだけれど、じゃあ看る側は誰に代わっても大丈夫ですとなるのか。人と人との関わりを標準化できるのか。ある看護師が非番だったり病欠したり退職したりしても変わらず看護できるのが良いとされて良いのか。いやいや、仮に利用者ではなく看護師でも医者でも介護士でもその場にいる人間が1人でも代わったら、その場のルールもシステムも全体を見直す、微調整する、それが制度分析であると。言うは易し、なかなかきついね。

社会のシステム・ルール・コードに対応できなくて精神病院に閉じ込められている人達、実は頭がおかしいのは社会の方なんじゃねえの。とりあえず精神病院内の医者と患者の関係、看護師と患者の関係、医者と看護師の関係、全部ゼロベースで洗い直してみるべきでは。その洗い直した関係、今後はその見直し作業を外の社会にまで広げないと、精神病院を廃止して精神障害者を外に出しても良いことにはならんぜよ。…っていうのはよくわかる。よくわかるけど、だがしかし。

竹端寛先生のこの本とかたぶんそういう話なんだろうなと。まだ読んでないけど。

「当たり前」をひっくり返す

「当たり前」をひっくり返す

 

 私自身、感情労働自体は仕事のときだけ感情を切って1日8時間の役割演技(ロールプレイ)だと思えばそれほどきつくないけど、自分固有の歴史を資源に感情労働を行うのはかなりしんどい。そういう話が、恐らく第4章の三脇論文に出てくる武井麻子氏の話と関わってくるのだろうが、よく読むとちょっと違うような気もする。

武井には治療共同体でのノウハウから制度分析へと考えを進めるチャンスがあったのだ。感情労働が制度分析を行うことだとして、この不払い労働の価値を治療論として展開するチャンスが日本にもあったのだ。 pp.194-195

少しだけ本音をいえば、「最適化された制度・システム・ルール・コードができたぞー」と達成感を味わうそばから「完成した瞬間から制度の陳腐化が始まるのだ、固定化してはダメだ、現在のシステムを疑え」みたいに言われるのに、ほとんどの人間は耐えられないのだと思う。特に人間関係や権力関係をたえず疑って、検証して、みたいなのは。私も労働は標準化して欲しいタイプだし、介護する側と介護される側の立場が入れ替わったりして欲しくないタイプ。権力差に安住したいタイプ。それほど理不尽でなければ権力の下側になっても安住したいタイプ。

 

余談

「アコイエ修正案」と前後して厚生省の外郭団体(INSERM)が公表した専門家チームによる報告書(通称「クレリー=ムラン・リポート」)のなかに、心のトラブルは対処する治療手段としては精神分析より認知行動療法のほうが効果的である、と記されていたことから、精神分析家たちの反発はやがて認知行動療法へと向かって行く。 p.358

これは日本でも香山リカ先生辺りの本で読んだ覚えがある。犯罪加害者の更生プログラムに認知行動療法が取り入れられることが増えたけど、精神分析の方が効果あるんじゃないの云々と。割と縄張り争いの話でもあったのね。

 

さらに余談。

私はサッカー観戦こそ22人を箱庭に入れて人間社会の縮図を90分間観察する楽しみと考えて観ているところがある。味方の10人を見て相手の11人を見てポジションを1メートル ほど動いたり、ボールの位置を見て相手の位置を見て体の向きを30度ほどずらしたり。サッカー観戦と制度分析は非常に似ていると思う。

なので、ジャン・ウリの以下の発言はちょっとショックだった。

一九世紀末から二〇世紀初頭に活躍したフランスの社会学ガブリエル・タルドはいかにして「大衆(la foule)」を「公衆(le public)」に変えるのかということを一九〇五年の書物で述べている。彼によると、公衆というものは一つの一貫性をもっているものであるけれども、必ずしも一人一人の人物が大衆においてあるように触れ合って狭い場所に存在している必要はない。公衆というものは、固有の構造をもっているものである。そして、人々がこの公衆というものになったときにはじめて、大衆という状態において起こる「伝染(contagion)」という現象から逃れることができると彼はいうのである。しかし、この大衆という状況よりもっとひどい状態が存在している。それが「グレガリスム(grégarisme)」である。「グレゲール(grégaire)」という形容詞は集団がごちゃまぜに存在している状態のことである。たとえばわたしはサッカーが嫌いなわけではないが、サッカーの中継などをみているとまさにあれがそうなのだが、おぞましい、恐ろしいものであって、あのようなグレガリスム、つまり人間の集団的状態にこそファシズムは基づいていたのであった。 pp.265-266 

いやいやいや、ジャン・ウリ、サッカーのことを全然わかってねえよ。集団がごちゃまぜじゃねえよ。ファシズムじゃねえよ。全員が他の人間の位置や向きを見ながら相互行為を行っているんだよ。でもまあ改めて引用箇所をよく読んでみると、サッカーの話をしているのではなくサッカー場の観衆の話をしているのだろうか。ちょっと分からないので保留。そもそも伝染とかグレガリスムとか現代思想用語、わからんしね。

そんなことを考えていたら、たまたま以下のような記事をみつけた。

ボールへの到達時間を予測する――サッカーの間合い【前編】〈高梨克也〉

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/1599

ボールへの到達時間を予測する――サッカーの間合い【後編】〈高梨克也〉

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/1600

うむ、こういう感じ。ジャン・ウリもこれを読むべし。軸足とか重心とかの話が出てくると、風間やっひー理論を思い出すね!

二人称的アプローチといえば、細馬宏通『介護するからだ』も面白かった。

介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)

介護するからだ (シリーズ ケアをひらく)

 

研修生・さゆチル・Juice=Juice

ここ最近はつばきファクトリーに夢中である。どのように夢中であるかを書くのはまた別の機会に譲るとして、とにかく夢中なのでメンバーのブログを読んだり、まとめサイトの過去ログを読んだりするわけだが、そうするとハロプロ研修生の知識が足りないので分からないことが出てくる。私の研修生の知識は、金子りっちゃんがリーダー格だった辺りで止まっているから。同期とか上下関係とかがわからないまま読んでいると、出てくる登場人物が多いのでこんがらがってくる。というわけで私は自称歴史家なので、ここはひとつ年表を作ってみた。

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作ってみてわかったことを書いてみよう。

最初の世代は、ハロプロエッグの大粛清を生き残った世代。ベリキューや全盛期のモーニング娘に憧れた人たち。ちゃんさんとか。こうして年表にまとめると田辺さんの記入する箇所がないのか。2014年11月まで活動していたということは9期10期11期12期12期スマ2期J=Jスマ3期カントリー結成まで落選している可能性が。11月4日に研修活動終了の、同月5日がカントリー結成のプレスリリース。山木さんがカントリー顔合わせで集められた時「てっきり研修生の子たちかと…」言うてたなかには「田辺さんいるかも」という感じもありそうか。

次に入ってきたのが 2010年の9期オーディションおよび2011年の10期オーディション落選者たち。恐らく月島きらりしゅごキャラや プラチナ鬼を見て憧れた人たち。研修生11期のはまちゃん辺りから少し毛色が変わる。

その次の世代が2012年の11期オーディション落選者たち。加賀一岡辺り。研修生は研修生オーディションを受けるルートもあるらしいけれど、実際にはモー娘オーディションに落ちた人達の受け皿よね。そんななか、りこりこはバックダンサーになるためにモー娘オーディション関係なく研修生オーディションを受けたらしい変な人。2015年1月に先輩風を吹かすはまちゃんズがこぶしファクトリーに選ばれた後で、研修生のリーダー格になった人達。

その次が2013年の12期「未来少女」オーディション(合格者無し)や2014年に再募集された「黄金」オーディション受けた人たち。2013年落選組が研修生20期で2014年落選組が22期と24期。この辺りがいわゆるさゆチルドレン(さゆチル)か。さゆがリーダーになったモー娘に憧れた人、『One・Two・Three』新規。

おのみずと前ここ、それまでは研修生オーディションを受けたとしか聞いてなかったけど、この年表を作っているときに「黄金」オーディション落選組とブログで読み、さらにハロショのイベントではカントリー娘オーディションを受けたという話も聞いた。この辺りはモーニング娘に落ちて、その中からカントリーガールズを受けさせてみてまた落ち、落ちた人を研修生オーディションに誘うみたいな流れなのかなと推測するが、正直よくわからんね。まあ実質さゆチル。年表を気づいたが、小野瑞小野田秋山辺りは研修生として「新世紀」オーディションを受けて落選からのつばきファクトリー追加だったりするのかな。素人時に1回受けて研修生になってもう1回受けて落ちたら「あんた、モー娘ってキャラじゃないんだよね」という宣告ありか。

よこやんは年齢的には12期オーディションを受けられたのだけれども勇気がなかったらしく16年の「新世紀」オーディションまで遅れてしまったけれど、これもまあ実質さゆチルと考えて いいだろう。

道重人気で集めたオーディションには落選者でも良い人材が取れたので、研修生としてキープした人数も多いしデビュー率が高いのも道理である。

カントリー娘新メンバーオーディションは 該当者なしの結果で、その後で12期オーディションの落選組から人材をかき集めてカントリーガールズになった。普通に考えて、同時期に募集したらカントリー娘の方に人が集まるわけないよね。10期オーディションとスマイレージ 2期オーディションが重なっているのも似たような感じ。変な募集の仕方をするよね、アップフロント

以上は、知っている人は最初から知っていることを遅れてきた人が改めて確認してみましたという話。年表を作ってみてふと気がついた個人的にすごい発見は、Juice=Juiceのこと。タイミング的に12期オーディションに参加させたくなかったんだなと。性格に癖があってモーニング娘に加入することは絶対にないんだけど、実力に疑いはなくて最終合宿に参加されてオーディションをかき回されると困る人たち5人(宮本高木大塚植村金澤)を同じ箱の中にまとめて放り込んで 常識人の宮崎さんをリーダーにしてくっつければなんとかなるだろう、みたいな。

このようにリアルタイムではわからなかったことを史料を見直して改めて発見すること、あるいは歴史を解釈し直すことがある、というのが歴史家の醍醐味である。

佐々木実『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』

 

市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像

市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像

 

佐々木実『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』(講談社、2013年)は、今や日本のパブリックエネミー第1位といってもよい竹中平蔵の人物評伝である。

著者略歴をみると、佐々木は91年に大阪大学経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社し95年に退社してフリーランス。取材のイロハだけ学んで辞めたのか。竹中が1987年から大阪大学経済学部助教授という事は講義をとっていたかもしれない。在学中から竹中の事を「まともな論文も書かない胡散臭い奴だな」くらいに思っていたら、あれよあれよと出世して日本全体に影響を及ぼす胡散臭さを発揮し始めたから、初期に関わったケジメとして取材を始めたとかかなあ。

なので、基本的に竹中はすごく批判的に書かれている。竹中は、70年代終わりから80年代初めに米国で流行ったサプライサイドの経済学に影響を受け、設備投資の研究が専門とのこと。竹中のやってきたことは89年の日米構造協議から90年代の年次改革要望書に至るまで米国の要求と重なるのだけど、最後まで読んで、竹中は米国の要求を丸飲みしてグローバリゼーションに対応した日本を作ることが世のため人のためだと心から信じているのか、あるいは米国に弱みでも握られているのかと思うほど脅されてエージェントをやっているのか、それとも実は政治経済には興味がなくて自分の個人資産を増やすためにあれこれ利用しているだけの小物なのか、本書を読んでも正直よくわからない。

批判的に書かれているけど、挿入されるエピソードを読むと、竹中はチャーミングである。

 

香西泰エコノミスト

「研究者としての才能にもう一つ付け加わるのが、『仕掛け人』『オルガナイザー』『エディター』としての腕前ではないだろうか。人のよい私など、氏の巧みな誘いに乗せられて、感心しているあいだに仕事は氏の方でさっさと処理していてくれたという経験が、何度かある。この才能は、あるいは大蔵省で長富現日銀政策委員などの薫陶をえて、さらに磨きがかかったものかもしれない。これは学者、研究者、評論家には希少資源であり、しかも経済分析が現実との接触を保ちつづけていく上で、貴重な資源である」p.91 

 

越田文治(仮名・藤田商店社員)

「ほんとうにそつがない。口がうまくて、どんな会議の席でも、誰が聞いても納得するように話ができましたね。藤田田さんも竹中さんを信頼していたと思います。小泉政権ができて竹中さんが大臣になったとき、藤田さんは大いに喜んでいましたよ」pp.110-111

 

鈴木崇弘(東京財団

「国際的なコミュニティでは、頭がいいだけでなくて、見せ方、スピーチとか表情、チャーミングであるかどうか、そういうことが大事。安全保障政策にしろ経済政策にしろ、国際的コミュニティといってもインナーサークルなんです。インナーサークルに入れるかどうかは、国際会議でおもしろいことをいって目をかけられるとかそういうことが重要になる。肩書とかじゃなくて、おもしろい話ができれば気に入られる。竹中さんは気に入られていたと思います」p.126 

 

相沢英之自民党税制調査会長)

「なかなか世渡りが一流だな。打たれ強いというのかあれだけ叩かれても、内心はどうか知らんが、竹中はシャーシャーとしていたな。あれはうまいから、『そうです、先生のおっしゃるとおりです』とかいう。そのときだけはね」p.167 

 

大塚耕平民主党議員)

「問責決議案が否決されていなかったら、竹中さんは高木長官を辞めさせていたかもしれない。しかし、竹中さんは問責決議案否決の政治的意味も考え、『高木には責任はなかった』という方向に舵を切った。竹中さんの賢いところだけど、逆転の発想で、これで高木長官に貸しがつくれたと考えたんでしょう。それからですよ、髙木が竹中の手下になるのは」p.220

 

南部靖之パソナ創業者)

「竹中さんとの出逢いは、ずいぶん前のことになりますが、飛行機の席で隣り合わせになったのがきっかけです。話が弾んで、それからずっと長くお付き合いをさせていただいております。ボストンのハーバード大学で教えてらしたときは、私もアメリカにいましたのでアメリカでもおめにかかることがありました」p.326 

人たらしよね。この初対面の人を魅了する感じ、(善悪の価値を問わない本来的な意味での)サイコパス的な人なのかもしれない。

佐々木は「おかしいのに、なぜか問題なしになった」「~なのに、なぜか不問に付された」みたいな書き方をいくつかしているんだけど、竹中のやっている事はだいたいが「法律的には限りなく黒に近いグレー、かつ慣習的にはアウト」パターンだから、捕まらないのは分かるっちゃ分かる。紳士協定は平気で破る、「やあやあ我こそは…」の時代に銃乱射する、そういうタイプ。むしろ竹中から見たら因習を足蹴にするからこそ改革派なわけで。まあ、やっぱりサイコパス

佐々木は、竹中は東大コンプレックス、博士号コンプレックスみたいに卑小な人物像を描こうとするんだけれど、竹中的には「あると便利だから、グレーな手段を使って取得するよ」くらいの軽いノリだと思う。「あいつには負けなくない」とか「今に見ておれ」みたいな事にはあまり関心がないように見えるのだが。まあ、やっぱりサイコパス

佐々木は竹中の人間性の低さ、使う手口の悪辣さを描き出そうとするのだけれど、読み手としては米国流グローバリゼーションを日本に導入したその政策的是非を知りたいという気持ちもある。切り分けると竹中という人が伝わりにくいのも確かだが、どうも矛先の向ける方向に迷いがあるようなないような。違うか。佐々木は、政界に影響を与え金融業界と癒着していてついにはリーマンショックを引き起こした米国の経済学者に憤りを感じているのが主で、少なくとも一流の論文を書いている米国の経済学者と比べてまともな学術論文も書かない二流研究者ですらないくせに政界に影響を与えたがるところだけは米国を真似る竹中はさらに軽蔑している事は従、という感じか。「なんでこんなショボい奴の評伝を書いているんだろう、オレ」感はある。

本書のハイライトは、金融担当大臣就任から「竹中プラン」策定、自殺者まで出したスケープゴートとしてのりそな銀行破綻を書いた第5章と第6章だろう。私が編集者だったら、ここを第1章に持ってきて、竹中はクズ野郎という印象を読者にしっかり植え付けた上で「このショボいクズ野郎が形成されたのは…ポワワァ」と幼年時代の回想へと繋げるだろう。

1993年に小泉純一郎郵政民営化を言い出したのに合わせるかのように米国も郵政民営化を要求し始めた時、狙いは簡保郵貯だったのだろうけど、その時にインターネットがこれだけ発達して郵便事業がこれほど落ち込むとは予想していただろうか、みたいな事は考える。2006~2007年頃に「そろそろ団塊ジュニアを救わないと、流石に人口動態的にもヤバいんじゃね?」みたいな空気が流れ始めた矢先にリーマンショックがやってきたのといい、頭で考えた社会計画と予想も出来なかった社会変化のめぐりあわせの悪さってあるよね。

私は1974年生まれで、90年代初め、学生の頃は財政再建規制緩和既得権益打破、談合を無くせ、無駄な公共工事反対、そういう朝日新聞的リベラル(not左翼)に囲まれて育った実感がある。それが21世紀になる頃には構造改革となり、その後は大阪維新的なしばき上げ上等な所まで行きつくわけだけど、それらがどこから始まったのか知りたい気持ちはある。いま自分を含めた低所得者層が痛めつけられているのも小泉・竹中のせいにするのは簡単だけど、「無駄を無くせー」と調子に乗ってた過去の自分に復讐されているのではないかという事実から目をそらすわけにはいかないという思いもある。

財政投融資って、自分が学生の頃にはよく聞いたけど最近聞かないなと思ったら、この本を読むと橋本行革を経て2001年には一応片付いた話だったのね。2001年4月に行われた自民党総裁選、みんな橋本龍太郎が勝つと思ってたわけじゃん。なんだかんだ最大派閥の橋本派(旧経世会)だし。そしたら、小泉フィーバーが起きて、地方県連の票が小泉に行って、地滑り的大勝利になったわけじゃん。あの時の「橋龍的な自民党にはもううんざりだ」という空気があった事はごまかしてはいけないだろうよ。あの頃の空気を覚えていれば、橋龍が勝った世界線を想像するというのは意味のない事だけれど、新自由主義ぽくない2019年の日本というのはあり得ただろうか。