パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

ホネカー『私の歩んだ道』

ボロフスキ通りはアレキサンダー庭園の西にあり、古参ボルシェビキ党員でレーニンの親友であり、戦友でもあったボロフスキにちなんで名づけられたもので、彼がスイス駐在ソ連大使として白衛軍の手先の凶弾に倒れ、その遺体がローザンヌからモスクワに運ばれた時、ベルリンの共産党員は当時のシュレジア駅(今日、ドイツ民主共和国の首都で東停車場と呼ばれている)に集まり、死者に敬意を表した。夜、たいまつと赤旗が並ぶこの即席の追悼式では、カール・ラデックがこの人殺しのあと押しをした者たちの罪をあばいたのだった。

エーリヒ・ホネカー『私の歩んだ道―東ドイツDDR)とともに』pp.46-47

検索すると、ボロフスキというのは1923年5月10日に殺されたVatslav Vorovskyという人の事だった。ボロフスキのほかチチェーリン、リトヴィノフ、ヨッフェ、カラハン辺りが職業外交官として表ルートから西側と関係改善を図る係で、ラデックはコミンテルンを通じて各地に革命を輸出する係だったという解釈でいいのかな。1923年といえば、ドイツで革命騒ぎが起きて鎮圧された頃。スイスやイタリアでは外交会議してたんだなあ。ドイツでの革命の機運も無くなっちゃったし協調外交路線で行こうか、というわけで陰謀家ラデックはお払い箱になった感じか。

ホーネッカーといえば、私が社会的動物になった頃には既に国家元首で、中学生の時に失脚し、高校生の時に亡命し、大学生の時に死んだ。現代史の人って感じ。ラデックはもちろん歴史上の人物。1919~23年辺りまで「革命!」と騒いでいたスパルタクス団(とその後継)と、事務処理能力・行政能力が高そうな奴が出世する社会主義統一党がどうも繋がらないのよね。まあソ連東ドイツが無くなった後で物心がついてドイツ史の研究を始めた人なんて、もっとピンとこないのだろうけど。

ウィキペディアをみると、ヴィルヘルム・ピークはスパルタクス団にも参加した古参、ヴァルター・ウルブリヒトはモスクワの覚えがめでたい人、オットー・グローテヴォールは戦前SPDで要職も務めたけど戦後の社共合同に正統性を与えるために担がれた人、という感じか。ザールラントの帰属を決定する住民投票時に、ホーネッカーがヘルベルトヴェーナーと自転車キコキコとキャンペーンに回ったというどこかで読んだ小ネタが好きなんだけど、社民党共産党を行き来する感覚もちょっとピンとこない。

余談だが本書の最終章にホーネッカーのインタビューが載ってて、インタビュアーはロバート・マックスウェルだった。共産主義へのシンパシーを隠さない西側の人というポジションから東側の指導者から指名されたりしたのだろうか。当時の空気、よくわからんね。 

私の歩んだ道―東ドイツ(DDR)とともに (1981年)

私の歩んだ道―東ドイツ(DDR)とともに (1981年)