パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

難民とハンガリーと私と時々メルケル

9月の初めくらいから何か書いておかないといけないとは思っていたが、自分の言いたい事をうまく伝わるように書ける気が全然しないというか、そもそも何を言いたいのかも自分のなかで整理されていなくて、放置していたのだけど、あまり放置しておくとタイミングを逃すのが常なので、なんとか今のうちに書いておこうと思う。

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1993年12月19日に放送された『NHKスペシャル』「ヨーロッパ・ピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」を見てピクニック計画にかぶれた当時の私は、計画5周年の翌年8月19日にはピクニックの現場であるハンガリーの町ショプロンにいる事にした。

実際にはピンポイントでショプロンに向かっても面白くないので、ウィーンから鉄道でリュブリャナスロベニア)→ザグレブクロアチア)→ペチ(ハンガリー)→ブダペスト→ショプロン→ウィーンと移動した。

で、1994年8月19日、ショプロンで特に何かのイベントには遭遇しなかった。おそらくは実際に何の記念イベントもやっていなかったわけではなく、今みたいにネットに情報があふれているわけでもない時代に、情弱でコミュ障の外国人が現地に行っても何も見つけられなかったというのが正しい。仮に町はずれの国境で何らかのイベントをやることを察知していても、たぶんバスやタクシーにびびってたどり着けなかっただろう。

(ただ、計画に関与した日本人女性・糸見偲氏のエッセーを読むと、1995年の国境は何もない野ざらしで、それを見た糸見氏が記念公園の設立を思いついたそうだから、1994年だとそれこそハンガリー人からもドイツ人からも忘れ去られた計画だった可能性も高いと言い訳しておく)

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そんな私の薄い旅行体験だけど、そんな私でも、中東からの難民がクロアチアセルビア方面からハンガリーに向かって大平原を歩いている映像や、ハンガリーとオーストリアの国境で止められている映像を見ると、やっぱり何か思うところがある。その思う何かがまあうまく言えないんだけど。とりあえずは「当時世界に響き渡っていた金持ちとして信用ある日本国のパスポートによって軽々と自分が越えた国境を越えられない人がいるんだ」みたいな感じ。

ここで唐突にメルケルの話。

無難で知られるメルケルに、感情的になったメルケル

一般にドイツが難民を受け入れるのはナチスの経験がうんたらかんたらと言われるけど、少なくともメルケルに関しては違うんじゃないかと思う。ご承知の通り、メルケル東ドイツ人。こないだメルケルの伝記らしき本をざっと読んだけど、基本的には「東ドイツにも良いところはあったのに…、西ドイツに吸収合併されたのは残念」とか言わない人。国境が開いて、ドイツが統一されて良かったと思っている人。研究者として西ドイツへ出るくらいの自由はあった身分だったけど、東ドイツの体制は滅んで当然と考えている人。ここからは推測だけど、本人の中身は30代半ばまで過ごした東ドイツのメンタリティで出来ているのではなかろうかと思う。統一ドイツの政治家として成功するために、旧西ドイツ由来の思考作法と振る舞い方を必死で身につけてはきたけれど。そんな隠れ東ドイツ人(東ドイツから難民として西ドイツに来た人)のメルケルハンガリー・オーストリア国境の難民のあの映像を見て、感情的になるのはむしろ当然。ピクニック計画を思い出さずにはいられないもの。あの時ハンガリーが国境を開けて、東ドイツ〈難民〉を西ドイツへ行かせてくれなかったら、ベルリンの壁も崩壊してなかったかもしれないし、ドイツも統一されていなかったかもしれない。「いや、いずれ近いうちに東側の社会主義体制は崩壊していたよ」という意見もあるだろうが、あの日あの時あの場所で国境が開いていなければ、その後どうなったかなんて誰にも分からないし、メルケルの運命だってどうなってたなんて分からない。1990年元日の新聞を開いてごらんなさい。偉い先生が「まずは東西通貨同盟を」「国家連合を形成して10年後をめどに対等合併か」とかしたり顔で書いていた。実際、冷戦が終わって25年経つのに、1991年には世界選手権に南北合同代表とか送っていたのに、今も南北分裂したままの民族国家だってある。そう、物事にはタイミングがある。難民には「いずれ、そのうち、受け入れ準備が整ったら…」なんて言っていけない。いま行動しないと。メルケルにはそんな思いに駆られる動機があった。

(このメルケルパートは後から思いついたので前後の文章とは脈絡がないけれど、私の自分語りよりも実があるだろうと思って残す)

 

強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略

強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略

 

いま働いているグループホームには北朝鮮から引き揚げてきた人が2人いたこともあって、私は引揚者のドキュメンタリーを割とチェックしている方だと思う。そもそもは旧東欧ヲタだったから、オリンピック開いてた国が10年後には大量の難民が発生し、オリンピックスタジアムは墓地、なんて事実も知っている。だけど、まあ自分が難民になる想像は流石に出来ない。想像力の限界。だから「いつ自分が難民になるかもわからない。だからこそ難民を引き受けるべきだ」みたいな論理展開は出来ない。まあ、このまま日本の経済力が下降して、国際信用力もなくなって、日本国のパスポートを見せても帰りのチケットとか滞在ホテルとかしつこく聞かれる未来は想像できなくもないが。

私は報道写真=静止画像というのは撮影者や編集者の強烈な意思を反映しているプロパガンダだと思っている(動画だともう少し隙というか無駄な情報がどうしても入る)。だから、日頃から静止画像を見ても心を動かされないようにしようと心掛けているし、実際例の溺死した赤ん坊の報道写真を見てもそんなに心動かされることはなかった。下衆な言い方をすれば「(類似の出来事は何か月も前からあったのに)この画像がいま突然世界中を駆け巡っているのは誰がどんな意図をもってやっているのかなあ」みたいな冷笑主義者的反応をした。

そんな私が、動画とはいえ中欧を行く難民の姿を見ると何かを感じずにはいられなかったというのは何とも不思議な体験だった。体験と結びついた記憶というのは何かを呼び覚ますものだなと。思い入れというのは判断を誤らせたりするものだなと。メルケルさんの気持ちは分かるよと。たぶんそういう事をこの文章で言いたかったのではなかろうかと思う。

余談だが、今回この文章を書こうと旅行の事を思い出すため、久しぶりに自分史史料の箱を開けてみたらびっくりした。チェコ・スロバキアポーランドハンガリーの大使館にビザの申請をする封書が残っていた。そう、あの頃はビザが必要だった! すっかり忘れていた。「軽々と国境を越えられる日本国のパスポート」じゃねえよ。記憶の捏造だよ。うん、思い出した、大変だった。申請書を送ってもらい、記入した申請書とパスポートを送り、ビザ貼ったパスポートを受け取り、を4カ国分郵送でやった地方人。2か月前くらいから始めて出発までに全部揃うか不安で不安で。旅慣れた人だったら隣国でビザ申請して1日で取れるとかいう話もあったけど、そこまでギャンブルする勇気はなかった。