パロップのブログ

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ジャック・ティベールによるバヒド・ハリルホジッチ

リール、それはわれわれの現代世界にあって、驚異的な人物バヒド・ハリルホジッチ監督によって率いられた1クラブ、1チーム、一時代前の男たちの風変わりな物語だ。

ジャック・ティベール(中村一夫訳)「欧州フットボール春秋」『週刊サッカーマガジン』より(以下引用箇所は同じ)

日本代表の新監督バヒド・ハリルホジッチについては、ディナモ・ザグレブ時代、アルジェリア代表時代とも既にかなりのエピソードが紹介されているので、インターネットの海に何か新しいネタを提供できないかと考えた結果、10数年前の雑誌コピーを引っ張り出すことにした。出典元の正確な発行日をメモっていなかったのは痛恨だが、リール×パルマ戦の後だから、恐らく2001年8月か9月頃の記事だと推測される。リール×パルマ戦の内容に関しては、河治良幸氏が素晴らしいコラムを書かれている(「名将ハリルホジッチのジャイアントキリング。司令塔・中田英寿を封じた伝説のパルマ戦」http://www.footballchannel.jp/2015/03/12/post76455/)。

かつての大プレーヤーで、ベレス・モスタール、ナント、パリ・サンジェルマンセンターフォワード、第一級のストライカー、83年フランス・チャンピオン、ユーゴスラビア代表の彼は、技術、集団感覚、得点感覚、両足のシュート、ヘディング・プレー、優雅さを持つ完成されたチャンピオンのスタンディングと資質を有していた。

ジャック・ティベールはフランスサッカー専門誌の記者で、欧州チャンピオンズカップを第1回から見ていて、プスカシュやデステファノと知り合いという欧州サッカーの生き証人みたいな人。とはいえ、チャンピオンズリーグやEUROの記事は独自の面白さは薄くていたってオーソドックスだしレジェンド選手との交友録は爺さんの自慢話ぽいし…で、彼の記事で一番面白かったのは、日本人の誰も興味を持たないようなフランス国内リーグの70~80年代思い出話だったかもしれない。

出来損ないのチャンピオンズ・リーグ予選のまったく興味のない数多くの試合。それにバカンス中の新聞の読者たちにとっては、前者と区別がつかないインタートト・カップの各試合のなかで、一面の砂の広がりを突然灯台の明かりが照らす試合があった。パルマ対リール戦だ。

「欧州フットボール春秋」は『週刊サッカーマガジン』に長年連載されていたコラムで、フランスローカルネタが多過ぎることからフランスのサッカー誌に掲載されたコラムの翻訳転載とも思われたが、他方ナカータやらトルシエやら日本代表の欧州遠征やらを主題に書くこともあったので、サカマガ用に書き下ろしていたのかもしれない。たまに編集部からお題設定が届く以外は自由に書いて良いという感じだろうか。邪推すると、このコラムも元はサカマガ編集部から「チャンピオンズリーグで戦うナカータについて書いてくださいよ~」的な依頼があり、(試合前)「あー、めんどくせ、8月はバカンスの季節だよ、予備選なんて興味ねえよ」→(試合後)「やたー、リールが勝ったぞー、ナカータにかこつけて日本の雑誌でバヒドについて書くぞ、ヒャッハー!」だった可能性もある。ちなみに今回引用したコラムのうちバヒド部分は全体の約3分の1で、残りは全て金儲けに走る欧州サッカー批判である。というか、そもそもティベールはチャンピオンズカップが国内王者にならなくても参加できるチャンピオンズリーグに改悪されたことをいつもいつも批判し続けていた。

以下、ティベール爺が嬉しそうに引用するバヒド語録を更に引用す。

ハリルホジッチはトレーニング、勇気、正直さといった大変単純だが、無慈悲なまでに適用された価値をベースに彼の仕事を企てた。彼は言葉の厳しさ、過酷な要求で驚かすが、価値と技術で、大変平凡なプレーヤーたちの賛同を獲得する。彼はプレー組織、確固たる諸原則を敷き、選択し、役員たちに、クラブの安定を強要する。

「私の仕事のやり方には、あまり即興部分がない。毎日、厳しくならなければならない。報いをもたらすのは、日常の仕事だけだ。そしてリールのプレーヤーたちは、それを理解した。われわれは毎日大変なトレーニングをしたし、彼らの一部は2年間に100%の技術進歩を遂げた。突如それは、集団の改善をもたらした」

01-02年にリールはイタリアでパルマを2-0で打倒した。

人々はどうしてこんなことが可能なのかと問い、そしてハリルホジッチは「大事なのはプレーしかなく、それに意欲だ。私はシステムを信じ、プレーヤーたちに彼らの資質を考慮せずにその適用を強いる監督ではない。私のチームは当然ながら、プレーヤーたちの資質に、つまり基盤に適応したものでなければならない。次にプレーの質とボリュームで進歩しなければならないが、チームは昨シーズンにそれを成し遂げ、さらに進歩し続けている。まったく大きな満足だ。3年来この調子だ」と答える。

欧州の戦いで8年来どのチームも勝ったことがないパルマで、2-0で勝った。「歴史的だ!」とハリルホジッチは認めた。試合前の数日間、彼はプレーヤーたちに仕事をかんで含めるように説いていた。

「われわれはトータル・フットボールをプレーしよう。10人で守り、6人か7人で攻撃しよう。われわれは中盤で彼らを抑え込み、中田を動けなくさせ、それにわれわれが1、2度の機会を具体化するのは難しいことじゃない」

この2-0の勝利以来、ハリルホジッチは「リールがもう無名クラブではない」ことを認める。彼はこの数日後に再び現在の8倍の給料でイングランドのクラブからの申し込みを受けたが、それを拒否した。

「私は金が一番重要ではないと考える最後のバカ者の一人だ。私の資本、それは私の仕事、私の能力だ。いつか私はリールかどこかでもっと支払いを受けよう」

ここまでの“バヒド語録”もなかなか面白いけど、個人的には日本語圏ではあまり知られていないボスニアからフランスへ渡った頃のエピソードが興味深かった。

「わずかな人々しか、私に手を差し伸べなかった。だが私はフットボーラーとして、わずかながらも足跡を残したと考え、もう少し支援を、特にナントの人々の支援を受けることができると思っていた。だがそれが人生で、早々に忘れ去られる」

ボーベの監督としての束の間の経験後に、彼は2年間、フランスの300万の失業者の一人となる。有能と称されるクラブ会長のだれ一人として、この非凡だったチャンピオンの、その強烈なパーソナリティーで知られるこの技術者の能力を試そうとは考えなかった。

フランスというか欧米は全体的にもっとレジェンド選手を大切にするし難民には温かいと思っていたので、これは意外だった。ただフランスのために弁明するとすれば、フランスは指導者ライセンスに厳格で、故郷ボスニアに帰ってからはサッカーから離れて実業家として暮らしていた人間にいきなり監督業をさせなかったのも、それはそれで一つの見識だろう。結局、97年にモロッコに渡ってカサブランカで実績を残して(あるいはモロッコで指導者経験を積んだことで指導者ライセンスの問題をクリアして)、98年にリール監督に就任する。逆にいうと、バヒドの凄さは、旧ユーゴスラビア出身でフランス国籍保有者なれども、名将を生み出すことで知られるユーゴの体育大学やクレールフォンテーヌで指導者ライセンスをとったわけでもなく、独学で指導者として実績を残していることかもしれない。

(2015/5/30追記:フットボール批評05』のハリルホジッチ特集によると、ユーゴスラビアでもフランスでも指導者資格を取得しているとのこと。フランスで取得した時期がボーベ以前なのか以後なのか記事によって見解が分かれているのはご愛嬌)

 

 

 

 

※余談

97-98シーズンから欧州CLの放映権を獲得し、我らのナカータがCL出場権を持つパルマに移籍して大はしゃぎし、無名の選手しかいないリール相手の予備選3回戦なんて楽勝だと思い、捕らぬ狸ならぬ1次リーグの皮算用を弾いていたWOWOWのサッカー中継関係者にとって、ハリルホジッチの名前は悪夢のような経験として刻まれているはず。 

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