パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『Nスペ』「クジラと生きる」

2011/5/22初回放送、50分、撮影:富永真太郎、取材:遠山哲也/西村喜良、ディレクター:鵜飼俊介/大坪悦郎、制作統括:猪俣修一/大塚秋人、制作・著作:NHK・大阪/和歌山
番組は、海外からの批判に曝されて戸惑う太地町民の生活を描くのが狙いで、捕鯨賛成/反対の主張を両論併記するのが目的ではないだろうから、他の人が書いていたような批判、水銀濃縮がどうとかが描かれていないのは全く問題ない。
ただ視聴前の期待値としては、ある生活文化を当事者の側から、一段上のレイヤーから描くのかと思いきや、「日本には他の国とは異なる独自の食文化が根付いているのです」(「いたのです」ではない)、「食べる為に生きものの命を奪う、それは人間の宿命です」(あれ、ベジタリアンは?)など地の文のナレーションが、捕鯨推進側(国・漁協)の広報文書的で、ディレクターが自分で考えてない感があり、残念。捕鯨を文化相対主義(しかも食文化の問題に矮小化)の問題として描いているのに、ナレーションが割と「これは日本の文化なんだから批判するな!」という価値観で固まっているので、座りが悪い。太地町の側から描くのと、太地町の言葉を代弁するのは、似ているけど違う。
だからラストで「クジラを食べる国、そしてクジラを食べない人達、異なる二つの価値観は、激しくぶつかり合ったままです。クジラを食べる人々の暮らしや文化は、やがて消え去ることになるのかもしれません」とナレーションされても、ここまでの流れを考えると、被害者意識を冷静さにすり替えたディレクター氏の“上手い事言ってやったぜ”的なドヤ顔しか浮かんでこない。
もちろん、漁師の妻さんの「これが長く続くようだったら、多分町の人に嫌われるんじゃないかな…」という告白とか心情をリアルに描いた良い場面もあった。漁師の方々が発する生活に根差した言葉もすごく重かった。素材は良かった。ナレーション付けた構成・演出が悪いだけで。文化の問題を描き切る力量がないなら、批判に戸惑う漁師・家族の肖像に焦点を絞った人間ドラマにした方が良かったのではないだろうか。
ドキュメンタリー作家は「太地町の漁師さんは、自分達を被害者だと自己規定しているみたいだけど、果たして本当にそうかな…クックック」と内心思っているくらい底意地が悪くないと駄目だろうと思うのだが、これは何というか英雄を多面的な人間ではなく肯定的に英雄のまま描いてしまう「プロジェクトX」〜「プロフェッショナル仕事の流儀」的なNHK病なのか。視聴中にふと思ったが、検索したらディレクターがホントに上記の番組を作っていてさもありなん。
余談:ナレーション「小さな町で続く国際紛争、その波は『クジラ漁は町の誇り』だと教えられてきた子供たちにも押し寄せていました」、公教育で一つの産業を「故郷の誇り」と価値観を提示して押し付けることがどうなのかとか考えると面白い。自衛官の息子に日教組先生のエピソードではないが。そもそも田舎の中学生って、その田舎性やら親の職業やらが一番嫌な年頃で、そうした考えを口にする事自体も咎められる雰囲気自体も嫌いだと思うのだが、そういう面を無視して屈託なく品行方正な子供たちだけを映す、そして映った事実だけを事実として提示するようなら、ドキュメンタリーは山本直樹のような想像力を持つ漫画家の作り話には勝てないような気がする。
余談:他の食肉加工場は私有地としてクローズドできるけど、海はパブリックスペースだから漁業権などは制限出来ても、侵入・撮影などは制限できないのも面白い。海辺で水着の女性を撮影している人間を捕まえる迷惑防止条例を流用出来そうな感じもするがどうだろうか。
余談:福岡のスーパーマーケットには毎日鯨肉が並んでいる。毎日って事は需要があるのだろう。岡山ではまず見なかったし、たまに見かけた時は「珍しいものが入荷しました!」(けど、お客さんに食べる習慣ないし、売れないけど生鮮業者との付き合いもあるし…ねby店長)という商品に思えた。他の地域だとどうなのかは知らない。自分の周囲でいつも見かけるものを“根付いている”と勘違いして、文化・伝統だと言いがちなので気を付けないと。特に 首都圏のマスメディアの皆さんは首都圏=日本という発想をしがち。