パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

ゼロ年代の“TV”ドキュメンタリー

この処TVドキュメンタリーについてほとんど更新していないが、TVドキュメンタリーを見ていないというわけではない。いや、見てメモを取ったままにしている番組もあれば、録画したまま見ていないのが沢山あるというのが正確な処か。というのも私がドキュメンタリーについて書きたいのは、作品の内容ではなくスタイル、作品単発ではなく制作者についてだとおぼろげながら分かってきたものの、まだうまく書くための視点・言葉が見つからない。先に視点を整理しておかないと見る事が出来ないので、ではとりあえずあまり関心が湧かない番組から見るか…という事になる。
そんなわけでリアルタイムに見たドキュメンタリーについて書けない。その代わりといってはなんだが、2000年秋から始めたTVドキュメンタリー視聴日記を振り返りながらゼロ年代のTVドキュメンタリーをまとめてみたい。ちなみに私が見ているTVドキュメンタリーはほとんどがNHKで放送されたものなので、その辺りの偏りはご了承を。
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(1)公共性、期待権、あるいは長い前書き
ゼロ年代のTVドキュメンタリーは、その後10年尾を引いたという点で2001年1月30日放送の『ETV特集2001』「戦争をどう裁くか〜問われる戦時性暴力」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20010131)でスタートしたといえるかもしれない。本質的にはドキュメンタリー制作者は権力とどう向き合うかという問題だったかと思うが、それは既に多くの当事者がちゃんとした所で議論されているので、以下では2つ、公共性と期待権http://d.hatena.ne.jp/palop/20070211)について触れる。
私は未見だが、2002年4月28日に放送された『NHKスペシャル』「奇跡の詩人〜11歳 脳障害児のメッセージ」は放送後、その内容に多くの医学的な疑義・批判が出た。前述した公共という観点ではドキュメンタリー制作者が一般的な見解から外れた内容を事実と放送してよいのか、期待権という観点では制作スタッフが主人公の障害児家族に密着するなかで取材に協力してくれた家族に批判的な視点で描くことは可能なのか、両方が含まれているケースだと思ってここで取り上げた。この件だけでなく、たとえばガンや認知症の最先端医療の現場などを放送する際にも起きうる事だろう。
2007年10月28日に放送された『NHKスペシャル』〈新シルクロード〜激動の大地をゆく〉「第6集“希望”の門〜トルコとクルド・2つの思い」は、放送後トルコ共和国大使館から抗議を受けた(http://d.hatena.ne.jp/palop/20071206)。トルコに取材申請した内容と違ってクルドのテロリストに同情的なのはけしからん、というわけで、せっかく取材に協力したのに裏切られたという点ではまさに期待権の侵害だが、じゃあトルコに「トルコ政府の民族弾圧を取材したいので、クルド人居住区を取材させてください」と申請して許可が下りるか、という話である。
2006年12月27日に放送されたNHK総合にっぽんの現場』「取り戻せるか職場のきずな〜会社運動会再び」(http://d.hatena.ne.jp/palop/20070228)も興味深い。職場の運動会を取り上げたNHK、取材を受け入れた会社、双方ともどちらかといえば美談として描こうとしていたし、その意味で期待権は充分に尊重されていたにもかかわらず、ネット視聴者の反応は「ナニ、この古臭いブラックな会社、派遣社員愛社精神とか求めて…」という否定的なものだった。制作者側が狙った演出なら凄い悪意だが、制作者の意図通りに誘導されないのもまたドキュメンタリーの奥深さか。
2009年4月5日に放送された『NHKスペシャル』〈シリーズJAPANデビュー〉「第1回 アジアの“一等国”」は両方の観点からゼロ年代を締めくくるにふさわしい(http://d.hatena.ne.jp/palop/20090503)。その歴史観は一般的で公共的なのか? 日本統治の良かった面9割、悪かった面1割を話してもらった上で悪かった面1割の方だけを流すのは取材に答えてくれた台湾人の期待を裏切るものではないか? そんな批判もあり、どうやら今は裁判にもなっているようだが、そこには言及しない。面白いのは、別の放送局が番組内でインタビューに答えていた人に取材して検証がされたこと。すごく良いことだと思う。ある放送局が取材したものを他の放送局がチェックを入れる。出来れば、放送された分だけでなく、未放送の素材もネットに上げて、誰でも検証可能になれば更に良い。たとえ1局が偏って放送しても、それが複数局あれば全然違う。
以上の例を上げて、私が思う事。NHKのドキュメンタリー制作者はもっと逃げて良いじゃないか。リスクを分散させたら良いじゃないか。歴史観・科学観を問われないようにしようじゃないか。具体的にいえば、番組の元ネタを公表するべき。「○○教授のこういう学説に基づいています」「皆さんが習った教科書では違ったかもしれませんが、これが最新で、学会でも通説です」「××に基づいて独自の取材をしました」、そういう担保を取れば、抗議が来た時にも、正面から説明出来るのではないだろうか。もう少し踏みこんで個人的な見解を言うと、そもそも歴史的な調査って必要なの?って思っている。多くの賞を獲った『NHKスペシャル』「十月の悪夢〜キューバ危機戦慄の記録」の書籍版を読むと、ディレクター氏が米国やソ連の公文書を読み込んで新しい事実を掘り起こした事が誇らしく書かれていたのだけど、釈然としないものを感じる。凄いのは凄いけど、それがNHKの仕事?と。大金はたいて海外飛び回ってマイクロフィルム買って古い公文書を解読するのが仕事? うーん、放送局の仕事は独自の歴史を発掘するのではなく、独自の歴史を発掘している研究者を公に紹介するハブであるべきではないかと思う。もちろん、現代の問題を追う速報ジャーナリズムにだって文書読解はあるだろうし、少し長いスパンが必要な調査報道も然り。それと歴史発掘系番組との境がどこにあるのかは大変難しい判断になるのも確かだけれど。
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(2)ビデオジャーナリズムの盛衰
2001年のアフガン侵攻から2003年のイラク侵攻及びその余波まで、NHKではビデオジャーナリストが撮影した映像で番組をよく作っていた。小型カメラとノートPCと折り畳み式パラボラアンテナがあれば、戦争の現場からリアルタイムで中継が出来る。技術革新が報道を変える。そう喧伝されたが、2004年以降そうしたタイプの番組は随分減った印象がある。理由としては、TV番組の制作費が減ってフリージャーナリストの映像を買わなくなった、あるいはTV視聴者が国際的な事件映像に関心が薄くて放送しても視聴率が取れない、その複合と推測される。そのうちに戦いの当事者がユーチューブを活用し、騒乱の現場からツイッターで実況が上がる。現場からの速報性と臨場感なら報道素人一般人の方がある時代になった。TV局の事情と技術の進歩の結果というべきか、ビデオジャーナリストは速報性ではなく継続性のある重厚なドキュメンタリーを作るようになった。綿井健陽氏は『Little Birds』(2005年)を、古居みずえ氏は『ガーダ パレスチナの詩』(2005年)を、土井敏邦氏は『沈黙を破る』(2009年)を撮り、上映会と報告会・講演会をセットに全国を巡回するようになった。撮影した人間と作品がマスを離れ、伝えたい人と聞きたい人が直接会うという形は、むしろ社会運動と結びついたドキュメンタリーのあるべき姿といえるかもしれない。
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(3)ドキュメンタリーは全て主観?
元々TVドキュメンタリー制作者でもある森達也氏は、様々な著書で現在のTVの在り方について批判を行ってきた。全てに目を通しているわけではないし、正確な表現ではなくて申し訳ないが、森氏の大意としては曰く「そもそもドキュメンタリーは全てセルフドキュメンタリー」「ドキュメンタリーに客観はなく全て主観」「なのにディレクターがカメラの後ろに回って映り込まないようにするNHKの客観主義など笑止」「TVには放送できないタブーが多い」「TVの放送禁止の大半は権力の検閲ではなく自主規制」など。大きく論点を2つに分ければ「TVには自由がない(から大した事ない)」「公正中立客観性を装ったTVドキュメンタリーは駄目」といえる。そこから、それを反転した「タブーに切り込んだドキュメンタリーこそ本物」「制作者の主観が分かるドキュメンタリーこそ本物」という風潮が、割とゼロ年代になって広く受け入れられたように感じるがどうだろう。
余談だが、客観主義のNHKでセルフドキュメンタリー的スタイルで放送される事に成功しているのが東京ビデオセンターの玄真行ディレクターだ。番組中、玄氏の質問する声がしょっちゅう入ってくる。「あなたにとって野球とは何ですか?」「戦争って何ですか?」とTOJIRO(ドグマ)並みにうるさいオッサン声が聞こえてくるので、最近は予告編に入った声だけで放送前から玄ディレクター作品だと分かるようになった。NHKでこれが許されているのは、やはりなんだかんだ実績があって面白いからだろう。考えても答えが出せないタイプの質問(あなたにとって○○って何ですか?)を不意にぶつけるのはドキュメンタリストならではで、じっくり頭で考えた理路整然とした論が聞きたいのではなく、不意を突かれた反応や表情が撮りたいのだろうとは想像出来るが(森達也氏の著作にも出てくるいわゆる電波少年の土屋プロデューサー方式)、個人的にはあまり好きな問い掛け方法ではない。
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(4)なぜTVドキュメンタリーは語られないのか
もちろん現在でもドキュメンタリーの感想を書くブログなどもあるが、大半は内容を語るブログであり、いわゆる社会問題に対する意識の高い人が多い。というか(1)で見たように何か語りたくなるような論争的な内容の場合、そもそも政治的な人を引き寄せる仕組みになっているといってもいい。
他方(2)(3)の結果、「TVドキュメンタリー或いはTVなんかに重要なものは映っていない」「規制の多いTVなんて語るに値しない」という風潮がある。私は『ドキュメンタリー映画の最前線』というメルマガをとっているが、当然そこで語られる作品のほとんどは○○映画祭で受賞!といったレベルの高い映画である。気軽に話題に上げるには重すぎ、真面目なドキュメンタリー映画と比較すれば軽すぎる。『現代思想』2007年10月臨時増刊号「総特集=ドキュメンタリー」もざっと目を通したが、やはり偉い先生が立派な傑作を小難しく語っている。
両端から貶められるTVドキュメンタリー、さあどうする?
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(5)“プログラムドキュメンタリー”という枠組み
そこでこんな反論を考える。軽くて語るに値しない? いいじゃん、軽くて。
プログラムピクチャーという言葉がある。詳しくはリンク先(http://tokyo.cool.ne.jp/nikkatsu/program_picture_no_eiko.htm)を参照の事としたいが、要するに「映画製作と興行が一体化された体制のもとで、番組(プログラム)を埋めるために量産された作品」「量産されるから粗雑だったかというとそんなことはない」「志のある監督は、しばしばプログラムピクチャーゆえの枠を守りながら、その中に自分の作家としての魂を織り込むこと成功し、撮影所が持っている優れた技術スタッフに支えられつつ、傑作、佳作を生みだした」との事である。ある種の規制・枠組みの中でも、才能と魂のあるディレクターはオリジナリティを作品に埋め込むものだ。ある種のスタジオシステムともいえるTVドキュメンタリーから将来の才能を探すことこそ、TVドキュメンタリーを語るにふさわしい視点ではなかろうか。
そもそも“TVドキュメンタリー”という時、今は“ドキュメンタリー”に比重が掛かり過ぎているのではないか。“TV”に比重をおいてみてはどうか。そういう問いかけでもある。
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(6)TVドキュメンタリーを語る場を
言うまでもなくTVドキュメンタリーはTVコンテンツの1分野であるが、他のTVコンテンツは現状でも既に結構語る場がある。たとえばドラマなら『PLANETS』や『サイゾー』で作品論や作家論が成されている。アニメはドラマに含めて語ってもいいし、アニメ専門誌だってある。お笑い・バラエティなら『QuickJapan』や『CUT』が大真面目にその才能達を吟味している。TVCMなら『CMNOW』がある。TVコンテンツとしてのスポーツ、これは少し難しい。視聴者にとって内容(試合結果)の比重が大き過ぎて、放送の在り方はあまりにも瑣末になるからだが、それでも『サッカー批評』の小田嶋隆氏や『エルゴラ』のとうこくりえ氏のように、放送文化の視点からスポーツ中継を語る人はいる。昨年のサッカーワールドカップではスカパー側の統括者だった田中晃氏が自身のブログで国際映像を作る各国ディレクターによってカット割りが全く違う事、それぞれの放送哲学に違いがある事を書いていて非常に面白かった。
では現在TVドキュメンタリーはどこで語られているか。思いつくなかにはまず『創』(http://www.tsukuru.co.jp/)がある。たまにTVドキュメンタリーについてページを割いているが、主は番組の内容についてでありドキュメンタリーの作り手に興味があるようではない。NHK放送文化研究所が出している『放送研究と調査』(http://www.nhk.or.jp/bunken/book/geppo_index.html)はどうか。基礎データとして面白い調査結果が載っていたりもするが、あまり語る場ではない。NPO放送批評懇談会が発行する『GALAC』(http://www.houkon.jp/galac/index.html)は月毎に面白かった番組を紹介してくれるユニークな雑誌だが、やはり作品中心で、そもそも放送後に面白かったといわれても…の典型ともいえる。
実はこの文章を書くために色々と調べていたら『GALAC』2010年6月号の特集が「ドキュメンタリーの楽しみ方」で、目次には「ゼロ年代の名作・話題作はこれだ!」とあるので慌てて取り寄せて読んでみたが、タイトルでもわかる通り良質な作品のタイトルを列挙する形式だった。凄かったらしいけど今は見られないといういつものケース。余談だが執筆者のプロフィールをみると、鈴木典之氏(1934年生)田中早苗氏(1962年生)河野尚行氏(1939年生)藤久ミネ氏(1934年生)という。いくらなんでも世代が交代してなさ過ぎ。やはりTVなんてもう高齢者しか見ていないのか。

こうした現状のなかで、放送後に「面白かった」と発言する事に意味をもたせるために私が目指しているのが作品中心から作家中心、内容中心からスタイル中心のTVドキュメンタリー評論である(何とか最初の問題意識に繋げられた)。
ところで「内容中心からスタイル中心」といえば、アカデミックな場で社会学方面からメディア分析の技術を教えていらっしゃる方々がいる。
テレビニュースの社会学―マルチモダリティ分析の実践

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プロセスが見えるメディア分析入門―コンテンツから日常を問い直す

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今まで意識したことがなかったので読んでいないが、物語中心のサブカル系分析とは違った内容に引きずられない見方を期待ができそうだが、こういう先生はあまりアクチュアルには活動してくれない。ブログなどで「昨日放送してたドキュメンタリーの××、こういう方向へ誘導しようとこういうテクニックを使っていたね」みたいなネタを発信していただけたらなあと思う。
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(7)次の10年に向けてサイクルを生み出そう
理想はこうだ。◎放送前にTV局・制作会社は「××という内容のドキュメンタリーを△△のスタッフで放送します」とサイトなどで告知→◎放送→◎放送後に制作者と視聴者がネットでティーチイン(討論)→◎TV局・会社はこれらに加えて未放送のインタビュー映像などもまとめてネットでアーカイブ化し、視聴者は番組内容の感想・論評をまとめる→◎最初に戻る。ちなみに上記の流れは、米国の公共放送WGBHが既に実現している事を参考としている。
こうする事で制作者の制作履歴が残り、これから放送される番組の制作者名を検索するだけで視聴するための判断材料が増える。放送前に判断材料が増えれば見る人も増えるだろうし、見る人が増えた業界は間違いなくレベルも上がる。というかそういった好循環が生まれることを期待してこんな文章を書いている。
実際NHKも今はずいぶんと頑張っている。BS世界のドキュメンタリーhttp://www.nhk.or.jp/wdoc/)は2007年以降に放送した番組の紹介記事をアーカイブ化している(ここまでするならスタッフクレジットも入れて欲しい処だが)。2007年夏に始まった『シリーズ証言記録 兵士たちの戦争』は『戦争証言プロジェクト』(http://www.nhk.or.jp/shogen/)として番組そのものはおろか未放送のインタビューまでアーカイブ化しており、NHKの本気が感じられる。昨年放送された『勤労女子ドキュメント カンテツな女』シリーズ(http://d.hatena.ne.jp/palop/20100410)では、初回放送中に制作ディレクターが番組公式アカウントからツイッターでつぶやくという試みもあった。リアルタイムオーディオコメンタリーという趣きで、視聴者の反応に即レスは出来ていなかったが、放送後から数日かけて意見や質問を受け付けてディレクターが返す形のティーチインなら充分に可能だと思われた。またつい先日は『NHKスペシャル』「無縁社会」の制作チームが、放送当日数時間前にニコニコ動画生放送へ出演し、番組の概要を語り、セールスポイントを話し、視聴を促した。
放送法の都合によりTVで流すことが出来たものがネットで流せるというわけではないようだし、番組の2次使用にも制約があるらしい。著作権や肖像権の問題もあるだろうし、TV局にも言い分があるのは理解しているが、それでも上記のような試みが個別にここまで出来るなら、それらを複合して“TVドキュメンタリーを語るサイクル”を作り出す事は充分に可能だろう。
もちろん制作側の負担は確実に増える。それは間違いない。しかし放送されている事すら気付かれずに「良質なドキュメンタリーが見てもらえない」「視聴者のレベルが低い」などと愚痴を言う前に出来る事はあるだろう。私には名前だけで見ようと思うTVドキュメンタリーディレクターが何名もいるが、こんな奇特な私ですら放送された事実を知らずに見逃すことがある。それで良いのかという問い。これは制作者個々の顔が見える事を嫌うNHKの客観主義が悪い方へ出ているといっても良いだろう。そこは変えていっても良いのではないだろうか。
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(8)おわりに〜反省と愚痴
NHK総合『ドキュメント20min』(http://www.nhk.or.jp/20min/)やBS1『アジアンスマイル』(http://www.nhk.or.jp/asiansmile/)というその名の通り20分枠の短編ドキュメンタリー番組がある。若手ディレクターの登竜門的ポジションで、NHK外部の制作会社ディレクターから企画を公募したりもしているようだ。また公式サイトにはディレクターの制作ノートも公開されており、なかなか面白い。この枠こそまさに上で書いてきたような「プログラムピクチャーの中で磨かれる個性を発掘出来る青田買い」マニアにとって必見だったわけだが、私はほとんど見てこなかった。まさに言行不一致というか先を見通す力の無さを反省したい。この週1枠を毎週見てはディレクターを採点するブログ(取材力6、構成力2、センス5、将来性3とか)を誰かやって欲しいなあ。
2010年6月28日にNHK-BS2で放送された『ザ・ベストテレビ』にて、『ETV特集』「死刑囚永山則夫〜獄中28年間の対話」のディレクターとスタジオゲストによる熱いやり取りがあった。ちょっとした試みに私はこの部分をユーチューブにアップしてみたが、約3ヶ月後に削除された(http://d.hatena.ne.jp/palop/20100710)。最初に断わっておくと、この措置はNHKが全面的に正しく、私が著作権違反者の極悪人であることは間違いない。そこは全く争わない。ただ、オンデマンドで有料提供しているようなドキュメンタリー番組の違法アップは削除し切れていないのに(ネットには結構転がっている)、恐らく再放送も書籍化もない一度きりの番組が二度と見られないのは少し残念だとも思っている。推測になるが、たとえばアップした番組に出演したパネリスト各氏のうち誰かが「おいNHK、一回きり放送なので気軽に発言して欲しいとか言って出演依頼してきたのに、ネットで出回っているそうじゃないか!早く何とかしやがれ!」と怒鳴りこんできたら、削除しないわけにはいかないのも事実。2次使用の許可を得ていないものを、無断で違法にコピー&アップされるのが常習化されたら、結局は視聴者自身の首を絞める事になりかねない。そこは難しいし、TV局の側が頑張って欲しい処でもある。
と、ここまで「TVドキュメンタリーについてもっと気軽に語ろうぜ」と書き続けてきたにもかかわらず、実は軽く抵抗を感じていたりもする。そんな卓袱台返し。ドキュメンタリーというのは現実の人間を映すこと、「ドキュメンタリー制作は一種の加害行為だし、制作者はろくでなし」というのが森達也氏の持論だが、まあその通りだろう。映された人にどんな報道被害があるか分からないし、その後の人生をどのように変えるかも分からない。少なくとも多くの良心的ドキュメンタリー制作者は加害者という立場を自覚しているし、返り血を浴びる覚悟も持っている。その中で匿名のネット論者だけが遠くから「固有名詞とかちゃんと記録に残せよ」「ずっと見られるようにアーカイブ化しろよ」と叫んで良いのか疑問はある。
次の10年を実りあるものにするために、自分自身がTV局に「あれを再放送してくれませんか」「アーカイブに上げてくれませんか」と、制作会社に「今度の放送、誰がディレクターですか?」と実名を名乗って尋ねる。そんな活動をする必要があるのかなあとは思っている。文句を言う責任というか、ドキュメンタリー制作者に対峙するため相応のリスクを負うべきというか。でもまあ正直面倒くさい。出来れば他の誰かがやってくれれば言うことない。なのでこの文章を読んで賛同出来る事があると思った方、どんどんパクって実行してください。映画『ソーシャルネットワーク』に出てくるウィンクルボス兄弟のように、後からアイディア権を主張したりしません。私の願いはTVドキュメンタリーが沢山の人に見られ、語られ、そこに付随して視聴環境がよくなる事だけです。