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パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

ソルジェニーツィンはセカイ系

最初に断っておくと、いわゆるセカイ系の作品を読んだことはない。この間WOWOWで放送していた新海誠3部作を見たくらい。なので個人的にどういうイメージを持っているかといえば、

青春の1ページって・地球の歴史からするとどれくらいなんだろう?
あ〜ぁ いとしいあの人 お昼ごはん何食べたんだろう?
モー娘。『ザ☆ピ〜ス!』より

こんな感じかと。これが前提で。

以下に引用する文章は、いずれもソルジェニーツィンの『煉獄のなかで(上・下)』(新潮文庫)から。
たとえばネルジンがルービンと議論するなかで語った言葉。

「つまり収容所で、特にここみたいな特殊収容所ではなおさらのことだが、仕事のない静かな日曜日なんていう奇蹟がおこったとしたらどうだろう? 一日のうちに心はなごんで、僕の境遇に外見上何一つ好転したものなどなかったにしても、牢獄の軛もわずかながら僕の首をゆるめてくれ、胸襟をひらいて話もできようし、読み甲斐のある本も読めようというものだ。そうなればもう僕は幸福の絶頂さ! 本当の生活なんて何年とやってはいないが、僕はそんなことなどきれいさっぱり忘れてしまう! 僕は目方がなくなり、体が宙に漂い、非物質的なものになる!! 僕は上段の自分のベッドに寝ころび、すぐ目の前の天井をながめる。天井は何の飾りもなく、しっくり塗りもひどいが、それでも僕は生きていることのしあわせにふるえる! 僕は至福の翼にのって眠りにつく! どこの大統領も、どこの首相も、過ぎ去った日曜の一日にこれほど満足して眠りにつくことはできないだろう!」(上P.65)

収容所生活の些細な日常がいちいち大袈裟に表現される。
たとえば、25年の刑を食らっているドローニン23歳が収容所に勤務している純情娘クラーラに告白する場面。

「クラーラ、またいつ僕たちがこんなふうにしてすわっていられるかわかりませんよ! 僕にはこれが奇蹟みたいに思えるのです! とても信じられない気持ちです! 僕はあなたにあこがれています! 僕は死んだっていい――今ここで!(彼はもう彼女の手をきつくにぎったりなでたりしていた)クラーラ! 僕は一生牢獄で暮らさなければならないかもしれません。僕をしあわせにしてください! どんな一人ぼっちのときでも、この瞬間さえ思い出せば胸があたたまるように! 僕に一度だけ許してください! たった一度だけ! あなたに接吻するのを!!」(上P.459-460)

恋に恋する男の大袈裟な表現だと馬鹿には出来ない。実際に「一生牢獄で暮らさなければならない」かもしれないので、リアルといえばリアル。
たとえば、ゲラーシモヴィチが妻ナターシャと1年に1度許された面会をする場面。妻はつい先日、夫が囚人だということで仕事を解雇されていた。

「ナターロチカ!」彼は妻をなでていった。「あれ以来何年過ぎたか計算してみると、いまはもう残り少なくなったよ。たったの三年だ。たったの三年……」
「たったの三年ですって?!」彼女は憤然と夫のことばをさえぎった。声がふるえだしたのを感じたが、自分の声がもうおさえられなくなっていた。「たったの三年ですって?! あなたには『たったの』でしょうよ! あなたにはすぐ釈放されるような発明は『望ましくない性質の』ものでしょうよ! あなたは友達に囲まれていらっしゃる! あなたは自分の好きな仕事をやっていらっしゃる! 誰からも押しのけられたりしないわ。ところがわたしはくびになってしまったのよ! わたしはもう生きていく手だてがないのよ! わたしはどこへいってもやとってもらえないのよ! わたしはだめだわ! わたしにはもう気力がないわ! わたしはもう一カ月と生きていられないわ! 一カ月と! わたしは死んだほうがましだわ!(中略)
ラーリク、ねえ、もっと早く自由の身になるようになんとかしてくださいな! あなたは天才的な頭をもっているじゃありませんか! さあ、何でもいいから発明してください! わたしを助けて! わたしを助けて!……」(上P.419-420)

にもかかわらず、ゲラーシモヴィチは、収容所のボスから「ドアが開くやいなやドアをはいる人間を自動的に撮る」監視装置の発明を依頼されるが、(出来たら報酬として刑期が短くなるのに)断る。ボスが問う。

「しかし何を考えることがあるんだね?これはまさに君の専門分野じゃないか!」
黙りとおそうと思えば黙りとおせたはずだった!いいかげんな返事でお茶をにごすこともできたはずだった。囚人がよくやるように、ともかく仕事を引受けておいて、その後いつまでもやらずにおくこともできたはずだった。だがゲラーシモヴィチは立ち上がり、将官の毛皮帽をかぶった、布袋腹の、頬の肉のたれた、豚面の男をさげすみの目でながめた。
「ちがいます! それはわたしの専門分野ではありません!」彼は甲高い声で叫んだ。「人びとを牢獄にぶちこむのはわたしの専門分野ではありません! わたしは人間狩りなどやりません! ぶちこまれるのはわれわれだけでたくさんです……」(下P.384)

堀の外にいる奥さんがあれほど切実な声を上げていたのに、こんなドンキホーテな行動をとるゲラーシモヴィチはすごくセカイ系な人物っぽいと思った。

私の印象では“セカイ系”というのは「私とあなたと世界だけがあって、中間社会がないじゃん(笑)」「突然女の子が戦争に行ったり、地球がピンチになったり、リアリティがない設定のくせに、何で主人公の恋愛ゴッコだけ男子の妄想のごとく妙に細かいの(笑)」と嘲笑の意味を込めた蔑称として使われている。
ところがソルジェニーツィンが描く収容所生活とその時代は、まさに「私のあなたと全能の神(たるスターリン)」という世界観がリアルに存在した。10年勤めた収容所をあと1週間で出られるという時に、スターリンから「やっぱお前、あと10年」とか宣告されるのも当たり前(亀山郁夫氏の著書なんかを読むと、“全能の神スターリン”というのは比喩的な表現ではなく、本当に全てスターリンが自分で判断して決めている)。元々ロシア文学の主人公は小物のくせに妄想癖がひどかったりして細部がリアルな幻想小説みたいなところもあるけれど、スターリン時代の収容所という本物の“セカイ系”的世界を経験したソルジェニーツィンの小説ではそれが極限まで進められ、昼食のお粥の具と人生哲学が同時に語られても全然平気。そして、一件共産主義批判であったり社会派的なテーマを扱っていると思われがちなソルジェニーツィンの小説だが、実際はスターリンが完全にコントロールする“セカイ”から抜けだせないでいる無力な囚人のある時は卑しくある時は気高い生態を描いている点で、収容所文学とセカイ系は絶対に親和性がある。
10年くらい前、『トレインスポッティング』が好きだった知り合いに「これ“陽気で悲惨な青春小説”だから」と言って『イワン・デニーソヴィチの一日』を貸したら、思いのほか面白がって読んでくれた。ゼロ年代にこそソルジェニーツィンは読まれるべきだと思うのだが、この文章を書く為にいろいろ検索していたら新潮文庫から出ていた一連の小説は今やほとんど絶版で、手に入りにくいらしい。90年代の万歩書店にはずらずら在庫があって「いつでも買えるさ」と思ってスルーしていたら、いつの間にか見かけなくなって『収容所群島』の3,4巻を買い逃したが、そういうことだったのか。『煉獄のなかで』と『イワン・デニーソヴィチの〜』と『ガン病棟』の収容所3部作は普通に読んで面白いので、今こそ復刊すべき。

このネタを思い付いた時「俺のオリジナリティすげえ」と自画自賛していたのだが、「ソルジェニーツィン+セカイ系」で検索したら、東氏の『ソルジェニーツィン試論』という論文がうじゃうじゃとヒットしやがった。悔しいので、そのうちにでも『郵便的不安たち』を読んでみようかと思う。

余談。『雲のむこう、約束の場所』を見たが、ドーソンとジョーイとペイシーを思い出した。サワタリさんは実際にいたらむかつくタイプ。『秒速5センチメートル』を見たが、自分の体験に照らし合わせると、中学1年生男子はあんなに大人じゃないと思う。