パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

BS1『BSドキュメンタリー』「議会制民主主義がやってきた〜ブータン王国の模索」

2008/5/17再放送(4/29初回放送)、50分、取材協力:ブータン選挙管理委員会ブータン放送協会/今枝由郎/脇田道子、撮影:江袋宏/松根広隆、コーディネーター:ウゲン・ナムゲル、取材:小林ひろ子、ディレクター:三須田紀子、プロデューサー:正岡裕之、制作統括:下田大樹/高瀬雅之、共同制作:NHKエデュケーショナル、制作・著作:NHKかわうそ商会
以下に、長々と書いたのを改めて読んでも、自分の独り相撲感がすごい。番組の内容そのものは、よくある「田舎者が初めて○○をやったら面白いことが沢山ありましたよ(ほのぼの)」物語の類いで、可もなく不可もなく。着眼点は面白いけど、痒い所に手が届かない感じ。ただ、公式サイトに書いてあった紹介文が心にひっかかったために、変な喧嘩の吹っかけ方をしたようで申し訳ない。
番組のコンセプトは、オープニングのナレーションにある通り、

世界でも稀な国王による民主化、どんな選挙戦が繰り広げられ、どんな課題があるのか、みつめてみました。

なんだろう。同じく番組の冒頭に出てくるナレーション「景観を考え、信号がない」「公式な場へ出向くときは民族衣装を着る事が義務づけられています」「どれも国王の命によるもの」に関して、ディレクターが「伝統を大事にするロハススローライフな国王万歳」と思っているのか、「お上の指示でみんなが同じ格好をさせられるなんて軍靴の音が聞こえる」と思っているのかが見えてこない。前述のことが「医療も教育も無料」と並列されて紹介されているので、おそらく「立派な国王様」だと思っているのだろうと推測は出来るが。
ディレクターの視点・思想を把握するため、公式サイトの紹介文もほぼ全文コピペさせて頂く。

「あなたは幸せですか?」と尋ねられて、国民の95%以上が「幸せです」と答える国がある。ヒマラヤの山間にあるブータン。中国とインドの大国に挟まれた九州ほどの小さな国だ。国民の大半は農業に従事する敬虔な仏教徒で、王制のもと、質素ながらも平和に暮らしてきた。その国のありようは、前国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクが提唱した「国民総幸福量・GNH(Gross National Happiness)」の考え方とともに、近年、世界の注目を集めてきた。そのブータンで今年3月24日、初の国民の直接投票による総選挙が行われた。100年続いた絶対王制を廃して、議会制民主主義に移行するためだ。この後、国王の定年制を盛り込んだ成文憲法も発布される予定だ。しかし国民の中には「これまで平和に暮らし、国情も安定しているのに、なぜ今、民主主義にする必要があるのか?」という声も多い。それに対して前国王は「一人による統治は必ずしも常に正しいとは限らない。国の未来は国民が決めることが最善」と民主化の必要性を説いてきた。いわば‘上からの民主化’である。初の総選挙に密着しながら、ブータン民主化の行方と課題を見つめ、「民主主義とは何か」を問う。

上の文章では「国民の95%以上が『幸せです』と答える」ことと「100年続いた絶対王制」の関連は全然示されていないにもかかわらず、何となく「上手く運営されている絶対王制なのに、立派な考えを持つ国王様が自ら権力を手放しなさる」物語が存在するような気にさせられる。そういう方向から批判をしようと身構えて番組を見てしまった。
そもそも、議会制民主主義(というか選挙)は、社会から遊離して存在するわけではない。普段の職場や家庭でどのように意思決定がされているか(年少者は年長者のいうことを敬うべきか、女性は男性の言いなりなのか、等々)の仕組みを知らないので比較のしようがない。番組のなかで「お金をくれる人が来たらなびく人がいるかもしれない」「豚料理をごちそうしてくれたら投票する、と答えた人もいましたよ」という発言も紹介されていたが、当然ディレクターは「ブータン人は買収される悪人ばかりだ!」というつもりで紹介したわけではあるまい。でも、ブータン社会ではどの程度法律が尊重され、どの程度村の慣習が支配しているかを、我々は知らない。更にいえば、普段は料理をごちそうしてくれた人に見返りを渡すのはブータン社会で立派な行いなのに、選挙制度(法)になるといけない行いになることを、新しく議会制民主主義を導入するにあたって国民に説明しているのか、我々は知らない。だから新しいことを導入するにあたって起きた象徴的な面白エピソードを紹介されても、見ている側は解釈のしようがない。
住民へのインタビューに対して英語で答えている人と現地語(ブータン語?)で答えている人がいて、前者の方が「民主主義導入は世界の潮流でしょ」で、後者の方が国王へ統治を続けるよう請願に行った人達という印象。どっちの割合が多いのかは分からないが、最初に引用した公式サイト文には「しかし国民の中には『これまで平和に暮らし、国情も安定しているのに、なぜ今、民主主義にする必要があるのか?』という声も多い」と、一方の声だけを紹介するから印象操作みたいに映る。というか、(私の想像が間違っているかもしれないが)貧しくて学校へ行けなかったりする子供がいるのに「教育は無料」とか誇るのってどうなん? 高額な医療施設がなくて肺炎にかかったら死んでも親族一同納得する国で「医療は無料」とか誇るのってどうなん? という疑問をディレクターは持たなかったのか。それを普段から「人生とはそういうもんだ」と刷り込まれて生きていたら、国民の95%以上が「幸せです」と答えても不思議はない。それは名君とか絶対王制とはあまり関係ないのでは? という疑問を持たなかったのか。
要するに「これまで慣習(=象徴として国王)が支配していた世界に、法(=象徴として選挙)の支配をぶつけたら、どんな面白い事が起こるかな?」、ただそれだけで興味深い取材だし、実際に番組も面白かったのに、ディレクターが「上からの民主化」だの「国民総幸福量」だの下らないことを付け加えるから「なんだかなあ」という感想になった。フランコから全権を引き継いだ後に憲法制定議会を開いたフアンカルロス国王も、大政奉還の後で大日本帝国憲法を発布した明治天皇だって、言ってみれば「上からの民主化」だと思うが、小国のちょっとオサレな国王を「世界でも稀な国王による民主化」と持ち上げるのは、コスタリカの非武装を持ち上げるのと同じメンタリティ。
メモ:人口約63万人、有権者数31万8465人、47選挙区、番組に出てきたモンガル県選挙区の有権者数8095人。民主主義の“勉強”をするにしても、“初めて物語”の取材をするにしても、箱庭として適切な大きさであり、改めて魅力的な題材を果敢に取材した制作者には拍手を贈りたい。
 ◇ ◇ ◇
以下の文章は「コソボチベット」というタイトルで書いていた文章だが、単独でエントリーを立てるほどでもない内容になったので、ここに寄生する。ネパールでは国王が実権を失ってマオイストが政権に就き、中国では信じる宗教によって迫害される人がいる時期に、ブータンの国王/宗教/政治のドキュメンタリーがこの呑気さで良いのかよ、というタイミングだったのも、上の文章がややヒートアップした理由でもある。

自分は中高生の頃、アパルトヘイトとかカンボジアとかチベットとか人権関係の本を読むのが好きだった。そのくせ現実世界でその手の運動に尽力した事はないので、その分だけ幻滅していないというか、相変わらず無駄に理想主義を信じているところがあり、原義に近いニュアンスつまり悪い意味でナイーブなところは変わっていない。そんな若き日の自分が読んだチベット本の中にペマ・ギャルポ氏の著作もあり、昨年の参院選比例区では国民新党から出馬したペマ・ギャルポ氏に投票した。「だから何?」と言われればそれまでだが、チベットについてはそれなりに親近感を持っている人間である、というエクスキューズを最初に書いておくこととする。

コソボに関するアハティサーリの包括的解決案というのが日本語Web上を探してもないので、まずはNHKによるアハティサーリへのインタビューを載せてみる。

Q(市瀬キャスター):コソボは一方的に独立を宣言しました。現状をどう思いますか?
A(マルッティ・アハティサーリ):コソボが独立したという事実を、国際社会は徐々に認めてきています。EUはセルビア系住民の保護など、コソボ政府の課題を監視する必要があります。コソボの問題はヨーロッパの問題です。問題は(註:「が」の誤りだろう)あまりにも悪化したため、ヨーロッパ人はコソボの独立が、残された唯一の道だと認識したのです。私はコソボセルビア人が今より良い生活ができることを目指しました。実現のためにはコソボ政府の行動とセルビア人の努力が必要です。タンゴを踊るには二人の人間が必要です。決してひとりでは踊れないのです。
〈2008年5月27日放送『BSきょうの世界』より〉

コソボを現地で取材した木村元彦氏が『論座』2008年4月号と『AERA』2008年4月14日号に書いているのを読んだ。つまり、木村氏の視点を通した限りにおいてはだが、コソボセルビア人は今も着々と迫害されて追い出され、コソボに駐留する国連は見て見ぬ振りをしている。コソボの現首相は戦犯クラスのテロリスト(ボスニアでいうカラジッチ/ムラジッチ)である。つまり国家が敵対する民族解放勢力にレッテル張りをする意味での「テロリスト」ではなく、民族浄化を現場で行った指導者という意味でのテロリスト。追い出されてクレンジングされつつあるのに「セルビア人の努力が必要」って何を言っているんだ?
人権に関する最近の世界的潮流(というか実質欧州スタンダード)では、民族の権利や伝統文化といった集団の権利よりも個人の人権を保障することが先にくるらしい。だから今回のコソボでいえば、周辺へのドミノが怖いのでタブー視されている国境変更が認められた条件として「コソボに生まれコソボで暮らす全てのコソボ人が平等な権利を持つ多民族国家」を目指さなければならないはずだが、実際に生まれようとしているのは「アルバニア人によるアルバニア人のための独立コソボ国」である。
そもそもセルビア系治安機関とアルバニア系武力勢力のドンパチを別にすれば、ノンポリセルビア系とアルバニア系の住民が一緒に暮らせなくなる程の問題に悪化させたのは1999年のNATO空爆なのに、しらっと「問題があまりにも悪化したため、ヨーロッパ人はコソボの独立が、残された唯一の道」と言えるEU人の厚顔無恥さは、さすが第二次世界大戦後、ドイツ人1000万人以上を東欧から追放したり、ポーランドの国境を西へざざっとずらして平然としていられるプラグマティスト達の末裔だと言わざるを得ない。

こんな連中に「人権!人権!」とうるさく言われたら、中国政府でなくともむかつくだろうが、残念ながら西洋先進国の考えがグローバルスタンダードな21世紀なので、胡散臭く感じてもとりあえずは受け入れた振りをしなければならない。
チベット問題で「個人の生存権や財産権を奪うな」と「伝統文化を破壊するな」を切り分けるのは難しい。西洋思想である個人の権利保護をつきつめれば、行政が私有財産を奪ったり拷問したりといった個人の権利を迫害する行為は許されない一方で、チベット固有の領土だからといって漢人が移住することを否定は出来ないし、チベット人がジーンズを履こうが、漢人チョゴリを着ようが個人の勝手だし、好きで聖地まで這って進む迷信深い老人に合理主義を無理矢理教え込む事は出来ないだろう。そしてその曖昧な中間に、母国語で教育を受ける権利とか、信教の自由、職業選択の自由(家業を継げと親が子供に命令出来ないとか)が来るのだろう。たとえば「10億人以上いる中国人相手に商売して金持ちになりたいから、学校で中国語を教えて欲しかったのに」というチベット人の存在だって「チベット人の誇りはないのか」と頭ごなしに否定出来ないのが西欧人権思想だが、教育権のような集団の権利に関わる問題は解決が難しい。実態の見えない「民族の総意」みたいなもので個人の権利をつぶしてはいけないのが西欧人権思想。
「民族の総意」を見える形にする方法に選挙があるけど、じゃあ実際にチベット自治区住民投票をやるとなったら、ここ数年のうちに引っ越してきた中国系住民にも選挙があるのかないのか。与えなかったら人権無視にならないのか。たとえば日本のように選挙の3カ月前から特定の宗教・思想を持つ団体に属する人間が大量に住民票を移して選挙権を入手出来たら、それは不正になるのか。或いは選挙がチベット文化万歳派の思惑通りに進み、チベット自治権を獲得したとして「国家が定めた言語(チベット語)を話せないと二級市民だ。選挙権をやらねえぞ」みたいな(中国語しか話せない住民を事実上排除出来る)言語法を定めたら、逆に人権無視で欧州連中から叩かれることになるかもしれない。
チベットの坊さんや尼さんを収容所に送って虐待するのは「チベット人であることが罪」という民族差別なのか「(政府曰く)反政府活動家だから」という法的な刑罰なのか。後者だと西欧人権思想に出来ることは「たとえテロリスト相手でも残酷な刑罰はダメ」と言うくらいだろうが、これを持ち出すと死刑や代用監獄制度の件で日本も中国と同じ括りで土人扱いされる諸刃の剣。