パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

『ETV特集』「21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年」

2007/10/21初回放送、90分、撮影:小松正一、取材:東正記、ディレクター:山登義明/岡内秀明、制作統括:戸沢冬樹/大野茂、共同制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK
SFにはほとんど興味が無い自分だが、山登ディレクターのブログで制作過程を読んでいたので、どんな風に完成したのか確認のために視聴。放送後にブログ等をまわって反響を探ると、リアルタイムで体験した人からすれば史観が誤っていると感じる部分も当然あったようだが、SFやオタクに予断を持って描いていたわけではないし、逆にSF大好きっ子が趣味に走った番組を作ったわけでもないし、SFの予備知識を持たない団塊世代のディレクターが、基本文献を読み、当事者に話を聞いて作った職人による丁寧で誠実な作品になっていたと思う。
興味深かったのは、山登ディレクターのブログにあった次のような記述、

おそらく若い層だと思うが、番組に対する好感はあるのだが不満のようなものも持っている。それは、番組が1960年代の貴重な資料とともに現代との結びつきを考察したパートを含んでいるのだが、その後者の部分はいらないからもっと前者を多くして作れというのだ。
たしかに、今回の番組では、日本SF史に重要な資料(文献もさりながら貴重な視聴覚資料を発見した)が多数登場した。むろん、それは番組の大切な「売り」とも考えてはいる。
だが、その資料だけでいいからメッセージや構成はいらないと言われると、作り手としては複雑だ。「作者の死」か。別に、そういう読者のためだけに番組を作りたいとは思わないし、それでは番組という構成物にはなりえないから制作が不能に陥るではないかと思ってしまうのだ。いかがだろう。
http://mizumakura.exblog.jp/7251332/

ドキュメンタリーウォッチャーとしては、両方の理屈がよく理解出来る。視聴者、特にネットで顕著なソース第一主義者から見ると、「NHKのネームバリューを活かして貴重な資料を探してこいや。そして、お前(ディレクター)の解釈なんか要らないから、生の素材を全部出せ」という発想は不思議でない。一方、ディレクターからすれば「おいおい、お前等は番組作りを何も知らないな。素材そのものは何も語らないぜ。素材を切って貼って繋いでナレーション入れて、誰かに解釈されて初めて映像は視聴に耐える作品になるんだ」という反論をしたくなるだろう。
自分はこうも考える。貴重な8ミリフィルム、おそらく(全体か一部かを)デジタルに変換して機械に取り込んで編集したのだろう。ならば、そのデジタル化した映像をNHK公式サイトで公開したらどうか。切り取った発言ではない全部を誰でも見られるようにしたら。これぞ21世紀のメディアでは。たとえば米国で良質なドキュメンタリーを制作しているPBSのサイトにいけば、番組で使われなかったインタビューの全部が公開されているし、書き起こしスクリプトもある。もちろん反論も出来る。「当事者やその遺族が貴重なフィルムを貸してくださったのは何故か。『信頼と実績のあるNHKさんなら、悪いようには使わないでしょう』と思われているからだ。それを世界に向けて利用方法に制約も付けないで公開だなんて、馬鹿も休み休み言え」と。まあ、NHKが自分で撮影した映像と借りた映像では扱いも異なるのが当然。喩えが悪かった。ともかく、あまり作家性を打ち出さないTVドキュメンタリー(何しろNHKでは数年前まで「ディレクター」ではなく「構成」と表記されていた)が「情報」なのか「メッセージ」なのかは、自分にとって大きな関心事なので興味深かった。
少し補足すると、『ETV特集』枠はドキュメンタリーと銘打っているわけではないので、ドキュメンタリーでなくともよいのかもしれない。情報バラエティとも違うし、啓蒙番組でもない。匿名性と作家性の両立、時事性と物語性が両立を目指した「教養番組」としか言い様のない不思議な枠、それが『ETV特集』。

以下は番組とあまり関係のない書くべきではないかもしれない(という自覚はある)余談。

私の相棒のOK君の奮闘は感動に値する。骨惜しみせず、一心不乱で仕事をこなしている。今夜も10時半で私はふけたが、彼はまだ深夜までテロップの作成作業を行うであろう。そういう陰日なたのないところは好きだが、なんでも仕事を自分で受けてやろうとするところが気に入らない。そんなに出来るわけはないのに仕事を受ける。結果、多忙となっている。もちろん私が肩代わりしてやル必要もあろう。でも、彼は何でも自分でやろうとしすぎてオーバーワークになっている。と思われる。だが、けっして弱音を吐かずに頑張っているのは感心する。
なのに、11時ごろ、仕事を終えてセンター街を帰ってゆくときに、アホバカの一群に遭遇して、怒鳴りたくなった。「おい、おまえら。この時間に必死で働いている、おまえらと同年の奴がいることが分かるか」
祭日のセンター街には、いわゆる遊び人と呆けた馬鹿な若者ばかり。
本当に、シブヤの今の深夜は最低だ。日本中の馬鹿ばかり集めたといわんばかりの町と化す。同じ若者でも、OK君の粘りに比べて、この愚者の町に酔いつぶれている男と女よ。
http://mizumakura.exblog.jp/7136139/

この文章を読んで嫌な気分にならない若者がいるだろうか。それとも最近は「私も渋谷の若い連中がうざいと思ってた」と、批判する側に乗っかってかさに掛かるタイプの方が多いのだったら、少し悲しい。
もちろん、個人のブログに何を書いても構わないだろう。もちろん、制作者の人格と作品の優劣は関係ないだろう。おそらく番組制作の追い込みで頭も身体も疲れているなかで苛立っていたのだろう。自分の元で頑張っている若者が可愛いのは当然だし、おそらくOK君は立派な若者なのだろう。
それでもやはり、街で遊び呆ける市井の若者を見て「偽装請負の仕事で長時間こき使われ、なおかつ将来の見通しもなければ、たまの休みに憂さ晴らしをしたくなるのも無理はないな。NHK(或いはNHKエンプラ)に入社出来たうちのOK君は、頑張れば頑張るだけ未来が開けるのだから、そりゃあやりがいもあるよな」と想像することもなく、何が若者をそうさせているのか社会の背景が気にならない人には、こっちもステレオタイプに「まあ団塊の世代だから無神経なのは仕方ないか。団塊の世代って“我々の頃は遊び方を知っていた”とか“街の雰囲気が良かった”とか“希望に満ちていた”とか根拠のない思い出話が好きだよなあ」と言い返したくなる。そこまでは言わないまでも、身近な若者と見知らぬ若者を比較して片方を腐す感性には、ついていけないものがある。