パロップのブログ

主にTVドキュメンタリーを記録します

たまにはアイドルについて

他の人が書くことは書かなくてもいいと思っていると何も書くことがないし、ハロプロの状況が落ち着いてから何か書こうと思っていても一向に落ち着かない。いくら個人ブログは速報性がなくても構わないとはいえ、あまり書きたいことを先送りしてもいけないので、適当にまとめる。

私が80年代に好きだったアイドルといえばティファニー。数曲のヒットを飛ばしたティーンアイドルで、『カバーモーニング』に収録されている"SEXY BABY"を歌っていることでハロヲタにも知られた存在である。ティファニーは12歳の頃にスカウトされて15歳でデビュー、シングル2枚がビルボード1位になる社会現象、その後は財産を巡って実母&義父と裁判沙汰、20歳そこそこで結婚&出産&休業、離婚して再婚して忘れられて(Wiki見たら『プレイボーイ』でヌードグラビアにもなっていた)、その後テレビ番組でお茶の間に復活等々、ティーンアイドルが陥る罠に全てはまったような半生だけど、歌手活動もそれなりに続けており、自分も新譜が出る度に性懲りも無く買っている。ちなみに2005年に発売されたアルバムは大手レコード会社との契約が切れて、インディーズからCD-R並の作りで発売され、日本のアマゾンでも取り扱わないから本国アマゾンで注文する羽目になった。内容は20年前のダンス歌謡というか、流石の自分も呆れるクソみたいな出来だった。
我がポンコツPCでは処理が間に合わないのか、音と映像がずれるので滅多にユーチューブは見ないのだけど、最近ふと思い立って"Tiffany+Could've Been"で検索したら、思いのほかあって全部見てしまった。全盛期の映像がほとんどだが、その中に2006年の映像があった。タイトルに"Rainbow Festival in Sacramento"とあるから大きなロックフェスなのかと思いきや、学校の体育祭で使うような屋外テントの下で、校長先生が挨拶するような朝礼台の上に立った40歳近い厚化粧のおばさん(←ティファニー)がカラオケをバックに歌っているしょっぱいイベントだった(どうやらゲイパレードの一環らしい)。映像も地元の素人さんが最前に陣取って自前のカメラで撮ったもののようで、映像には映ってないが、周囲の声の大きさから想像するに、朝礼台を囲む人数も50人くらいだと思われる。ただ、しょっぱいイベントなんだけど、聞いている人達みんなが、まるでオアシスのリブ・フォーエバーでも聞いているかのようにティファニーと合唱している光景が楽しそうでとても良い。ユーチューブに付いているコメントも「高校生の頃に流行った歌だ」「この曲好きだったわ」「私とワイフの思い出の曲だよ」みたいな温かいのが多い(※今見たら残念ながら既に削除されていた)。この曲自体も最近ではキャリー・アンダーウッドが『アメリカンアイドル』で歌ったり、マンディ・ムーアがカバーしたりで、今の若い人にも知られたガールポップのクラシックソングになっているようだ。前述の映像だけを見て彼女が今幸せなのかどうかを推し量るのは難しいけれど、ただただ歌うのが好きで歌手になった10代の女の子が、何十年経っても同世代の人々の記憶に残ってて一緒に歌ってくれるようなヒットソングとともに現役で歌手活動が続けられるのもなかなか素敵なことなんじゃないかと思う。
(余談)これを書くために改めてWikiを読んでいて6月に新譜が出たことを知る。ユニバーサル傘下のレーベルに移籍したらしく、今後は日本のアマゾンでも注文出来たので購入。早速聞いてみたが、何とも特徴も時代感覚もない凡作。懲りずに買うのは「まずい!もう一杯!」というファンの習性としか言いようがない。

Just Me

Just Me


2001年3月にハロプロヲタ(当時だとモーヲタ)であることを自覚したばかりの頃、アイドル業界の作法に慣れていなかった私が最初に驚いたことは、市井ちゃんの復活劇だった。一般人時代に伝え聞いたところではドリカムの吉田さんに憧れ「英語とソングライティングを勉強したい」と言って辞めたということだし、それなら少なくとも5〜6年は戻ってこないはずと思っていたから本当に驚いた。なのに、ネット上で見かけるいわゆる市井原理主義者は全然不安視しないで「いますぐ戻ってきても天下とれる」みたいに自信満々だった。もしかすると巷で噂されるがごとく市井ちゃんは給料で揉めて辞めさせられただけで、実はアーティスト志向でもなく、本当はモー娘を続けたかったのかとも思ったが、原理主義者はプッチモニで出演した最後の『うたばん』を持ち出して「野心の薄い保田や後藤に苛立つくらい、ソロ志向/アーティスト志向だ」とか言うし、中澤さんは雑誌か何かのインタビューで「市井ちゃんが何も言わないうちから辞める決意をしたことに気付いた」という打ち明け話をするし、どうやら公式発表通り本人は本気でアーティスト志望なのだろうと信じることにした。
自分が一般人の頃に『うたばん』や『HEY×3』で見た市井ちゃんにそれほどの輝きを感じたことはなかったから、どれほどの素材なのか楽しみに期待していたら、やはりというか、英語の勉強も楽器(ギターだったか?)の練習も途中で止めたとか言っているし、にもかかわらず原理主義者は「市井ちゃんは飽きっぽい子だから、そういう子だから」と肯定しちゃってる。それならファンの皆さんはきっと市井ちゃんがゼロからスタートして立派なミュージシャンになる過程を楽しむつもりなんだろうし、数十年のスパンで温かく応援していくのかと思いきや、発表される商品の出来が明らかに悪いと、どんどんファンは離れていって、最後はご存知の通り。
もちろんファンがそのアーティストを素晴らしいと思っていないのに同情や義務感で応援する/銭を払うのはまさに本末転倒で、魅力のない楽曲/バンドを見放すのは正論である。正論ではあるが、では原理主義者の人達はどんな姿で、商品で戻ってくることを望んでいたのか、そこが分からない。無能なたいせーや無能な事務所をスケープゴートにするのは簡単だけど、モー娘を辞めて1年ちょいで、英語も音楽も勉強してなかった市井ちゃんに何が出来ると期待していたのか。市井ちゃんの鼻歌を魔法のような今どきソングにしてくれる人と、市井ちゃんの好きなフレーズ2つ3つを元にして今どきのギャルが共感しまくりな歌詞を書いてくれる人をブレーン(ゴーストライター)にして「notアイドル=アーティストもどき」みたいなイメージ商法で売れることを望んでいたのか。そういう売り方をしてモー娘を卒業した意味があるのか。持ち上げて梯子を外したのはファンの方なんじゃないのか。結局アイドルのファンなんて一瞬の輝きを追い掛けて消費しては次の対象に乗り換えていくだけなんじゃないのか。そんな感想を抱いた出来事だった。

80年代に活躍したテニス選手でヤニック・ノアという天才肌だがナイトライフ大好きという選手がいた。結局グランドスラム大会に1回優勝しただけで引退し、今はミュージシャンとして大人気らしい。その彼がプロテニスからの引退会見をしたとき、ある記者から「もしもっと真面目に練習していたら、もう少し勝てたのではないのか。その事を後悔していないか」という質問を受けた。ノアは「確かにもっと努力すればあと何回かは勝てたかもしれないが、だからといって世界ランク1位になる程にはならなかったはずだ。夜遊びして人生を楽しんで、好きなテニスでここまで出来て、充分満足行くプロ生活だったよ」みたいなことを言ってた記憶がある。
最近のジェフで、負けて羽生がベンチで泣き、勝って巻がお立ち台で泣く、そんな場面をテレビで見たが、あの悲愴感があまり好きではない。「人間ドラマを見せろ」「必死さを見せろ」そういう感情の発露こそがスポーツの醍醐味だという人もいるだろうが、私はあまり楽しめない。何かを人に魅せてお金を貰っている人は神様から何らかの才能を贈られた人達だろうと思っている。せっかく神様から贈られたギフトを持っているのだから、それを使って楽しそうに魅せて欲しいと思う。もちろん「練習での苦労なんて観客の俺には見せなくていいから血へど吐くまでやれ。その代わり、試合では努力なんて表に出さないで良いプレーをしろ」というパフォーマンス至上主義者もいるだろうけれども、昨今は、スポーツの世界も人間物語、難病、肉親の死、そういったものが話題の材料となって感情移入を作り出している面が、特にメディア側、見る側にもあるわけで、感情が入る余地のない数値的な結果と金を払った人間が感情的に納得するパフォの両立はどの興行世界でも難しい。

紺野さんが「歌もダンスも赤点だが、劣等生こそロック」という設定でオーディションに合格したとき、当然受かった本人が考えるのは「歌やダンスではない何かで魅せなければならない」だと思う。それは、努力する姿勢なのか、伸び率なのか、或いはバラエティや司会等の別分野での活躍なのかのはず。ところがどっこい、モー娘はアサヤン的リアリティショーから離れ、そのうちテレビにも背を向け、ますます歌とダンスの興行を活動の中心に据える。歌とダンスの舞台の上だけが活動の場であるならば、上手い者が評価され、上手くない者が評価されないのは当然だが、それでは上手くないのに採用された人はオーディション詐欺に引っ掛かったようなものである。「ボイトレにしろダンスレッスンにしろ、もっと努力出来ただろ」「本当に全力で手を尽くしたのか」というツッコミはもちろんあるだろうが、才能の差を努力で埋めるのは言うほど易いものではないし、そもそも「才能の差を努力で埋める」ことが採用時に求められていたとも思えない。
少し余談。「モーニング娘。」のモーニング(セット)とはどういう意味なのか。「好き嫌いがある人でも何種類もおかずがあったら、一つくらい好きな食べ物があるやろ」なのか「何種類ものおかずが少しずつ入っていたら、そこそこの味でも飽きずに全部食べたくなるやろ」なのか。私はアサヤンを見ていなかったので分からない。ということで調べてみた。

「モーニング。トーストにコーヒー、ゆで卵までついとんねん。コーヒーだけでええのにサラダまでついてきよんねん。反対にトーストが食いたいのにコーヒーも飲まなアカンねん」
(『モーニング娘。5+3-1』P.84)

なんというか「“モーニング”には要らないものまでついてくるけど、全部食べろ」という意味だったのか。モー娘の中に苦手な人がいても全員を楽しめ、とは流石つんく師匠。奥が深い。
話を戻す。
おそらく紺野さんは己をよく知っている。誤解を招く言い方になるけど、多分モー娘にいる間はずっと、自分が採用された時に求められたモー娘像と実際に活動しているモー娘が違うことに違和感があっただろう。また活動の中で自分に9割を敵に回しても1割の熱狂的な信者を生む素質にも気付いたはず。そして自分がガッタスと相性が良いことにも気付いたはず。ガッタスは見に来ている人がプロ並みのテクニックを期待しているわけではない。かといって可愛い子がいれば満足というわけでもなく、本気で一生懸命やっている姿が見たいと思っている。このプレーの質と選手(アイドル)の質という相反する要素のバランスに正解はないというか、正解は金を払って見に来る観客各々でも違う。プレー水準と人間ドラマのバランスに正解がないので暗中模索して決められたレギュレーションによってはバランスを崩して白けることにもなるし、もちろん盛り上がることにもなる。よくガッタスアサヤン時代のモー娘と比較されたものだが多分違う。この正解の無さは、むしろ紺野さんが加入した時にモー娘が置かれていた位置、結局現実ワールドでは発現しなかったモー娘ではないかなあと思う。だから、一部の人が言うような「モー娘は辞めるくせにガッタスは続けるとか意味不明」とは全く思わないし、むしろ非常に自分の魅力や向き不向きを分析した上での論理的に正しい選択だろうと思う。
紺野さんも神様から人を惹き付ける何かを貰った人だろう。そして人生は一度きりで、ファンは何も保障してくれない。だから引退にしろ受験にしろ復帰にしろ、自分の人生は自分にやりたいようにやるのが一番。好きなようにやって、後は仕事の取引先だの同僚だのファンだの迷惑をかける相手との1対1の関係でしかないし、世間だの一般論だのは意味が無い。それにモー娘へ加入した時は「何万人の中から自分を選んでくれた事務所さん」という買い手市場特有の心理を持った14歳の小娘だったかもしれないが、今は成人して賢さも増した上に、ハロプロの現状からすると売り手の立場もずいぶんと上がったのではないか。ふざけた物言いになるが、新しい契約書には「新メンバーを加入させる場合は現メンバーの承諾を得ること」「ファン相手のイベントは月3回までにすること」みたいな項目を盛り込んで事務所と駆け引きしたっていいじゃないか。もし歌番組に出る機会があれば「(紺野曰く)歌もダンスも得意じゃないから本当はガッタスではフットサルだけしていたかった」「(吉澤や司会者が)お前、元モー娘なのに何を言っとるんや」みたいなトークをしたっていいじゃないか。ニュー紺野さんには、のほほんととぼけながら、ちょっぴり毒も吐いて、良い意味で今のハロプロを揺らして欲しいなあと思っている。お帰り、紺野さん。