パロップのブログ

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オシムとコスモポリタニズム


9月の欧州遠征はオーストリア&スイスとの対戦となった。この間(http://d.hatena.ne.jp/palop/20070202)書いた予想が当たったというか、実は自分が知らなかっただけで規定路線だったらしい。グラーツで試合をすれば監督凱旋公演になって楽しかろうと思うが、会場は2試合ともクラーゲンフルト。正直オーストリアでスイス代表と試合してもアウェイ気分は味わえないと思う。クラーゲンフルトはオーストリア南部ケルンテン州の中心都市。グラーツがあるシュタイヤマルク州とは州隣り。森明子「住民社会におけるネーションの意味〜オーストリア・ケルンテンのスロヴェニア人をめぐって」(『近代ヨーロッパの探究<10>民族』ミネルヴァ書房、2003年所収)によると、クラーゲンフルトがあるケルンテン州南部は、ドイツ語を話す人とスロヴェニア語を話す人が混在し、民族意識よりは郷土意識の方が強かったらしい。1918年にハプスブルク帝国が解体する過程のなかで、独立した南スラブ人国家が建国され、独立軍はケルンテンのスラブ人同胞を「解放」するために進軍したところ、ケルンテンの民間人はスロヴェニア語人もドイツ語人も一緒に防衛戦を戦ったという。1992年のサラエボと似ている。結局、1920年に行われた住民投票で大部分がオーストリア側に帰属することになった。ナチスドイツと合邦したオーストリアが戦争に負けた1945年にもユーゴ軍は侵攻したが、再びケルンテンの人々は市民軍を結成した。単純化していうと、ケルンテンの人々はドイツ人だとかスロヴェニア人だとか、或いはオーストリア国民だとか旧ユーゴ国家だとかにシンパシーは感じず、むしろケルンテン人という意識が強いということ。実際には簡単にいえない複雑な話なので、詳しくは前述の書を参照のこと。

民族 (近代ヨーロッパの探究)

民族 (近代ヨーロッパの探究)

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イビチャ・オシムの真実
イビチャ・オシムの真実』によると、オシム父ミハイリの父は現在のオーストリア東南部シュタイヤマルク州からわずかにスロベニアマリボル近郊の村ルーゼ出身(当時はオーストリア領低地シュタイヤマルク)で、大きな醸造所を経営。祖母はミュンヘン出身。結婚したのは2人が育ったウィーン。一方、オシム母は南ドイツに移住していたポーランド人とチェコ人のハーフとある。オシム父とオシム母がどこで出逢ったのか気になる。オシム父の両親はウィーンで結婚した後ルーゼに戻っていたのだろうか。それともウィーンに住み着いたのだろうか。或いはミュンヘン辺りで仕事に着き、オシム母と出逢ったのかも。2人は出逢ってから職を求めてサラエボに来たのだろうか。それともサラエボで就職して出逢ったのだろうか。
オシムが1941年生まれだから、その両親はおそらく20世紀初めの生まれ。彼らが子供の時はハプスブルク帝国が存在しており、ミュンヘンは別として、領内のどこに住み、どこで仕事しようが境界を感じなかったはず。ハプスブルク帝国第1次世界大戦中に、連合国の政治的宣伝によって「諸民族の牢獄」などと云われ、敗北したハプスブルク帝国には貼られたレッテルを否定する機会もなかったが、近年進む歴史の見直しにより、実際にはドイツ人とハンガリー人のほかスラブ系民族やユダヤ人が共存して暮らせる環境を模索していたと云われている。地図をみると、ウィーンを中心にミュンヘンプラハクラクフ、ブダペシュト、ザグレブリュブリャナ辺りがほぼ同心円上に並ぶ(上の地図は自分で書いたインチキだが)。グラーツマリボルも本当に近くて、当時だと「隣町の間に国境が引かれちゃった」みたいな感覚だろう。
帝国が崩壊・分裂した後、小国オーストリアに残ったドイツ人はともかく、スラブ系主体の後継国家に取り残されたドイツ人はどんな感じだったのだろうか。オシム父もドイツ人というアイデンティティ喪失を味わったのだろうか。イヴィツァ少年は旧帝国を知らないで育ち、なおかつ○○系というアイデンティティにとらわれずユーゴスラビア人意識を持った最初の世代だろうか。
イビチャ・オシムの真実』の6章「オシムのサッカー観」に含まれる「ヨーロッパはひとつだけ」という節が好きだ。数年前の偽造パスポート事件を受けての発言だから一般化は出来ないだろうが、イヴィツァのコスモポリタニズム精神(本人は本書のなかで育った環境を“今で言うならば、私はマルチカルチャーの申し子だった”と言っている)が伝わってくる。その精神の源は生まれ育ったサラエボの環境や90年代の不幸な戦争、というのが大勢の見方だろうが、イヴィツァの家系図をみると、そのさらなる根っこにハプスブルク精神があるのではないか。「サッカーの監督なんだからサッカーの話だけで良い。私事を詮索するな」と言われればその通りだけど、旧東欧史好きからすればこれほど興味深い人物が日本で有名になることなんてそうそうないし、せっかく代表監督になって露出も増えたのだから、たまには御先祖様の思い出話なんかも語って欲しい。
ハプスブルクの民族政策については、以下の本が短くて分かりやすい。1910年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで行われた国勢調査の結果なんかも載っていて勉強になる上に読み物としても面白い。
ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して (中公新書)

ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して (中公新書)