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田中彰『小国主義』

前回(http://d.hatena.ne.jp/palop/20070304)、明治憲法軍国主義について「歴史のイフを美化しすぎるのもどうかと思う」と書いたが、そのイフを真剣に考えた本を見つけた。

小国主義―日本の近代を読みなおす (岩波新書)

小国主義―日本の近代を読みなおす (岩波新書)

著者は、岩倉使節団の記録『米欧回覧実記』の研究者ということで、本書の中でも、

もとより、歴史には「もし」はタブーである。だが、その時の状況次第では、あるいは現実の歴史として展開したかもしれない歴史の可能性というものがある。史料でつきとめうる限りにおいてこれを視野に入れることは、歴史叙述に必要なことではないか。それを私は歴史における「未発の可能性」といいたい。〔P.iii〕

とあくまで実証的な態度をとっている。内容は、『米欧回覧実記』が目指したもの〜自由民権運動期の植木枝盛中江兆民大正デモクラシー期の三浦銕太郎・石橋湛山〜戦後の鈴木安蔵と、大国を目指す日本に対して「小国主義」という異議申し立てを行ってきた人物をたどったもの。当然のことながら、著者は現行憲法=小国主義の支持者であり、昨今の「普通の国」隆盛の流れに警鐘を鳴らすために本書を書いている。個人的に気になった箇所は、

いうなれば、それは自由民権期の植木らの憲法草案にみられた思想(それは小国主義だった)に着目して憲法史研究を続けていた鈴木が、「大東亜戦争」の「大東亜共栄圏」というアジア支配のイデオロギーの虚偽意識にとり込まれて、しだいに大国主義に傾斜していった、ということになる。〔P.167〕

鈴木安蔵が戦争中に転向していたなんて「押しつけ論は幻」派は一言も教えてくれなかった。戦時下の辛い体験の反動で、自分に対しても軍国主義に対しても厳しい態度に大きく振れた可能性を考える必要があるのでないか。歴史を担保にした〈正統〉or〈押しつけ〉議論をするのなら、そこまで考えないと。

1945年12月26日に発表された「憲法草案要綱」は、ただちに首相官邸GHQへ提出され、翌々28日の新聞報道となった。「大きく報道されたわりには、これといった反響はみられなかった」というが、他方、「総司令部の側ではこれについて大きな関心をもち、立ち入った検討がなされてい」たのである。(以上、佐藤達夫『日本国憲法成立史』)つまり、総司令部(GHQ)の方が憲法研究会案に「大きな関心」をもって注目していた。〔P.180〕

憲法研究会案が発表されると、戦後の庶民の気分を反映したものだったから歓迎された」みたいな物言いを胡散臭く感じていたが、やはり反響はなかったようだ。松本(政府)案と憲法研究会案の対立とは、庶民を置いてけぼりにした旧体制のインテリと戦時下で辛い体験をしたインテリとの理念の対立だったのでは。現行憲法が出来た当時は、右から左まで各々の理由から反対していたらしいが、だからといって「右から左まで政治屋はみんな馬鹿。庶民が一番賢くて、庶民の気持ちを分かっていたのはGHQだけ」みたいな神話を広めるのは歴史に対して誠実とはいえないだろう。「出来た当時は皆懐疑的だったけど、曲がりなりにも60年運用してみたら、その解釈も含めて結構使い勝手が良いものになったので、このまま変えなくていいじゃん」くらいが護憲の落としどころだと思う。

少し話はそれるが、他に興味深かったのは、中江兆民について、

兆民は不義の軍の攻撃には、国を挙げて焦土となるとも断固戦う、という。それは『実記』がスイスのところで、他国の攻撃に対して「人人死に至るも、他より其権利を屈せらるるを耻づ」と述べていることと重なる。〔P.78〕

と書いている箇所。長谷部先生は9条について「常備軍を持たないとしたら、侵略に対しては戦闘員と非戦闘員の区別なく全国民をパルチザン戦へ巻き込むことになる。それでは信条の異なる人間同士が折り合いをつけて暮らすという立憲主義の精神に合わないから、9条は〈細則〉ではなく〈原理〉だ」とどこかで書いていたが、絶対平和主義とパルチザン戦のイメージが結びつかず、喩えがどうもピンと来なかった。しかし、9条の父ともいえる兆民がまさにパルチザン戦を推奨していたことが分かり、少し胸のつかえが降りた。
以下の文章は、『ETV特集』「焼け跡から生まれた憲法草案」の感想サイトを検索してみつけたもの。ブログ主さんを批判したり馬鹿にしたりするつもりはなく、あくまでその考え方が興味深かったので、少し引用させていただく。

皆、「明治憲法」の下に言論の自由を奪われたり、投獄された人もいる。敗戦を機に「今が本物の民主主義に変えるチャンスだ」という魂の叫びに駆られて、違う分野の専門家たちが集まったのだった。彼らに共通していた想いは、「打倒軍部」。もっと言えば、戦争が終わるまえから「彼らの敵はアメリカではなく日本の軍部だった」ということ。彼らは、心の中で「平和の準備」をしながら敗戦を待っていたのだ。彼らだけでなく多くの国民も同じ想いだったに違いない。これだけをみても、どれだけ軍部が民衆を迫害してきたかが判る。そこへやっと敗戦し、アメリカがやってきた。そして彼らの憲法草案は陽の目をみることになった。その時、アメリカは彼らにとっては救いの神だったはず。
http://wanbalance.blog75.fc2.com/blog-entry-159.html

兆民のいう「不義の軍」をどうやって見分けるのか。道徳なのか、国際法なのか、或いは民族自決の原則なのか。国際法民族自決に基づけば、第二次世界大戦時の米国は日本の本土を“侵略”したのではないのか。たとえば「日本の軍部」を「ホーチミン」や「フセイン」に変えたら、米軍は北ベトナムイラクを“解放”しに来たことになるのでは。先に挙げたパルチザン戦の話もそうだけど、大国の侵略に対して抵抗せずに占領されれば戦争は起きないわけで。また、著者は湛山について、

日本が中国やシベリアを勢力範囲とする「野心」を棄て、満州・台湾・朝鮮・樺太などは要らないといえば、「戦争は絶対に起らない。従って我が国が他国から侵さるるということも決してない」といい、世人はこれらの地域を、「我が国防の垣である」というけれども、「安んぞ知らん、その垣こそ最も危険な燃え草」であり、「その垣を棄つるならば、国防も用はない」と反論するのである。〔P.134-135〕

と、大正時代に植民地放棄を唱えたことを評価しているけれど、20世紀の後半からは、沖縄だったりアイヌ(北海道)だったり、近代では自明だと思われていた民族国家の概念が疑われ、民族別の境が自明でなくなった。むしろ旧ユーゴなんかだと境界引きが戦争の種になっている。「ここまでは不義の侵略戦争」「ここからは道義的に正しい抵抗運動」などと分ける境も自明ではなくなった以上、誰が(国連? 賢者? 民主主義?)どうやって(道徳? 国際法民族自決?)判断するのかが問題になる。それが現代だと思うが、道徳的な観点から善玉と悪玉を簡単に見分けられる人を皮肉抜きでうらやましく思う。
ミュンヘン協定で、英仏がチェコスロバキアナチスドイツに売っちゃったのはよく知られていると思うが、当時のチェコが動員令まで出して単独でもドイツの侵略に対抗しようとしたのはあまり知られていないと思う。結局、当時の大統領ベネシュが「火事(戦争)より強盗(占領)の方がまし」と思ったのか「英仏が味方してくれないと勝てるわけないじゃん」と思ったのかは知らないが、同協定を飲んで本人は亡命した。以下、ジョセフ・ロスチャイルド『大戦間期の東欧』(刀水書房、1994年)から引用、

チェコスロヴァキアは、防衛に適し要塞を配した国境に囲まれ、技術の進んだ軍事工業を有し、規律がとれ教育水準の高い国民に恵まれていたため、その潜在的軍事力は決して侮れないものだった。それは1938年秋の段階でも、一年後のポーランドフィンランドのような絶望的状況ではなかった。したがってベネシュがミュンヘン協定に屈したのは、決して彼が彼我の軍事力、政治力の優劣を冷静に計算した結果ではなかった。それは彼が心理的にも政治的にも臆病だったからにほかならない。しかしこれもベネシュらしいところだが、彼はその責任が自分にあるとは認めず、もっぱら大国の行動を非難することになった。〔P.127-128〕

戦争や民主主義について真面目に考える時は「もし自分がベネシュの立場だったら…」と想像力を働かせてみることにしている。

話を戻して、以下は「明治憲法が民主的だったら軍部は独走しなかったか」という歴史のイフについて、坂野潤治氏が第156回国会「憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会」の参考人として答えたもの。坂野氏の著者は読んでいないが、略歴等をみると戦前の民主主義や明治憲法に対するイメージを再検討する仕事をされているようだ。

○遠藤和良小委員 明治憲法ができて以来、憲法とともに、日本の国の行く手が、だんだんと軍部が独走するような体制になってしまったわけですね。そして太平洋戦争にまで至るわけですけれども、これは憲法に責めを求めるべきなのか、そうではないのかという議論があると思うんですね。それは、憲法は全く責任はない。要するに、憲法の解釈の方にあるいは責任があるのではないか、憲法そのものにやはりそういった国の行く手を目指すものがあったのではないか。こういうふうな二つの意見があると思うんですけれども、先生はどういうふうにお考えになりますか。
○坂野参考人 七分三分で政治の責任だ。政治の力関係が変わってきて、国際情勢が変わってきて、どうしても、関東軍満州事変を起こすようなことに対して国民的な支持がいくというものがなければ、統帥権は独立していますよ、関東軍にありますよと幾ら言ったところで、それはつぶされたはずです。ただ、三分というのは、関東軍が行動するときに、憲法十一条は彼らにとって非常に役に立っているわけですね。だから、やはり憲法の規制力というものはかなりな程度ある。
 これは、だから六、四か七、三かはわかりませんけれども、でも、同じ明治憲法のもとでも、例えば大正の末、十四年、一九二五年に関東軍が行動を起こしたら、時の内閣は抑えちゃっただろう、同じ憲法の中で。ですから、私はどちらかというと、政治が六分、憲法は四分。政治で勝ったからといって、憲法違反なことだと、やはり関東軍は抑えられたかもしれない。幾ら有利でも、憲法の味方がないとできない。だから、七、三か六、四かはちょっとわからないけれども、私は政治史をやっているもので、政治の方がかなり大きいんじゃないかとは思っています。
○遠藤(和)小委員 きょうの御説明の中で、憲法の制定過程の時点から憲法の条文の解釈について差異がある、大きな差がある。これがやはり、そうした憲法制定された後からも大きな災いになったということは言えるんではないんでしょうか。
○坂野参考人 おっしゃるとおりで、それが言いたかった。憲法というのは、つくるときも、つくられてからも、一つのものではない。だから、明治憲法はこういうものであって、だからあの戦争に突入したなどという単純な議論はしてほしくない。
○藤島小委員 自由党藤島正之でございます。(中略)今お話があったように、統帥権の独立と、それでは昭和の戦争が本当に直接悪い方に結びついていたのかというと、必ずしもそうじゃないんじゃないか。先ほどちょっとおっしゃったように、関東軍の一部の暴発に対しても、統帥権云々で抑える抑えないんじゃなくて、やはりその背景には、国民の支持といいますか、そのときの全体の、政治といいますか、国の方向みたいなのがある程度後押しをしているからああいうふうになっていったんで、旧憲法があろうがなかろうが、あれは国の方向として、どうしても行く方向だったんじゃないかなという感じがするんですけれども、その点はどのようにお考えになっておられるのか。
○坂野参考人 先ほど遠藤委員にお答えしたことと反対なことをお答えします。
 やはり四分はあるんです。ですから、もし一九三一年、昭和六年以前に、統帥権の独立に対して、憲法学者がみんな頭を寄せて、これを何とか抑える方向をということで、そういう一種の解釈改憲が行われていたら、力関係で七、三で関東軍有利でも、それは憲法、こちらに味方があれば五分五分には持っていける、あるいは抑えられたかもしれない。だから、六、四だったときに、憲法が我に味方する、戦争反対というか侵略反対の方に憲法が味方してくれれば、六、四の世論というのは五分五分か、逆に四分六分まで持っていけるかもしれない。だから、憲法というのはおっしゃるほど自由ではない。
 だから、平和のときには憲法というのは神棚に上げときゃいいんですけれども、危機になったときにどういう憲法を持っているかというのは、かなり決定的な意味を持つんじゃないだろうか。それが僕は、美濃部さんの憲法、昭和二年の憲法がだらしないと言っているゆえんで、あそこで何も、関東軍司令官天皇に直隷して、完全に自由だなんて憲法論を書く必要はないんじゃないか。それは大きかったかな。だけれども、美濃部さんがそういういい憲法論を書いたって、関東軍を抑えられたかどうかはまた別問題ですけれども、力関係は、憲法が味方するかしないか、時の内閣にとっては大きな違いだということだ。
○藤島小委員 明治の元勲が一生懸命つくったわけですけれども、その後も不磨の大典としてもう祭り上げられちゃって、結局大戦になったということなんですけれども、当時、つくった人たちはやはりそういうふうに、全然手が加えられないで憲法がそのままずっといく、そういうふうに考えてつくっておったんでしょうか。それとも、まあこれはある程度、暫定とは言わないまでも大ざっぱなものだから、いずれ後世に手が加えられるだろうというふうに考えておったんでしょうか。
○坂野参考人 きょうの私の報告のポイントは、いかに解釈改憲がなされていたのかということであって、不磨の大典というのがきょうの報告の意図ではないんです。憲法というものは、一生懸命学者も苦労し、政治家も苦労すればいい方に解釈できるんだ、それで美濃部さんがどこまでやったか、しかし最後にどこまでやれなかったかという話をしたんであって、ですから、制定過程から左右の議論があって、それは当然、できた成文憲法の解釈の幅を持たせている。
 だから、憲法というのはかなり融通無碍なものであって、戦前の人たちも、ああいうふうにならないために随分解釈改憲はやった。しかし、憲法改正はだれも考えていなかった。なぜならば、やはり何といっても明治十四年七月から二十二年二月までかけて、相当な苦労をして、福沢系のリベラルの意見もある程度組み入れながら、八年間かけてつくった憲法というのを、これはちょっと変えようという気にはまずならない。できることは、だから、保守派の方は制定時にあった保守的なエレメント、リベラルな方は制定時にあったリベラルなエレメントに基づいて解釈改憲していくんだという話なのではないだろうか。
○藤島小委員 おっしゃるように、やはり解釈改憲というのは一つの方法だと思うんですが、それに対して、今の憲法ももう五十年もたつんですが、九条の問題に関しては、政府はかたくなに解釈を変えようとしない。本当は、もうその点は変えていった方がいいんじゃないかなという気がするんですが、それは今の憲法の問題ですからあれですけれども。
 この憲法、つくったときの考え方ですね、天皇の位置づけについて、英国の当時の考え方とは大体合わせていたということになるんでしょうか。
○坂野参考人 半分非学問的に、半分学問的に答えますと、イギリスの憲法は慣習法で、書いていない。それを書いた場合にどうなるのかというと、割と明治憲法に近くなるんじゃないか。一番近いのは交詢社交詢社のさっきの私擬憲法。だから、学界の中で、一部ですけれども、明治憲法は、言われているほどのプロイセン型というよりは、幾分、もうちょっとイギリス型に近いのではないだろうかという解釈もあります。
 それを言うために、きょうは、井上毅の十四年七月のごりごりの案と、それから美濃部達吉のほとんどイギリス型の解釈と、中をとった伊藤博文の玉虫色というか灰色の解釈と、三つ話したのはそのためなんです。だから、明治憲法はイギリス憲法だと言ったらイギリス人は怒りますけれども、全くその要素がないかというと、御指摘のとおり、ある程度はあるということです。
〔第4号(平成15年5月8日)〕
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/012615620030508004.htm

憲法が国のあり方、人の生き方を規定するのか、それとも人が望む生き方に合わせて憲法を規定するのか。大事なのは誕生の歴史的経緯よりもそこの部分だと思う。