パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

柳本啓成とその時代

広島の選手、日本代表の選手として一時代を築いたにもかかわらず、広島サポとは感情的なもつれがあるからか、その引退もあまり話題にならなかったけど、せっかくなので柳本の個人的な思い出をまとめておきたい。なるべく公式記録を検索したりはせず、自分の記憶に頼って進めたいので間違いがあっても御容赦を。以前に書いたことと被る部分も多々あるが御容赦を。こちら(http://www5c.biglobe.ne.jp/~sanf/all/1992/yanagimoto.htm)のサイトを参考にさせて頂いた。それから敬称略で。

日本代表に選出されたとき加茂監督が「柳本は6つのポジションをこなすことが出来る」と発言し、知り合い達と「6つのポジションとはどこだろう?」という議論が起きたものだ。「加茂の頭の中ではボランチも出来ることになっているらしいが実際は無理だろう」というのが我々の結論だった。今ふりかえると、センターバックとしてストッパーとスイーパー、3バックでの左右ウィングバック、4バックでの左右サイドバックと考えれば、6つになるかなという気がする。適性としては、セレッソ時代にしていた3CBの右が一番合っていたのではなかろうか。坪井(浦和)のプロトタイプとでもいおうか。
自分が知っているのは1994年からなので、それ以前は他サイトに頼る。Wikiによると、柳本は1991年にマツダSC入り、当初はサテライト的扱いのマツダSC東洋で修行、92年にJリーグ正式加盟が決まり、招聘されたバクスターに見出され、93年は右サイドバック、94年はセンターバックとしてプレーした。今年初め、サッカー雑誌に坪井の師匠である福岡大監督のインタビューが載っていたが、それによると大学時代の坪井には短所である足技の矯正ではなく、長所であるスピードをうまくディフェンスに活かす訓練を行ったという。無名の高校生だった柳本が結局キックの精度は上がらないまま、日本代表にまで登り詰めたのも、社会人〜プロになってからの長期的視野に立った訓練の賜物だったのかもしれない。当時はプロにもその余裕があった。今は高卒選手が出番もないまま3年でクビになる時代である。輝かしい未来が待っていると云われたユース代表経験者で期待通りの成長をした選手がいるだろうか(宮本や松田だって期待程では…)。逆に日本代表ディフェンダーは這い上がってきた選手ばかりではないのか。現代において、プロとして育てながら使う余裕がない以上、経験とフィジカルが出来上がってみないことには分からないディフェンダーは、大学を卒業するまで獲得するべきではないと思うのだが、これ以上は本筋から逸れるので終了。
95〜96年は、代表では左右のサイドバックを務めた。左サイドも出来ることになっていたが、左足でまともなクロスを上げられた記憶がない。95年頃は名良橋や中村忠とレギュラーを争い、96年は完全なレギュラーになった。春先に香港でやったポーランド戦で、対面のチトコを抑えた試合辺りが記憶に強い。それからキリンカップのユーゴ&メキシコ戦辺りまでがワクワクとして楽しかったピークか。年末のアジア杯でミラン・マチャラのクウェートにサイドを塞がれて完敗した辺りで終了。記録を見ると、97年春までは代表の試合で出ていたようだが、その後は怪我で離脱していった。約2年というのが長いのか短いのかは分からないが、代表ホームゲームがやたらと多く、日本サッカーが右肩上がりの中で鮮烈な印象を残した幸福な2年間だった。
クラブでは我らがビム・ヤンセンの元、最初は3バックの右をしていたと思う。倉敷マスカットスタジアム(野球場)のこけら落としにサンフ対ディナモ・モスクワという渋いカードを観戦したときはそうだった。後にロシア代表となるチェリシェフと丁々発止のサイド対決をしていた。ヤンセンサッカーは3バックが大きく広がり、サイドハーフはラテラルというよりオランダ風ミッドフィルダーが好まれた。そうこうするうちに森山が干され、片野坂が干され、ついでにハシェクも干されて、バクスター時代とは違うチームになってしまった。柳本は2ストッパーの後ろで余る役割になっていたはず。当時、最後尾で余っている柳本が目の前の相手FWにパスして大ピンチになるのを「スーパー自殺パス」などと笑っていたが、いくらスピードがあってカバーリングに優れているといっても、今のようにチーム全体で連動して最終ラインまでプレッシングする時代には、危なっかしくて無理。最後尾からファンルーンめがけて放り込んでもチャンスになる気がしなかったし、そういうレベルの時代だった。
そういえば、本田(鹿島)が代表初にして唯一のゴールを上げたとき、柳本と一緒にすごくはしゃいでいた記憶がある。恐らく代表キャップがかなりあるのにノーゴール同士、どちらが先に初ゴールをするか、賭けていたのではないかと推測するが、その辺りを聞いたインタビューは記憶にない。調べてみると、本田がゴールを上げた97年3月のネパール戦は柳本の代表ラストゲームで、結局代表ではゴールを上げることが出来なかったことになる。もっともJリーグでも柳本がゴールを上げたのも94年のみ(4ゴール)。ほとんどがセットプレーからのヘディングだったと思う。低身長の割に抜群の身体能力でヘディングは強かったが、代表では小村や井原が上がるし、ヤンセン以後のクラブでもハーフウェイライン付近でカウンターに備える役目を担当することが多かった。スピードを持っているから当然といえば当然だが、本人はたまにはゴール前の密集で攻めたかったのではないだろうか。
97年3月を最後に、代表の試合には出ていないが、結局、ワールドカップ予選では10月の中央アジア遠征まで同行していたはず。クラブでも満足に出場出来ていないのに、加茂監督は何を考えているのやら、という声はよく聞いたが、逆にいえば怪我をしているのに代表へ行くな、という話でもある。今では怪我を理由に代表を辞退しておいて、クラブの試合に出るようなケースもあるというのに。代表至上主義の時代だったのか、その当時でも柳本の選択はおかしかったのか。あの時代の空気を覚えていないので何ともいえない。
97〜98年は、クラブではエディ・トムソン時代。97年は怪我でほとんど出場出来ず、代表も遠のき、加茂監督も解任されたので、右サイドにこだわる理由はなくなっていたともいえる。97年末、経営危機により森保/高木/路木が放出される(案外ベテランのチーム仕切りを嫌ったトムソンが放出を望んだのかもしれない)。一方、柳本は自ら移籍を希望し、浦和との契約がまとまっていたらしいが、メディカルチェックに引っ掛かって御破算となる。翌98年は干されて出場していなかったと記憶していたが、記録をみると実際には結構試合に出ている。トムソンはセンターバックに上村/宮澤/伊藤哲/ポポビッチ/フォックスなど屈強なタイプを好み、柳本は念願の右サイドで起用されていたようだが、結局シーズン末にガンバ大阪へと移籍。今ならば、監督と対立したり、移籍が御破算になった時点で、元のチームには居辛いだろうし、J2等にレンタル移籍などをさせるだろうが、当時は代表クラスの選手が出場の機会を求めて移籍なんてことも珍しかったし、そもそもまだJ2もなかった。段々と選択肢が増えてきたのはその後のこと。
1999〜2002年までガンバ大阪に在籍。「大観衆の中でプレーしたい」と浦和を熱望したくせにガンバかよ万博かよ、と思ったことを覚えている。怪我がちだったため試合にも出ていなかったような気さえするが、2001年には30試合中28試合に出場しているのだから、レギュラー格だったといってよいだろう。右STまたは右WBとして起用されていたようだ。正直あまり印象がないというか、EURO96に合わせてWOWOWに加入して以来、自分がどんどん海外厨になったピークの頃だから、ガンバどころかサンフの記憶も不確か。その後2002年に西野監督が就任、その年末にセレッソ大阪へと移籍。戦力外だったのか、監督と合わなくて自ら希望したのか、これもよく分からない。ところで西野監督といえば、アトランタ五輪の頃、一部で「オーバーエイジに柳本待望論」があった。「右WBに遠藤兄やら中田英やら無理して起用するくらいなら」と。2000年シドニー、2004年アテネを経て、オーバーエイジはチームの根幹から変えるような大物は困るから、ウィークポイントを補強するような職人が良いというのが一般的な認識だろう。アトランタ世代は1973年以降生まれで、柳本は1972年生まれ。年上過ぎて威圧するタイプでもないし、年代別代表に選ばれたことがないから海外試合の経験も乏しいし、一番オーバーエイジに相応しい選手だったと今でも思う。もちろん10年以上経ってから振り返った結果論だし、五輪代表に帯同していたら夢のような1996年フル代表を経験出来なかったかもしれないし、何ともいえない。
2003〜2006年まではセレッソ大阪。これまた怪我との戦いだったり、ころころ変わる監督との相性もあったりで、常時出場出来たとは言い難い。2004年末にサカダイへインタビューが載った。その中に書かれている内容だと、シーズンオフには南国でマリンスポーツを楽しむなど、職業としてのサッカーとオフの人生をうまく切り替えて満喫している印象を受けた。代表に選ばれることにこだわり、観客の熱いクラブを望んだ過去の印象とはずいぶん違った。怪我に悩まされ、本人の中で「もう代表はいいや」と割り切るようになったのだろうか。そんな心境の変化等も聞いてみたかった。この時のインタビューだと、引退後はサッカーに関わらないのかとも思ったが、今年1月のC級コーチ講習会に名前があったので、どうやら指導者を目指すつもりか。身体能力だけで何も考えてなさそうだったけど、仲の良かった笛が好指導者になっているそうだし、高木も名監督の片鱗を見せているし、案外とバクスターの弟子達は皆コレクティブなサッカーを構築していくのかもしれない。

タイトルに「柳本啓成とその時代」と付けたのは、伊達や酔狂ではなく誇大広告でもない。Jリーグ公式サイトにあるJ1出場試合数ランキングの上位50人のうち、1993年つまりJリーグ開幕から2006年末までプレーしている現役選手を拾うと、秋田/小村/平野/山口素/本田/柳本/中西/岡山/カズである。このうち小村/山口素/カズは過去にJ2でプレーした経験あり、秋田も今シーズンからJ2へ、平野はMLSへ、岡山はシンガポールへ行くらしい。そして本田/柳本/中西は引退した。ということは、これでJリーグ開幕からJ1でプレーし続けている選手は一挙に1人もいなくなった。2006年末はまさに時代の区切りだったのだ。柳本啓成、J1で320試合出場(史上14位)。広島で8年、大阪で4+4年。Jリーグに育てられた若手、五輪&代表ブーム、J2の誕生等々、Jリーグ14年の歴史と時に重なり、時にすれ違った男が引退した。そして明日から15年目のシーズンが始まる。

余談だが、1993年から2006年まで、J1全試合に出場していたら何試合になるか数えてみたら、36+44+52+30+32+34+30+30+30+30+30+30+34+34=476試合。95年の52試合というのは現在のJ2より過酷なわけで、改めて頭のおかしい時代だった。その中で現在までの最多は秋田の392試合、初の400試合出場選手は1994年からプレーしている藤田と予想されている。この先記録を伸ばしそうなのは高卒から割と早くレギュラーとなり、監督の好みで干されることもなく、海外へ行くこともない伊東輝だろうか。