パロップのブログ

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『密偵』

作中のどの人物をとってみても、読者がその中に没入し、共感を感じ、同情をいだける人間はひとりもいない。〔P.112〕

十数年前、大学図書館の書庫で手に取った文学案内書にあった上の一文を読んでコンラッドの『密偵』に惹かれた。その本を手に取った理由は、旧東欧好きとしてポーランド系作家について小説は読まずとも略歴くらいは知っておこうというお手軽な発想と、確か当時『密偵』を原作とする『シークレット・エージェント』という映画が公開される時期で、軽く粗筋を知っておきたかったからだと思う。一文に惹かれた理由は、自分の物語観ードラマにしろ小説にしろ物語というのは良い奴から悪い奴まで様々な人間が入り乱れる様子を描くもので、それを「彼ら全員が必要な登場人物」だと慈愛に満ちた神の視点で眺めるのが楽しいーに合っていると思ったから。当時は共感出来る主役の視線で物語に移入し、仇役を悪く言う、いわんや、仇役を演じる女優を悪く言う妙な風潮があり、個人的に反感をもっていた。
しかし、映画は評判が悪いので観に行かず、小説も岩波文庫版が絶版になっているのか、古本どころか新刊でも見かけず、借りて読むのもなんなのでスルーする状態が続いた。21世紀になり、簡単に古本を通販で入手可能なインターネット時代が訪れたが、やはりここは偶然の出会いを楽しみたいとあくまでもスルー。そして数年前にようやく古本屋で発見し、入手することが出来たが、まとまった時間の中でじっくり読みたいからそのまま放置。ようやく無職となった今こそ読む時とばかりに読み始めたが、半分ほど読んだ時点でどうにも面白くない。この先どうなるのかと気になったり全然しない。これは読み方が間違っているのかと考え、図書館へ行って補助線を引いてくれそうな解説書を探した所、武田ちあき『コンラッド』(勉誠出版、2005年)という面白そうな本を見つけた。これまでのコンラッド解釈とはひと味違う斬新な解説のようで、以下に少し引用する。

そしてコンラッドの語りに一貫して見られる姿勢、「対象から距離を置いた視点」もまた、「モダニズムの無味乾燥な客観」ではなく、そのまったく逆で、バイタリティあふれる民衆の生活の歴史のなかで培われた「物事に呑みこまれず笑い飛ばす、東欧のユーモア感覚」を醸す、きわめて人間くさい語りの形式なのである。〔P.24〕

最初に掲げた一文を正確に引用するため、今回改めて『20世紀英米文学案内3』(研究社出版、1966)を借り、渥美昭夫氏による『密偵』の解説部分を読んだ。そこには十数年前には目に入らなかったことが書いてあった。

多くの批評家が、『密偵』を「きみのわるい喜劇」とよんでいる。それはメロドラマ的なテーマ(アナーキズム、テロ行為、外国大使館の陰謀、殺人、自殺など)を、徹底的につきはなした皮肉な目で終始ながめているということである。事実、この作品は初めから終りまでアイロニーに終始している。〔P.112〕

「『密偵』はアイロニー小説」という以前から研究者が唱えていたことを踏まえた上で、それを「カフカ的な人間悲劇」(文庫版の後書きに近いことが書いてある)ととらえるのではなく、人間くさい語り口に顕われている「東欧のユーモア感覚」が根底にあるとする。一方で猥雑な対象から距離を置いた神の視点、他方でものすごく人間を人間らしく猥雑に描いた表現方法、ようするにクストリッツァの『アンダーグラウンド』のように楽しむべしということか。しかし自分は『アンダーグラウンド』の現実と幻想を行き来する感じをあまり楽しめなかった人間なので、この時点で『密偵』も難しい予感がした。武田本からさらに引用。

また『密偵』は自然主義小説の大河にあってこの濁流に呑まれることなく、水面を飛び移って気まぐれにそこかしこの泡沫と戯れ、アナーキズムやダイナマイトをも一個の玩具としての石投げに興じ、「真剣さが滑稽さを生む」皮肉を存分に描き出したブラック・ユーモアの傑作であり、いわゆる「スパイ小説」や「政治小説」なのではなく、逆にその痛烈なパロディなのである。〔P.18〕

つまりは、ベタではなくネタとして肩透かしを食らう部分を楽しめということだろうが、やはりパロディというのは、元ネタを知ってこそという気がする。元ネタである冒険とスリルに満ちた帝国主義時代の大衆小説を読んだことがないのに『密偵』で笑うのは難しい。
以上のこと、お勉強した上で後半戦に挑んだものの、予想通り最後まであまり面白くなかった。アイロニーを楽しむ、語り口を楽しむ、パロディを楽しむ。自分にはどれも難しい。外国文学には日本のような純文学と大衆文学の区別はないそうだが、この『密偵』は文学者のためにある純文学という印象は否めない。アーウィン・ショーみたいに読み終わった後に何も残らない小説が好きだ(あれこそは日本でいう大衆文学なのか)。出てくる人物が皆どうしようもなく歪んでいるといえばエルロイの方が物語としてワクワクしたし。とはいえ、武田氏コンラッドに関する以下の文章は心に残った。

「偉大な観念に仕える偉大な人々」という神話は崩れ去る。しかしそれでも、いや、だからこそ、「何かの観念に仕えよう」とする人々の真摯さ自体に、コンラッドはある種の真実を見出す。「陸地はひとつの船でしかない。」国家には絶対的な正義などそなわっていない。システムはあくまで相対的なものにすぎず、板子一枚下には地獄が逆巻く、揺れる船そのもの。それを沈ませずに存続させるのは、ただ、ひとりひとりの地味な帆さばきと綱さばきの共同作業のみ。はかない世界を支えているのは、まさしく船員と同じく「仕事の倫理」と「連帯感」なのだとコンラッドは思い至る。(中略)とうてい受け入れがたい現実をそれでも受け入れようとするときに、事実を曲げたりごまかしたり、顔をそむけたりうつむいたりせずに対峙する方法。それが、社会のもろさも人間の一途さも、すべてを笑劇ととらえてそのままに受けとめるというコンラッドの作家的態度だった。〔P.34-35〕

「世界を眺める時は相対主義的であっても、世界と関わる時は倫理観や連帯感を大切にしたい」という自分の人生観と、コンラッドのそれは重なる部分があると思うので、物語として楽しめないことを踏まえた上で、いずれまた『密偵』以外のコンラッドの小説を読んでいきたい。

密偵 (岩波文庫)

密偵 (岩波文庫)


ちなみに、映画はまだ見ていないのだが、武田氏によると相当な傑作らしい。

1996年の映画版はこの小説のとぼけたばかばかしさを存分に出した傑作であり、脚色により本来の間合いと持ち味を浮かび上がらせた点では、エマ・トンプソン脚本・主演による『分別と多感』を思わせる。キャストも超豪華だったが、日本では公開初日すでに客席は閑散、わずか一週間で上映打ち切りとなった。〔P.203-204〕

まともな研究書の中でこういうことを書いちゃうところがお茶目というか、新しい世代の研究者なんだろうと思ったりした。ある映画サイト(http://www.spoinc.jp/movie/archive_detail.php?movieid=43&PastListMovie=9275cdf44bcf741b9376)によれば、公開時のキャッチフレーズが「世紀末を狂わせる戦慄の破壊工作!」だったみたいなので、そりゃあ文芸作品にこんな的外れな宣伝文句を付けたら客だって入るわけがない。

Secret Agent (1996) [VHS] [Import]

Secret Agent (1996) [VHS] [Import]