パロップのブログ

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BS1『BSドキュメンタリー』〈証言でつづる現代史〉「アフガン侵攻はこうして決定された」

2006/9/30初回放送、50分、撮影:エフゲニー・コクーセフ、取材:岩本善政、ディレクター:馬場朝子、制作統括:塩田純/佐橘晴男、制作・著作:NHK
ロシアの公文書に基づくドキュメンタリー制作に定評がある馬場氏の最新作。タネ本もなく、外部プロダクションやらNHK-JNやNHKエンタープライズ等の関連会社に頼らずとも、資料に基づく外国ものドキュメンタリーを制作出来るのだから、その人脈のすごさが窺える。また、貴重なロシアの一次史料があるとそれに頼ってしまいがちになりそうだが、当時のアフガン政府高官や米国関係者にインタビューして多面的に作っているところも高ポイント。
侵攻は自分が5歳だった時の出来事だから詳しくは知らない。情報としては侵攻を起点として、五輪ボイコットしたところまでしか耳に入らなかった。実際には、王制打倒して共和政→共産主義によるクーデタ→社会主義的な改革→イスラム主義者・共和派・王党派の反発→ムハメド・タラキ大統領によるソ連軍派遣の要請→タラキ(理論家)とハフィズラ・アミン(実務家)の対立→アミンの実権掌握とタラキ殺害→ソ連がアミン排除を決定、という前後の流れがあるらしい。
番組中のインタビューで、

(ナレーション)「グラブゾイ氏はタラキ政権で内務大臣を務め、アミンに更迭されました。アミンはアメリカの外交官と頻繁にあっていたと言います」
(サイード・グラブゾイの証言)「アメリカはアミンに多額の援助をしていました。アメリカはアミンを支援して彼の権力を強くしようとしていました。アミンは賢かったので、うまくソビエトとも付き合い、利用していました。本当はソビエトを嫌っていましたが、ソビエトがそれに気がついているとは思っていませんでした。その上アミンはイスラムの聖職者たちと接触し始めました。自分の政権を強くするためイスラム勢力を使おうとしたのです。そして自分が独裁者になりたかったのです」

と、第三者的に証言しているグラブゾイ氏だが、検索すると、タラキ派幹部としてソ連軍の援助を求め、アミンを暗殺しようとした仲間だった。どっちもどっちというか、証言自体あまり信頼出来ない気もする。
また、番組のナレーションでは、

ソビエトチェコスロバキア大使だったカルマルと11月から接触、アミン排除後のリーダーとすべく密かに準備を進めていたのです。軍事侵攻の目的はアミン政権を倒し、ソビエトが信頼出来るカルマル政権を樹立することでした

といかにも傀儡政権として扱いやすい小物を擁立したような印象を与えるが、検索してみれば、カルマルはアフガン共産党の創設メンバー、二大派閥の一方のリーダー、タラキと対立して権力闘争に敗れて僻地に左遷されていたが、傀儡政権に相応しい格がある人物であるともいえる。結局、国のリーダーがタラキだろうがアミンだろうがカルマルだろうが、共産党政権にイスラム勢力は反発しただろうし、米国がイスラム勢力に武器を与えれば内戦になっていただろう。
それから、ソ連軍に殺害されたアミンの未亡人に、

あれから30年近く経ちますが、まだあの日の夢を見ます。…夫はアメリカにもソビエトにも経済的な援助を求めました。しかし軍隊は求めていません。…アフガニスタンに外国の兵士は必要ないのです。

と言わせ、NATO軍が駐留するアフガンの現状とリンクさせた批判を代弁させているが釈然としない。自分のだんなが政敵を次々と粛清し、自分は宮殿でのうのうと暮らしていた人が、一家揃ってソ連軍に急襲された場面を涙ながらに語る姿から、イメルダ・マルコス臭がする。もしソ連軍の侵攻がなかったら、おそらくアミンはフセイン、アサドと並ぶ中東三大独裁者になっていただろう。確かフセインは米国寄り、アサドはソ連寄りだったが、ではアミンのアフガンはどうなっていたか。国内では反対勢力を粛清しつつ、国際的には米ソ両方に色目を使った中立政策で讃えられていた可能性は否定しない。
結論としては「縦糸として以前からアフガン人政権の内部で血で血を洗う抗争があった」「横糸としてその背後には米国とソ連グレートゲームがあった」「たまたまアミンとソ連の相性が悪かった」「ソ連は道義的にどうこうではなく、コストが掛かる間抜けな侵攻をやっちゃった」。誰に、どちらに理があるとかあまり言えない。
番組的に一つひとつの事実関係は間違っていないが、ラストのナレーションで、

1979年のソビエトのアフガン侵攻、大国の小国への軍事介入がその後も負の連鎖をもたらしました。世界は未だにそれを解決出来ずにいます。

と言いたいがために、やや無理な論理展開をしている感は否めない。